天狗の盃

大林 朔也

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友と 4

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 黒天狗は既に軒下で月を眺めていた。雲ひとつない夜空に浮かぶのは、弓を張ったような月だった。 
 銀色に輝く月は、今宵も美しい。
 月に照らされた紅葉は、また格別だった。
 色は失いつつあったが、黄色は月の光を吸収したかのように荘厳な輝きを放ち、赤は情熱的で、橙色は寒さを忘れさせてくれるかのような温かい色を発していた。
 この場所で見る月と紅葉は、本当に綺麗だった。

「ほら、昌景」
 紅天狗は立ったまま月に見惚れている僕にそう言った。

 僕が座ると、青い瞳がチラと僕の方を見た。

「あの…こんばんは」
 と、僕は言った。
 何を言っていいのか分からず、咄嗟に出たのがその言葉だった。もっと気の利いた言葉もあったのかもしれないが、黒天狗も低い声で返してくれた。

「美味いぞ、昌景」
 紅天狗はそう言うと、ガラスの酒器を渡してくれた。酒器は月の光を浴びて美しく輝き、注がれた酒に映るのは色鮮やかな紅葉だった。
 風が吹くと品のある香りがして、男を心地よい酔いへと誘ってくれるだろう。さらに揺れる紅葉が、美しい音色を奏でていた。肴として刺身と肉も用意されていて、それらも美しいお皿に盛り付けられていた。

 僕は満たされながら夜空を見上げた。
 宝石のように流れていく星を見ていると夢見心地になり、あらゆる怖さを忘れてしまったのか僕は口を開いた。

「あの…黒天狗さんは…何処からいらしたんですか?」
 
 黒天狗はすぐに答えようとはしなかった。青い瞳は、月に向けられたままだった。
 紅葉の揺れる音が、その問いをかき消してしまったのではないかと思えた頃に、黒天狗は口を開いた。

「さんは、いらぬ。黒天狗で、よい。
 遠いところだ」
 黒天狗は素っ気なく答えた。
 何も答えてくれないのではないかと思っていたので、僕は少し嬉しくなった。

 それから言葉はなく、3人で静かに酒を飲み肴を食しながら、美しい夜空を楽しみ、揺れる紅葉の音に耳を傾けていた。
 満月とはまた違う表情を見せる月の美しさに酔いしれていると、優しい笛の音が葉音に合わさっていった。
 銀色の瞳を閉じて笛を吹く男の横顔は、刀を握る際に見せる荒々しさはなく心を奪われるほどに麗しかった。男が何を思い、毎夜のように笛を吹き、紅葉を咲き誇らせ続けるのか…僕はたまらなく知りたくなった。
 だが、この優しい笛の音を止めることはしたくなかった。瞳を閉じながら隣で奏でられる笛の音に聞き惚れているうちに、僕は眠りに襲われて柱に寄りかかった。

(これは…きっと…夢なのだろう。
 いつものように…布団の中から笛の音を聞いている。
 黒天狗と一緒に酒を飲んでいるなど…あるはずもない)
 僕は深い眠りに落ちていったのだが、心は響き渡る笛の音と月の光に向けられていた。それは男達の話し声が合わさって笛の音のようになったとしても、同じであった。




 青い瞳は笛の音に耳を傾けながら月と色を取り戻した紅葉を見つめていたが、鴉が空を飛び半月を横切っていくと、柱に寄りかかりながら寝ている人間の男を見た。

「この男、眠ったようだな。
 腕は切られ、足にも妙な泥がこびりついていたが、自らの足で歩いて帰ってくるとは思わなかった。
 それに、貴様が刀を渡していたとはな。
 この男は、選ばれし者のみが登れる階段を登った。穢れを洗い流し、自らが歩んできた道を回顧し、何らかの力を得たのではなかったのか?
 何故、刀まで渡した?」
 黒天狗は咎めるような口調で言うと、酒を口に含んだ。

「あぁ。力は得たさ。
 歩んできた道に、相応しい力をな。
 ここで生き抜く為に、本来以上に視覚以外の感覚が発達した。昌景が目を閉じれば、鋭くなる。
 だが、超えた力の代償は大きい」
 紅天狗はそう言うと、笛を膝の上に置いた。

「いつも嫌なことから目を逸らしてきたと、昌景は言っていたよ。
 力は昌景を守るだろうが、音とニオイに過敏に反応し、見つけられやすくもなった。力が倍増したことで、抱く恐怖も大きくなった。
 力を得たといえども、それは弱点にもなってしまった。
 だから刀という道具を与えた。道具は主人が扱うモノだ。昌景が戦わぬのなら、それはなんの意味も持ちはしない。心の臓を握られるようなことは、してないさ。
 昌景は刀を使い、妖怪と懸命に戦っている。その姿は、見ていて楽しい。数週間のうちに、驚くほど成長した」
 紅天狗は酒を口に含むと、自らの羽織を脱いで夜風に吹かれながら柱に寄りかかっている人間の男にかけた。

「そうか。だが、焦りの色が見えているぞ。
 急げ。時間は、もうないのだろう。
 だから、私を呼んだ」
 黒天狗がそう言うと、紅天狗はただ口元に笑みを浮かべるだけだった。
 月の光に照らされて、お堂に覆い被さっている紅葉が輝きを放つと、黒天狗は空っぽになった酒器を置いた。

「貴様は、嘘をつけぬ男だからな。
 異界のものなどでは騙されぬぞ。
 今回ばかりは、高くつくぞ」
 鋭い口調で黒天狗は言うと、自らの手で酒を継ぎ足した。

「ならば、天狗の面といこうではないか」
 紅天狗が空を仰ぎ見ながら言うと、黒天狗の酒を注ぐ手が止まった。

「それほどの覚悟か」

「あぁ、もとよりそのつもりよ。
 盃を取り戻す為に、鬼の領域に連れて行くと決めた時から、その覚悟があってのことよ。
 昌景一人に荷は負わせんさ。
 俺はなんとしても昌景を生きて還す。
 その命と引き換えに世界を救うなど、昌景の読んでいる物語だけで十分だ。 
 昌景には、昌景の物語がある。
 物語は、盃を手にしてからも続いていかねばならん」
 紅天狗が険しい表情で言うと、黒天狗は酒器から溢れそうになるほどに酒を注いだ。



「取り戻す…か。
 鬼も夜毎人間の肉を食らう時を取り戻したいと思っている。
 どちらが、先に取り戻すか。
 私には鬼が一斉に飛びかかり、この男を助けようとして、貴様が扇を掲げる姿しか思い浮かばんぞ」

「ならば、お前に思い描かせるまでよ。
 鬼に、その時はやってこない。永遠にな。
 俺が掲げるのは刀だ。
 次に扇を掲げれば、最後だ。俺は、俺ではなくなる。抑え続けた欲望が爆発するからだ。
 ニオイは濃くなった。一部は、全てになろうとしている。ニオイを発していないのは、ヨチヨチ歩きの幼子ぐらいだ。焼土の地で、幼子だけでは生きられん。
 それはつまり、人間の世界の終わりを意味する
 奴等の狙いは、ソレだ。狙い通りになど、させはせぬ。
 勝つのは、俺でなければならぬ」
 紅天狗は溢れ出そうになっていた友の酒器を手にし、一気に飲み干した。自らの手で酒を注いでから、友にその酒器を渡し、美しく輝く星を眺め始めた。
 その瞳には、きらめく星の光を見ることができた。

「そうか…奴等、喰らうて、そこまでになったか」
 と、黒天狗は低い声で言った。友が注いだ酒を飲むと、銀色の瞳をじっと見つめた。



「俺の羽の色が変わり、俺は黒羽の矢を放った。
 もし俺がいない時に「選ばれし者」が来るようなことがあれば、日が暮れるまでに堂の中に案内するようにと楓に頼んでいた。
『人間を食いたい』と吐き続けた呪詛が、結界門の僅かな隙間を通り、この山にも充満しているからな。漂う空気だ。生きている限り、吸い込み続ける。門を閉じたとしても、それは完全ではない。夜になれば、奴等の力が動き出す。呪詛にかかれば、引き摺り込まれる。
 そうそう…俺は矢を誤って放ったらしい。
 そろそろ俺の中の黒い部分が動き出そうとしているのかもしれん。ニオイのもととなる腐肉を殺すことを、心のどこかでは…望んでいるのかもしれんな」
 紅天狗は小さく笑うと、酒の肴の肉を食らった。

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