天狗の盃

大林 朔也

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月夜 桔梗 4

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 それから共に軒下で過ごしていたのだが、桔梗は夜空に満月が輝き出すと静かに口を開いた。

「紅天狗様…空を飛ぶとはどのような気持ちなのでしょうか?きっと素敵なのでしょうね。どこまでも続く青い空に、煌めく星空。
 わたくしに翼があれば、今日の散歩のように、紅天狗様と一緒に空を飛ぶことが出来るのに。
 そうすれば、あの光に…手が届くのでしょうか?」

「なら、俺と空を飛んでみるか?」
 紅天狗がそう言うと、桔梗は少し躊躇ってからコクリと頷いた。

「それ、癖なのか?」
 紅天狗がそう言うと、桔梗は不思議そうな目を向けた。

「そのコクリとやるやつだよ」
 と、紅天狗は言った。

「そう…なのかも…しれません。気がつきませんでした。
 わたくしの癖は…嫌でしょうか…?」

「可愛いよ。俺は、その癖好きだ。
 いや…桔梗だからこそ…可愛く見えるのかもしれんな」
 紅天狗が可愛いと繰り返すと、桔梗の頬が真っ赤に染まっていった。

「あまり…子供扱いなさらないでください。わたくしは…大人の女でございます」
 と、桔梗は言った。

「あぁ…そうだな。可愛いとは、失礼だな。
 そう…お前は、大人の女だ。この腕で抱き締め、誰にも渡したくないと思うほどにな」
 紅天狗がそう言うと、桔梗は驚いた目で男を見つめた。
 男は真っ直ぐな目で、女を見つめていた。愛しい女にだけ向ける優しい微笑みを浮かべてから、ゆっくりと立ち上がった。

 紅天狗は大きな翼を広げてから、座っている桔梗に手を差し出した。
 
「桔梗」
 紅天狗は低い声で、その名を呼んだ。

 桔梗は差し出された大きな手を握ると、緊張した面持ちで紅天狗を見つめた。

「体を寄せろ。左手は、俺の背中にでも回しておけ」
 紅天狗がそう言うと、桔梗はそっと男の背中に手を回した。
 
 紅天狗もまた柳腰を片腕で抱き寄せると、桔梗の体はすっぽりと包み込まれた。男の体は力強く、夜風の冷たささえ感じなくなった。柔らかい自分の体にはない男の逞しさに胸が高鳴った。
 その音を紅天狗に聞かれたのではないかと思うと、桔梗はふと顔を上げた。男の瞳は、自分を見下ろしていた。その眼差しは、桔梗を安心させるかのように穏やかだった。
 翼さえなければ、人間の男と変わらない。胸の奥が、ザワザワと揺れ動いた。

「いくぞ」
 と、紅天狗は言った。

 風が巻きおこり、地面からゆっくりと足が離れていくと、桔梗は男の腕の中でビクリと体を震わせた。

「怖いか?」

「いいえ…大丈夫です」
 桔梗は腕の中で小さくなりながらもそう答えた。

「そうか。ならば、もっと上昇する。
 しっかり掴まってろ」
 と、紅天狗は言った。

 桔梗は自らの心臓の音が聞こえそうなほどに緊張していたが、男の腕の力を感じると不思議と安心することも出来た。
 ゆっくりと顔を上げると、木々よりも高くなっていて空を飛ぶ鴉の姿が目に入った。星が煌めく空にどんどん近づき、何も遮るものがない世界で満月の光を感じるようになった。
 その光は、あまりにも美しい。
 夢を見る少女のような目で月と星の煌めきを見ていたのだが、桔梗は突然目を閉じて下を向いたのだった。

「どうした?大丈夫か?
 もう少ししたら、慣れるさ」
 と、紅天狗は言った。

「少し…怖くなりました。
 いつか慣れるといいのですが…空を飛ぶのは素敵ですが、わたくしは地に足をつけていないと緊張するようです。
 せっかく空を飛べたのに嬉しいというよりも、恐ろしいという気持ちが大きくなってしまいました」

「大丈夫だ。
 俺は、桔梗を離しはしない」
 紅天狗がそう言うと、桔梗は紅天狗の背中に回していた手に力を込めた。

「ありがとうございます。紅天狗様がこうして守ってくださるので、叫び出さずにすみます。
 あの…月の光が…あまりに美しいので…わたくしは…恐ろしくなったのかもしれません。月は全てを見ていて…知っているからでしょうか。 
 わたくしは…なのに、月の光に魅せられて…幸せになる夢を…見てしまうのです」
 桔梗はひどく混乱した声でそう言うと、逞しい胸に顔を埋めていった。

「桔梗、少し休もう」
 と、紅天狗は言った。

 紅天狗は大きな木の太い枝に腰掛け、桔梗を膝の上で横抱きにして座らせた。

「枝に座らせてもいいが、強い風でも吹いたら落ちてしまう。このほうが、安全だ。
 ここなら、満月もよく見える。空を飛んでいるような気にもなれるだろう。嫌なら降りるが、どうだ?」
 紅天狗がそう言うと、桔梗は首を横に振った。

「もう少し…このままで…。
 紅天狗様…ありがとうございました。とても、楽しかったです」
 桔梗がそう言うと、紅天狗は桔梗の顔を見つめながら頬に触れた。

「あっ…」
 と、桔梗はたまらずに声を漏らした。
 男に口付けをされると思ったのだが、男は月の光に照らされた女の美しい顔を見つめるだけだった。

 あまりに見つめられるので桔梗は恥ずかしくなり、空に浮かぶ満月に目を向けた。

「月の光が…紅天狗様を照らしています。そう…あの夜…初めて紅天狗様にお会いした時も、このような満月でした。
 あの時、わたくしを見つけていただいて、ありがとうございました。
 今宵の満月も、とても美しく輝いています」
 桔梗は美しい声でそう言ったが、紅天狗は何も言わなかった。

「紅天狗様?」
 桔梗は不思議そうな顔で、自分を見つめている紅天狗を見た。



「今宵の月の輝きは、たしかに美しい。
 けれど桔梗の美しさの前には、月の光でさえ霞んでしまう。
 俺が見るお前の輝きは増していくばかりだ。
 桔梗、綺麗だよ」
 と、紅天狗は言った。
 初めて二人を出逢わせた満月の光の下、腕の中にいる女を見つめるその瞳には情熱の色が灯っていた。

「桔梗、何の為に生まれてきたのか分からないと言っていたな。
 その答えを、教えてやろう。
 お前は幸せになる為に生まれてきたんだ。お前が俺といることで幸せを感じてくれているのなら、ずっと俺の側で幸せを感じていればいい。
 俺が桔梗を幸せにしてやる。絶対に離さんぞ」
 紅天狗は桔梗を愛おしそうに見ながら言うと、長くて美しい髪に触れた。その髪には自分が選んだ髪飾りが飾られていて、着物も紅天狗が選んだものであった。

 夜の冷たい風が吹き出すと、立派な両翼で桔梗の体を優しく包み込んだ。
 このまま全てが、自分の色で染まってしまえばいい。
 願わくば、以前の暮らしの何もかもを忘れられるほどに、身体の奥まで染め上げたいと思った。

「桔梗、愛してるよ」
 紅天狗がそう言うと、桔梗は驚いた顔で男を見た。

「俺達を引き合わせた満月の光の下で誓おう。
 俺は桔梗を愛している。
 これからも、この先も、永遠にな。
 桔梗、愛しているよ」 
 紅天狗がそう言うと、桔梗は目を潤ませた。
 自らに愛を誓った男の言葉と真っ直ぐに見つめてくる瞳は、真実の光に照らされているのだから。

「桔梗…いいか?」
 紅天狗はそう言うと、そっと桔梗の唇をなぞった。

 桔梗は頬を染め上げながらコクリと頷くと、紅天狗は柔らかい頬にそっと触れた。女の目には男しか映らない。男もまたそうであった。
 桔梗が目を閉じると、紅天狗はゆっくりと唇を重ね合わせた。溶けてしまいそうなほどの感覚を味わいながら、男は女を強く抱き締めて、互いの熱を長い時をかけて感じ合った。
 そっと唇を離すと、男は何度も情熱的な言葉を女の耳元で囁いた。耳や頬にもキスをすると、冷たくなった肌に熱がともり赤く赤く染まっていく。
 男が低い声で愛を囁く度に、女はその強い思いを感じるのだった。時折、自分に向けられる獣欲に満ちた瞳もたまらない。
 女の情熱にも火をつけるような男の熱を感じながら、逞しい腕に包まれていた。頭の芯まで惚けさせるような快感に体がぞくぞくと痺れていくと、桔梗も吐息を漏らしながら男の首筋に手を回していた。

 離れることを忘れたかのように長い間口付けを交わしていたが、紅天狗は唇をそっと離した。
 惚けたような目をした女の頭を撫でると、何度も名前を呼びながら抱き締め続けた。
 このままでは自制がきかなくなりそうだった。
 愛しい女にする口付けは、この身を焦がすほどに体を熱くさせる。全てを賭けてもいいほどに、何もかもを注ぎ込みたい。

 心から、たった一人だけでいいと思えた。

 一方、桔梗はすっかり無防備となり、我慢している男の気持ちも知らず、自らの柔らかい身体を寄せていくのだった。
 紅天狗は満月の光に照らされながら「愛してる」と囁いたが、山奥から異様な音が聞こえてくると、桔梗を抱きかかえたまま静かに地面へと降りた。
 桔梗を部屋へと送り襖を静かに閉めると、紅天狗は異様な音のする異界へと迎って行ったのだった。


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