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光るキノコ
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グレンに信じられない要求をした日以降、シリルはたびたび予期せぬ発情に悩まされるようになった。
自分にそんなつもりはないのに、体が熱くなり、尻から透明な粘液が漏れてしまう。知らないうちにオメガ特有のフェロモンを発して、周りのアルファやベータから「シュレンジャー君、今きみ、もしかして……?」と上気した瞳で見つめられることになるのだ。
そんな時は、セスが用意してくれた仮眠室に慌てて入り、内側から鍵を掛けて、抑制剤を飲みこみ終業時間まで過ごすのが常になった。セスは安全だと言ってくれたが、部屋の前で唸り声を上げられたり、興奮したアルファに扉を何度も叩かれたりすると、自分はこのまま扉の前にいる男たちに犯されてしまうのではないかと怯えた。朝に発情期が訪れたときなど、夕方までがとても長く感じられ、鳥たちが巣に帰るのを見るころには魂が抜けたようになっていた。
「皆さん、失礼します。……シリル、やっと仕事が終わった。帰るぞ」
「グレン!」
ガチャガチャとノブを回すと、辺りを睨み付けた豹型の幼なじみが目に入る。グレンが手に抑制剤を持っていると気付き、これ以上フェロモンを出さないようにと急いで飲み込み、皆に一礼する。
「お騒がせしてすみませんでした。体調がよくなったらまた出勤します」
シン、と辺りが静まりかえった。数人はいるはずなのに、周りからはなんの反応も返ってこない。オメガ特有の周りを巻き込む体質のせいで、シリルは次第に周りから孤立しつつあるようだ。
そんな中、グレンとセスと研究室長、それに少数のオメガだけはシリルに対して態度を変えなかった。
ある日の夕方、研究室に入ると月の光を浴びるときだけ発光するというキノコの切り株をセスに手渡された。薄茶色で、一見すると食用に見える。
「村人の話では川べりに群生し、月夜にだけ青白く光ると言われている。珍しいし、面白そうだろう? 満月の晩に泊まり込んで是非検証したいんだ。よかったら、シリル君も一緒に確認してくれ」
「はい! 満月の晩っていつですか?」
「明後日だ」
シリルは予定表を懐から出して確認した。その日は発情予定日の中間だから、多分大丈夫だ。
「大丈夫だと思います。でも、万が一発情期……ヒートになったら泊まり込みは出来ません」
「そうだね、最近シリル君の匂いはすごく甘くなってきているから危ないかもね。だれか好きな人でも出来た?」
眼鏡の奥に得体の知れない光を見付けて、背筋に一瞬冷たいものが走った。オメガに反応し、匂いの種類までかぎ分けられるとなると、セスはアルファなのだろう。
「セス先輩は、やっぱりアルファなんですね……」
「そうだよ、でも館の獣人連中よりは理性があるほうだ。今だから言うけど、きみがオメガ専用仮眠室にいる時に外で吠え立てているのは獣人ばかりだ。やはり人間と彼らは別の種族なんだと痛感するよ。奴らは少しばかり力があるからといって、人間の女性を孕ませ、あっという間にこの国を獣人か、人間との合いの子だらけにしてしまった。今や純粋な人間はほんのわずかだ」
植物学のことを一から教えてくれた面倒見の良い先輩がこんな偏見を持っていることに驚いてしまう。だが、シリルも今では一人前のはずだ。歯向かうようで申しわけないが、自分の意見を述べるべきだろう。
「そうなんですね。でも、僕の知っている獣人はとても情け深く、結束が固いです。ここの職員の皆さんとも、なんとか上手く付き合ってゆけたらと思います」
「模範的な意見だな。僕もそんなふうに思っていたことがあったよ。……さ、もう帰る時間だ。定時に帰さないと、そこにいるきみのボディガードに殺されそうだ」
振り返ると、グレンが尻尾をパタパタと揺らして、ガラスで仕切られた扉の向こうからこちらを覗き込んでいることに気付いた。
「ごめん! 興味深い話だったから、終業の時間だと分からなくって」
詫びながら走り寄ると「帰ろう、シリル」とふかふかの獣毛に覆われた手を差し伸べられる。シリルはこの手が好きだ。
「シリル、セスさんとなんの話をしていたんだ?」
仕事場を離れるとすぐにグレンが呟いたので、シリルは胡乱な瞳で兄弟分を見た。どうもあの一件以来、グレンが彼氏面をしてるような気がしてしょうがない。ただの幼なじみで、兄弟のようなものなのに、最近やけにシリルの行動に干渉するのだ。獣人を貶めるような言葉の数々をグレンに聞かせるわけにはいかないから、当たり障りのない部分だけを言うしかない。
「仕事の話だよ。明後日の満月に、キノコが月夜で光るかどうかっていう噂を検証するから、僕も立ち会って欲しいって言われたんだ」
シリルは闇に薄青く光るキノコを想像する。闇夜に浮かび上がる仄白い青。きっと美しいことだろう。
「今日見たところ、薄い茶色のなんの変哲もないキノコだったけれど。そんなものが月夜にだけ光るなんて、まるで妖精がいる世界みたいだ」
「ふうん」
「グレンも一緒に行こうよ。きっと綺麗だよ」
グレンが気難しい顔になる。ウウ……、という唸り声のあとに響いたのはこんな言葉だった。
「いや、行かない。俺は最近早く眠ることにしているから。……それにお前もダメだ、シリル。泊まり込んだ晩に突然ヒートが訪れたらどうする気だ? もし、この前みたいなひどい状態になったら? あの時はおれがいたからなんとかなったが、ほかのベータやアルファの前であんな痴態をさらすと襲ってくれと言っているようなものだぞ」
グレンの言うことは一理あった。先日のことを思い出すだけで、顔に火が点いたようになる。それにシリルの発情の訪れかたは、かなり不規則になってきている。発情が終わった数日後に、また新しい発情期を迎えることだってあるのだ。それでも、光るキノコの魅力には抗えなかった。
「内側から鍵が掛けられる部屋にいるし、セス先輩がいるから大丈夫だよ。そうだ、グレンも固いこと言わないで一晩くらい起きていようよ。珍しいキノコだし、検証現場にいれば発見者だよ」
「そんなに言うなら」
突然首輪に爪が引っ掛けられ、カリッという軽い音がする。耳元にグレンの吐息がかかり、押し殺した声が響いた。
「今度お前が発情したときに首筋を噛ませてくれ。そうしたら、光るキノコでもなんでも付いて行ってやる」
「グレン!」
馬を走らせ、先を急ぐ豹頭の獣人はそれきり振り返ることはなかった。一人森に残されたシリルは呆然とグレンが去る姿を見ているほかなかった。はじめは殴られたようなショックが走ったが、次第にムカムカと腹が立ってきて、首に付けている首輪をさわった。
(ひどい冗談だ。もしかして本気なのか? ……だとしたら失礼すぎる)
グレンも仮眠室の外でうろついている奴らと同じだったのか。僕を簡単に孕ませられる雌としてしか見ていないのか。――兄弟同然に育ったシリルを、そんな目で見るのか。
グレンに出会ったとき、両親を殺した犯人の絵を描いてほしいと頼むと、代わりに笑っている父母を描いてくれた。さみしさに独り泣いているとき、一緒に眠って不安を消してくれた。グレンがいなければ、シリルはもっとひねくれて冷たい気持のまま成長したことだろう。それほどシリルのことを思い遣ってくれたグレンなのに、シリルがオメガだと分かった途端に雌扱いするなんて。もしかして、研究室で発情を起こしたときも、グレンは守る体を装いながら自分を狙っていたのだろうか。考えれば考えるほど、グレンのことが信用出来なくなってくる。
それからは、グレンと家の中で会っても口をきかないように努めた。はじめは気にしていないようだったグレンも、たびたび無視されることに苛ついたのか、話しかけてこなくなった。無視し合う息子ふたりを心配したグレンの母が、シリルの肩を叩く。
「あなたたち、喧嘩しているの? 今までにこんなことなかったじゃない。早く仲直りしたほうがいいわよ」
「ありがとう、母さん。でも、僕が折れるのはいやだ」
そうだ、悪いのはグレンのあのひと言だ。あれですべてが壊れてしまった。
(グレンなんて知らない。……見損なった)
自分にそんなつもりはないのに、体が熱くなり、尻から透明な粘液が漏れてしまう。知らないうちにオメガ特有のフェロモンを発して、周りのアルファやベータから「シュレンジャー君、今きみ、もしかして……?」と上気した瞳で見つめられることになるのだ。
そんな時は、セスが用意してくれた仮眠室に慌てて入り、内側から鍵を掛けて、抑制剤を飲みこみ終業時間まで過ごすのが常になった。セスは安全だと言ってくれたが、部屋の前で唸り声を上げられたり、興奮したアルファに扉を何度も叩かれたりすると、自分はこのまま扉の前にいる男たちに犯されてしまうのではないかと怯えた。朝に発情期が訪れたときなど、夕方までがとても長く感じられ、鳥たちが巣に帰るのを見るころには魂が抜けたようになっていた。
「皆さん、失礼します。……シリル、やっと仕事が終わった。帰るぞ」
「グレン!」
ガチャガチャとノブを回すと、辺りを睨み付けた豹型の幼なじみが目に入る。グレンが手に抑制剤を持っていると気付き、これ以上フェロモンを出さないようにと急いで飲み込み、皆に一礼する。
「お騒がせしてすみませんでした。体調がよくなったらまた出勤します」
シン、と辺りが静まりかえった。数人はいるはずなのに、周りからはなんの反応も返ってこない。オメガ特有の周りを巻き込む体質のせいで、シリルは次第に周りから孤立しつつあるようだ。
そんな中、グレンとセスと研究室長、それに少数のオメガだけはシリルに対して態度を変えなかった。
ある日の夕方、研究室に入ると月の光を浴びるときだけ発光するというキノコの切り株をセスに手渡された。薄茶色で、一見すると食用に見える。
「村人の話では川べりに群生し、月夜にだけ青白く光ると言われている。珍しいし、面白そうだろう? 満月の晩に泊まり込んで是非検証したいんだ。よかったら、シリル君も一緒に確認してくれ」
「はい! 満月の晩っていつですか?」
「明後日だ」
シリルは予定表を懐から出して確認した。その日は発情予定日の中間だから、多分大丈夫だ。
「大丈夫だと思います。でも、万が一発情期……ヒートになったら泊まり込みは出来ません」
「そうだね、最近シリル君の匂いはすごく甘くなってきているから危ないかもね。だれか好きな人でも出来た?」
眼鏡の奥に得体の知れない光を見付けて、背筋に一瞬冷たいものが走った。オメガに反応し、匂いの種類までかぎ分けられるとなると、セスはアルファなのだろう。
「セス先輩は、やっぱりアルファなんですね……」
「そうだよ、でも館の獣人連中よりは理性があるほうだ。今だから言うけど、きみがオメガ専用仮眠室にいる時に外で吠え立てているのは獣人ばかりだ。やはり人間と彼らは別の種族なんだと痛感するよ。奴らは少しばかり力があるからといって、人間の女性を孕ませ、あっという間にこの国を獣人か、人間との合いの子だらけにしてしまった。今や純粋な人間はほんのわずかだ」
植物学のことを一から教えてくれた面倒見の良い先輩がこんな偏見を持っていることに驚いてしまう。だが、シリルも今では一人前のはずだ。歯向かうようで申しわけないが、自分の意見を述べるべきだろう。
「そうなんですね。でも、僕の知っている獣人はとても情け深く、結束が固いです。ここの職員の皆さんとも、なんとか上手く付き合ってゆけたらと思います」
「模範的な意見だな。僕もそんなふうに思っていたことがあったよ。……さ、もう帰る時間だ。定時に帰さないと、そこにいるきみのボディガードに殺されそうだ」
振り返ると、グレンが尻尾をパタパタと揺らして、ガラスで仕切られた扉の向こうからこちらを覗き込んでいることに気付いた。
「ごめん! 興味深い話だったから、終業の時間だと分からなくって」
詫びながら走り寄ると「帰ろう、シリル」とふかふかの獣毛に覆われた手を差し伸べられる。シリルはこの手が好きだ。
「シリル、セスさんとなんの話をしていたんだ?」
仕事場を離れるとすぐにグレンが呟いたので、シリルは胡乱な瞳で兄弟分を見た。どうもあの一件以来、グレンが彼氏面をしてるような気がしてしょうがない。ただの幼なじみで、兄弟のようなものなのに、最近やけにシリルの行動に干渉するのだ。獣人を貶めるような言葉の数々をグレンに聞かせるわけにはいかないから、当たり障りのない部分だけを言うしかない。
「仕事の話だよ。明後日の満月に、キノコが月夜で光るかどうかっていう噂を検証するから、僕も立ち会って欲しいって言われたんだ」
シリルは闇に薄青く光るキノコを想像する。闇夜に浮かび上がる仄白い青。きっと美しいことだろう。
「今日見たところ、薄い茶色のなんの変哲もないキノコだったけれど。そんなものが月夜にだけ光るなんて、まるで妖精がいる世界みたいだ」
「ふうん」
「グレンも一緒に行こうよ。きっと綺麗だよ」
グレンが気難しい顔になる。ウウ……、という唸り声のあとに響いたのはこんな言葉だった。
「いや、行かない。俺は最近早く眠ることにしているから。……それにお前もダメだ、シリル。泊まり込んだ晩に突然ヒートが訪れたらどうする気だ? もし、この前みたいなひどい状態になったら? あの時はおれがいたからなんとかなったが、ほかのベータやアルファの前であんな痴態をさらすと襲ってくれと言っているようなものだぞ」
グレンの言うことは一理あった。先日のことを思い出すだけで、顔に火が点いたようになる。それにシリルの発情の訪れかたは、かなり不規則になってきている。発情が終わった数日後に、また新しい発情期を迎えることだってあるのだ。それでも、光るキノコの魅力には抗えなかった。
「内側から鍵が掛けられる部屋にいるし、セス先輩がいるから大丈夫だよ。そうだ、グレンも固いこと言わないで一晩くらい起きていようよ。珍しいキノコだし、検証現場にいれば発見者だよ」
「そんなに言うなら」
突然首輪に爪が引っ掛けられ、カリッという軽い音がする。耳元にグレンの吐息がかかり、押し殺した声が響いた。
「今度お前が発情したときに首筋を噛ませてくれ。そうしたら、光るキノコでもなんでも付いて行ってやる」
「グレン!」
馬を走らせ、先を急ぐ豹頭の獣人はそれきり振り返ることはなかった。一人森に残されたシリルは呆然とグレンが去る姿を見ているほかなかった。はじめは殴られたようなショックが走ったが、次第にムカムカと腹が立ってきて、首に付けている首輪をさわった。
(ひどい冗談だ。もしかして本気なのか? ……だとしたら失礼すぎる)
グレンも仮眠室の外でうろついている奴らと同じだったのか。僕を簡単に孕ませられる雌としてしか見ていないのか。――兄弟同然に育ったシリルを、そんな目で見るのか。
グレンに出会ったとき、両親を殺した犯人の絵を描いてほしいと頼むと、代わりに笑っている父母を描いてくれた。さみしさに独り泣いているとき、一緒に眠って不安を消してくれた。グレンがいなければ、シリルはもっとひねくれて冷たい気持のまま成長したことだろう。それほどシリルのことを思い遣ってくれたグレンなのに、シリルがオメガだと分かった途端に雌扱いするなんて。もしかして、研究室で発情を起こしたときも、グレンは守る体を装いながら自分を狙っていたのだろうか。考えれば考えるほど、グレンのことが信用出来なくなってくる。
それからは、グレンと家の中で会っても口をきかないように努めた。はじめは気にしていないようだったグレンも、たびたび無視されることに苛ついたのか、話しかけてこなくなった。無視し合う息子ふたりを心配したグレンの母が、シリルの肩を叩く。
「あなたたち、喧嘩しているの? 今までにこんなことなかったじゃない。早く仲直りしたほうがいいわよ」
「ありがとう、母さん。でも、僕が折れるのはいやだ」
そうだ、悪いのはグレンのあのひと言だ。あれですべてが壊れてしまった。
(グレンなんて知らない。……見損なった)
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