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第9章 魔王討伐戦、全員無事に帰還せよ

人形の長、アトリを怒らせちゃ駄目だって有名だぞ?

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「……そろそろ、頃合いですね」

水色の目に冷たさを宿したアトリが、頭上の闇を見上げて冷笑した。張りつめた弦が弾け切れたような、小さくて高い音があちこちから聞こえ始める。


「……人形の糸が、切られていく……?」

上から落ちてきた透明な糸を手の平で受け止めながら、ヴィンセントが周囲を見回した。身体から伸びる張り詰めた糸が切れ、操る主を失った人形たちが欄干に傾れ掛かっている。

まるで、傀儡師が焦ったように人形たちを切り離しているようだった。人形たちが力を失くし床に透明な糸が散乱しているのを、アトリは冷ややかに眺めつつ低く呟いた。


「……今更、糸を切ったところで遅い。毒による身体の崩壊は、止められませんよ?」

いつもの穏やかなアトリとは違う、鋭利な声音に目を見張る。それに今アトリは、『毒』と言わなかっただろうか?


……この戦闘で、毒なんていつ仕掛けたのだろうか?
俺は、その痕跡さえも全く気が付かなかった。


驚いている俺の視界を、突然キラキラとした線状の輝きが掠めていった。雨粒のように透明なそれは、肌にぽつりっと小さな衝撃と冷たさを与えたあと、肌の上を軽く跳ねる。次の瞬間には、雫がふわりと白色の冷たい霞にに変わって流れていく。

俺の肌を悪戯に撫でた冷気が、ヒンヤリと心地よい。


「……雨?……いや、氷なのか……?」

淡々とさざめく細かな氷の粒が、暗闇から俺達の頭上へと降り注いでいる。小雨のように降りしきる氷は、服や床に着地した瞬間に清涼な冷気に変わった。重苦しい劇場の空気が、凍雨によって冬の夜のように凛と冴え、密やかに室内の温度を下がっていく。


「……っ?!おい、なにか落ちてくるぞっ!!中心から離れろ!」

周囲に浮かぶ、ふわりとした冷気をぼんやりと眺めていると、近くにいたクレイセルが頭上を見上げながら驚愕の声をあげる。直後に、天井からゴォオォオ……とくぐもった風切り音が耳に届き始めた。

風切り音が明確な轟音に変わると、俺たちがいる一帯が急に仄暗くかげる。全員が劇場の端へ散り散りに飛び退いたのを確認しつつ、俺は頭上に見えた影の正体に目を見張った。


「っ?!!」

落ちてきているのは、この部屋の真のボスである下半身だけの巨大な男だった。宝石が幾つも装飾された深紅の服の裾が、後ろにはためく忙しない音。皺が深く刻まれた胡乱気な顔に、風に煽られて後ろへ乱れる長い白髪と、立派な白髭。

そして、白髪頭に乗っているのは、目映いばかりに黄金に輝く王冠だった。


「……さあ、1人だけ安全な場所に隠れていた『人形の長』とやらの、顔を拝んでやりましょう?」

俺の左隣に退避したアトリは、殊更に丁寧な口調で宣った。言葉の端々に剣呑な雰囲気を感じて、何気なくアトリの顔を見たときに、俺は無意識に息を飲んでいた。


形の良い唇はうっすらと弧を描いて微笑んでいるが、空色の瞳は深海の底のように暗く、どこまでも凍てついている。剥き出しのままの剣を思わせる程、研ぎ澄まされた殺気。


こんなに殺気立ったアトリを、俺は今まで一度も見たことが無い。アトリが、静かに激怒している。


俺たちが飛び退いた直後、上半身だけの巨体が白い瓦礫とともに、凄まじい勢いで床に激突した。落下の衝撃で劇場全体が大きく揺れ、強い風圧が俺の背中を壁まで押し退ける。白色の粉塵が一気に視界を遮る中で、黒い影が霞の中に見えた。

煙が完全に収まって見えたのは、随分としわがれて年老いた王の顔だった。うつ伏せに倒れる王の肌は灰色で、人型の魔物であることを物語っていた。


「……『甘露』の味は、いかがですか?……もっとも、無味無臭で毒が身体に回っていることさえ、気が付かなかったでしょうけど」


アトリはゆっくりとした足取りで、背丈の数倍はある年老いた王の顔へと近づいて行った。コツっ、コツっ、と床を踏んで歩み寄る音が、静けさの中に厳かに響き渡る。

王は寒さでガクガクと身体を震わせながら顔だけを上げると、灰色に濁った両目で顔の正面に立つアトリを睨みつけた。王からの憎しみが籠った視線を無視して、アトリは冷淡な口調のまま『毒』の種明かしを始めた。


「氷の華を形成したと同時に、土魔法で精製した毒を仕込んでおきました。氷の華が破壊されれば、毒が周囲に飛び散る仕組みです」

これでも元魔導士団副団長でしてね?魔法は、そこそこ得意なんですよと、王へ語りかけたアトリの言葉に、全員が驚愕で息を飲んだ音が聞こえた。


氷と土の混合魔法。氷魔法は水の上位互換で、意のままに扱えるだけでも充分に上級者だ。それなのに、広範囲の氷魔法を形成するのと同時に、土魔法で瞬時に毒を生成して仕込むなど、神業としか言いようがない。

氷の華がマリオネットの姉に壊されたとき、無色透明の毒は飛沫のように周りに飛び散った。毒は操り人形の糸に染み込んで王の指へと伝い、ゆっくりと確実に傀儡師の身体を犯していったようだ。


マリオネットの双子姉を拘束すると見せかけた『氷華の甘露』は、最初から傀儡者を標的としていた。その計画された戦略に、俺は心から身震いした。


「私が仕込んだ毒は、全身の中から凍って雪のように脆くなり、氷の砂に変化する。最後には冷気になって消失するもの……。どうですか?内側から壊されていく感覚は?」

深紅の衣装の袖から覗く、王の蒼白な指先が雪の塊のように脆く崩れていく。指だった白色の塊は、さぁぁぁっと砂のような細かい粒子に変化し、風に乗って消えていった。


「……私の教え子たちを、随分と可愛がって愉しんでくれましたね……。」

元王の指先だった白い霞を横目で見ながら、アトリは背丈ほどある銀色の杖の先を、トンっと床に打ち付けた。途端に、王の身体から氷が軋むような音がして、パリンッ!とガラスが砕けるような音を響かせながら、王の右腕が肩からもげる。

王が悲痛な咆哮をアトリに放とうと口を開けたが、その叫び声が室内に響くことはなかった。


「……私はね。自分の手を一切汚さずに人を悪意で弄んで、心を意のままに操ろうとする者が、一番嫌いなんですよ」


悲鳴はうるさいので、防音結界しておきますね?と淡々とした口調でアトリが王へと告げ、年老いた王は強固な結界に囲われた。アトリが再び杖を持ち上げたのを、人形の長である王が絶望を滲ませた瞳で見つめている。


王の視線をゆっくりと辿ったアトリは、薄氷のように冷たく鋭利に、うっそりと王へ微笑み返した。俺達に向けるような空色の瞳は、今やガラス玉のように冷たく感情がない。

トンッ、と優雅な銀の魔法杖が、容赦なく床に打ち付けられる音が室内に響いた。


「命が他人に削られる感覚を、その身にじっくりと刻みつけながら……。苦しんで死ね」


深海の底を思わせる静かで低い声が、王へと絶望の宣言を告げる。アトリが杖を打ち付ける度に、王から亀裂が走る音が聞こえ、身体が雪のように脆く崩れては霞となって跡形もなく消えていく。

数回ほどで王の灰色の眼から光が無くなった途端、王は頭から一気にボロボロと崩れ落ち、白い氷の粒子になって風に運ばれて消えていった。そこに残ったのは、宝石がこれでもかと散りばめられた、欲を体現させたかのように豪華で、玩具のように陳腐にも見える王冠だけだった。


「……こっわ」

クレイセルが、ぶるりっと体を震わせ、両手で自分の身体をぎゅっと抱きしめた。




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