愚者のオラトリオ

Canaan

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番外編

男前な恋人 2

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「ったく、むかつくぜ、あの女ァア~~」

 ベネディクトは指導教官が使う更衣室で、リネンを使ってわしわしと頭を拭いていた。
 むかつくついでに、カールした髪のままステラの前をうろちょろして嫌がらせしてみようかと思い立ったが、以前、雨に濡れて発熱し、坐薬を突っ込まれたことを思うと、濡れたままでいるのは良い考えではない気がした。
 仕方がないのでぶつくさ言いながら、髪を乾かしているところだ。

 ずぶ濡れになったシャツを脱ぎ、替えのものを纏う前に、鏡で自分の姿を確認してみる。
 自分で言うのもなんだが、鏡にはそこそこのイケメンが映っているように思えた。
「こんないい男つかまえといて、アレはねえよなァ~」
 そう呟いて、ポーズをとってみる。顎に手を添えてみたり、ガッツポーズをして上腕の力こぶを強調してみたり。
 すると、ガチャリと扉が開いて、ヒューイが入ってくる。そして鏡越しに目が合った。
「……邪魔をした」
 彼はそう言って部屋を出て行こうとする。
「ちょっ……ま、待って! 違うんだって! これは違うんだって!」
 いまの自分は、上半身裸で鏡に向かって自身の姿に酔いしれるナルシストにしか見えなかっただろう。何が違うのか自分でもよくわからなかったが、「違う、違う」と繰り返してヒューイを引き止めた。
 ヒューイはまだ怪訝そうな表情をしている。
「しかし……取り込み中ではなかったのかね」
「いや、代理が俺のことボロクソに言うからさあ……」
 ここには自分とヒューイしかいないことを確認し、替えのシャツに腕を通しながら、簡単に説明する。
 一般的に、惚れた相手はより可愛く、またはカッコよく見えるものなんじゃないかとベネディクトは考えている。自分だってステラのことをはじめは恐ろしい女だと考えていたが、いまは可愛く見える。彼女はどちらかといえば「可愛い」よりも「美人」だと思うのだが、ベネディクトにとっては可愛く見えて仕方がないのだ。その可愛い彼女は口も態度も悪いのだが、そこがまた堪らない……と、先ほどまでのむかつきを忘れてときめき出す始末である。

「外見のみに惚れられるよりはいいではないか」
 ヒューイはベンチに腰掛けると、ブーツを屋外授業用のものに履き替えだした。先ほどの雨で、稽古場がどれほど荒れたかを確認しに行くところだったらしい。
「老化によってはもちろん、事故や病気のせいで容姿が変わる者もいるだろう? 君の外見が変化しても、彼女は離れていかないということではないのか」
「まあ、お前の言うとおりではあるんだけどさあ~」
 ヒューイが、妻のヘザーと連れ立っているところに何度か遭遇したことがあるが、ヘザーはいつもうっとりした視線をヒューイに向けている。あれは「世界一カッコいい男を見つめるまなざし」だとベネディクトは考えている。
 ヒューイが世界一カッコいいとはベネディクトは思わないが、そう見えてしまうくらいヘザーは夫に惚れているということだ。
 一度くらいは自分もステラからあんな視線を……と、そこまで考えて、いや、それはやっぱ気持ち悪いなと思い直した。
 もう一度鏡を見て、ヒューイを振り返る。
「俺って、イリオスに似てね?」
 すると、ヒューイが咳込んだ。
「な、なんだと?」
「イリオスだよ、舞台俳優のイリオス……あれ。もしかして知らない?」
「い、いや、知っているが……」
 特に女性からの人気が高い俳優だ。彼の経歴についてはよく知らないが、でも、自分よりも年下のような気がする。
「ってことは、イリオスのほうが俺に似てるってことじゃね?」
「よ、よくわからんが……そんな図々しいセリフが出てくるならば、君はそれほど落ち込んでいるわけではなさそうだな」
 ヒューイは口ごもって、ぱっとベネディクトから視線をそらし、「僕はもう行く」と言って部屋を出ていってしまった。
 イリオスのこと、ヒューイはあんまり好きじゃなかったのかなと思った。

 着替えを終えたベネディクトも更衣室を後にする。研修生たちには次の授業は遅く始めると言ってあるから、時間があった。
 なので司令部のある建物と、騎士たちの宿舎がある一帯を見回りがてらぐるりと一周する。建物同士をつなぐ渡り廊下に差し掛かったとき、
「あっ、そこの騎士様! ちょっといいですかあ」
 ゆるい感じの女の声がして、ベネディクトはそちらを見た。
 動きやすそうな質素なドレスを纏い、三つ編みを顔の横に垂らした女がいる。ベネディクトと目が合うと、彼女はへにゃっと微笑んだ。
「ベネディクトさん、でしょ?」
「えっ? あ、ああ。そうだけど」
「よかったあ~。ここに来るの初めてだから、どこ行けばいいのかよくわかんなくて、歩き回っちゃった~」
 彼女はまたゆるい感じでそう言ったが、ベネディクトは彼女を知らない。この女はなぜ自分を知っているのだろうと不思議に思っていると、彼女は「あ」と言って肩を竦めた。
「ごめんなさい。あたし、黒鴎騎士団のダリアって言います」
「黒鴎騎士団!? あんたが!?」
 失礼だが、ダリアは騎士というよりは飲み屋のおねえちゃんに見える。もちろんそれを本人に伝えることはしなかったが、彼女はベネディクトの言いたいことを悟ったようで、またふにゃっと微笑んだ。
「あたしは騎士じゃないんですよ、地上勤務の事務員ってやつです」
「あ、ああ。なるほど。ハサウェイ代理に用事があるのか?」
「そうなの。はい、これ~」
 ベネディクトはステラを呼びに行こうとしたが、彼女は封筒をいくつか差し出してきた。
「これ、うちの団長さん宛てに海軍施設の方に届いたやつなんですけどぉ、急ぎのものも混じってるみたいなんでえ、あたしが持ってきたんです。団長さんに渡しといてもらえます?」
「ああ、わかった。ハサウェイ代理に会っていかなくていいのか?」
「ええ、それだけ渡しといてもらえれば」
 ダリアはまた溶けそうな笑みを浮かべ、「じゃね、ベネディクトさん」と言って去って行ってしまった。
 彼女が自分の名を知っているのは、ステラから聞いているからだろうか。でも、ベネディクトは黒鴎騎士団の詰所に何度か出入りしている。その時に知ったのかもしれない。
 ステラは相手の出自を問わずに団員として受け入れているらしいが、ああいう、ふわふわゆらゆらした女性まで騎士団にいるのは意外であった。
 でも、ステラの部下なのならば、ダリアはああ見えても仕事はしっかりこなす女性なのだろう。

 預かった封筒に視線を落とす。
 「ドナフェア農園」という文字が目に入った。これは、ステラの所持している農園だ。十年前、ピケット公爵家から慰謝料としてハサウェイ家に譲渡された農園らしい。
 なぜベネディクトがこれを知っているのかというと、長兄グレゴリーからの情報である。
 ベネディクトが結婚の報告に実家へ赴くと、相手がハサウェイ侯爵家の娘と聞いたグレゴリーは渋い表情になった。兄はかつての騒動を耳にしたことがあったらしい。ステラの身分に文句はないが、それだけに世間体が云々と言い出したのである。
 この時ベネディクトは兄と対立する覚悟を決めたが、結婚報告の二日後に兄から呼び出された。
 兄は、ステラが莫大な資産を持っていることを知り、手のひらを返したのである。「その女を逃すな」とまで言い放った。
 我が兄ながら呆れるが、賛成してもらえたということで、ベネディクトは胸をなでおろした。
 それから、ドナフェア農園のものの下にあった封筒──見ようと思って見たわけではない。見えてしまったのだ──の差出人欄に「アリスター・ピケット」の名前を発見し、思い切り顔をしかめた。



「代理。これ」
 ステラの机まで行って、彼女の目の前に預かっていた封筒を差し出す。
「……なんだ?」
 彼女は封筒とベネディクトの顔……というか、ベネディクトの髪の毛を見比べている。まだちょっと生乾きなので、クルクル状態は収まったが、いつもより癖が激しい感じに見えるかもしれない。
「黒鴎騎士団のダリアって娘が、届けに来てたんっすけど」
「ダリアが?」
「はい。代理と会っていくかって訊ねたんですけど、これを渡してもらえればそれでいいって言ってました」
「ふうん」
 ベネディクトはそう告げてステラのもとを去り、だが、自分の机に座るなり、彼女の様子を窺った。
 ステラはいくつかある封筒を一つ一つひっくり返し、差出人を確かめていく。そして最後の一通──アリスター・ピケットからのもの──をひっくり返したとき、軽く眉をあげた。

 ベネディクトの正直な気持ちとしては、ほんとうは、アリスター・ピケットの封筒はビリビリに破いて捨ててやりたかった。
 十年前の出来事にベネディクトはまったく関与していないし、アリスターがステラを裏切ったことでベネディクトと彼女の今があるわけだが、気に入らない。とにかく、アリスター・ピケットが気に入らないのである。
 しかし、あの封筒の中身……家同士とかの大事な要件かもしれない。ベネディクトが感情の赴くままに捨ててしまった結果、ステラが不利益を被るかもしれない。ここはひとつ大人にならねばと、彼女に封筒を渡しはしたが、内容が気になって仕方がない。
 ステラが封筒を開け、中に入っていた便箋を取り出した。
 何が書いてあるのだろう。ベネディクトはドキドキしながらその様子を見つめていたが、
「ラスキン教官。みんな、もう着替えて教室に集まってます」
 研修生が呼びに来た。
 勝手にイライラドキドキしているうちに、思ったより時間が経っていたようだ。
「えっ。あ、ああ、悪い! いま行く!」
 そう答えて、ベネディクトは授業を行う教室へ向かった。

 ベネディクトは悶々としたまま一日を過ごし、終業時間を迎える。
 業務日報を記しつつ、横目でちらちらとステラを観察していると、彼女は机の上を片づけている。ステラの私物は殆どないが、明日で新人教育課の務めを終えるから、自分がやってきた当初の状態に近づけるために片づけているのだ。
 そこに、ふたりの指導教官が近づいていく。
「あのハサウェイ代理」
「なんだ?」
「代理は明日でおしまいですよね。送別会を開きたいんですけど、明日の夜、どうですか?」
「……構わないが」
 送別会の話はベネディクトも聞いている。聞いているが、今はアリスターからの封筒の中身が気になってそれどころではない。
 ステラが新人教育課を離れることになって、やっとふたりの関係を公にできる時が来たというのに、このタイミングでステラに接触してくるとはどういうことだ。心底ムカつく男である。

 面白くない気持ちのまま夕食をとって食堂を出ると、そこにはステラが立っていた。彼女は鞄を持っている。
「今日でこの宿舎を出ることにした。明朝は海軍のほうの施設からこちらへ通う」
 ステラはそう言った。
 ベネディクトは彼女と鞄を見比べ、考えた。ステラの陸地での勤務は明日までだ。だから、宿舎を出るならば明日の業務終了後か、明後日の朝でも良いはずなのだ。
「え。いや、しかし……」
 いきなりのことに戸惑ったが、ベネディクトはハッとした。アリスター・ピケットからの手紙が関係しているのではないかと考えたのだ。
 ベネディクトの気持ちを知ってか知らずか、ステラは淡々と続ける。
「アリスター・ピケットが、明日の朝六時の船でネドシアへ渡るそうだ」
「……!!」
 手紙の内容はそれだったのかと思った。
「では私は港の方へ向かう。私の務めは明日で終わるが、最後までよろしく頼む」
「あ、おい……」
 ステラはそのまま行ってしまったが、ベネディクトはその場に佇んで、彼女がわざわざ伝えに来た意味を考えた。



 そして翌朝、ベネディクトは港にいた。
 ステラの言葉の意味をいろいろと考えたが、結局答えが出なかったのだ。
 そもそもアリスターがステラに出立を伝えたのはなぜなのだろう。伝えたら、見送りに来てほしいみたいではないか。自分で結婚式をすっぽかしておいて、図々しすぎやしないだろうか。……いや、アリスターは海賊騒ぎでステラに命を救ってもらっている。黙って出立するほうが図々しい恩知らずになるのかもしれない。
 しかしステラもステラである。手紙を受け取って港へ戻ったということは、彼女は見送りするつもりなのだろう。自分を裏切った男を? 優しすぎやしないか? ベネディクトには全然優しくないのに? ……いや、ステラは「ステラ・ハサウェイ」ではなく「黒鴎騎士団の団長」として、アリスター誘拐事件にピリオドを打つために見送るのかもしれない。
 それでもって、食堂の入り口までやってきてベネディクトに伝えたということは……アリスターとは何もないから安心しろということなのだろうか。それとも、そんなに心配なら自分の目で確かめろということなのだろうか。
「……スッキリしねえなあ」
 現在、午前四時五十分である。寝不足でスッキリしないのもあるが、なんというか、こう……とにかく気分が晴れない。
 ベネディクトは港を見渡した。
 ネドシア行きと思われる船は、もう桟橋に係留されている。しかし作業員用のタラップが渡されているだけで、客の乗船はまだ受け付けていないようだ。
 この船着き場は海軍の施設ともそれほど離れてはいないが、ステラはもう来ているのだろうか。それに、アリスターも。
 彼らがすでに到着しているとしたら、乗船待合所になるだろう。

 そして待合所の扉を開けると、真正面にアリスターらしき男が立っていて、ベネディクトの姿を見て「あっ」と小さく声をあげた。
 なぜアリスターだとすぐに分からなかったのかというと、彼のヒゲがきれいさっぱり無くなっていたからである。髪は伸ばしたままだったが、服はそこそこ上質なものを身につけている。それに、アリスターが痩せた男であるのも以前と変わりないが、血色はよく、前ほど病的な痩せ方ではなくなっていた。
「どうも」
「……ウス。」
 アリスターはにこやかに挨拶してきたが、こちらの心中は複雑である。
 彼は待合所の中の、あまり人がいないスペースを指さした。
「よろしかったら、あちらのベンチでお話しませんか」
「……。」
 全然よろしくない。貴様と話すことなど何一つない。
 そう言ってやりたかったが、それも、逃げるようで癪である。
 癪なので頷き、アリスターが床から持ち上げようとした重そうなトランクを、さっと運んでやった。
「あっ、ごめんなさい。それ、重くないですか」
「別に平気っすね」
 優しさから持ってやったのではない。お前より強いんだぞアピールである。
 ベンチの脇に彼のトランクを置き、二人並んで腰かけると、アリスターが口を開いた。
「まずは、貴方に謝らなくては。僕のせいで貴方は海賊に捕まってしまったから」
「……それはもういいっす」
 たしかにベネディクトはアリスターのせいで捕まったようなものだ。だがそれも、海賊たちが彼を餌に利用したからだ。しかしステラが機転を利かせてくれたから助かったのだし、あの一件があったから自分とステラの距離も縮まった。だから、それはもういい。
「貴方は海軍の騎士ではないんですよね?」
「そっすね」
「……。」
「…………。」
「では、あの時なぜ海軍と行動をともにしていたのですか?」
「まあ、なりゆきで」
 なりゆきなんてとんでもない。あの時はステラと離れたくなくて、女みたいに追い縋ってなんとか連れて行ってもらったのだ。だが、それを正直にアリスターに告げる気もなかった。
 アリスターからの質問に無愛想に対応し続けていると、彼はため息のような笑い声のような、曖昧な小さな息を漏らした。
「貴方は、僕のことが嫌いなんですね」
「そりゃそうでしょ」
 否定しても態度でばれているだろうし、そもそも否定するつもりがなかった。
「彼女を裏切ってまで一緒になった女が島で待ってるんでしょ? それなのに未練たらしい真似して。何やってんだかって感じですよ」
「ああ……その女性には振られてしまいました」
「え……」
 それは知らなかった。驚いて、思わずアリスターを見てしまった。彼は困ったように微笑んでいる。
「言葉もわからない異国に駆け落ちして、そこで、有り金全部持っていかれてしまいました」
「ざ……」
 ざまぁあああ! と言いそうになって、慌てて口を閉じたベネディクトである。しかもニヤニヤしそうになったので、ぱっと俯いた。
「恋人に逃げられたのも、こうして貴方に嫌われているのも、きっと、僕の咎なのでしょうね。実は、ステラに出立を伝えたのは、貴方とお話してみたかったからなんです」
「は?」
 アリスターはにこりと笑う。
「だって、ステラと僕が会うと知ったら、貴方は必ずついてくるでしょう? そう思ったのですが……違いますか?」
 そう問われると、否定はできない。現に、ついてきた訳ではないが、勝手に港までのこのこやってきたのだから。
「貴方とお話しできてよかったです。貴方は……僕が思っていたよりもずっと大人げなかったので、なんだか安心しました」
「ハァ!?」
 それは聞き捨てならない。よく知らない相手に向かって大人げないとは何だ。……いや、不貞腐れた態度丸出しで、今の自分はたしかに大人げない。しかし、こいつに言われたくはない。どう言い返すべきかわからずにいると、アリスターが笑って肩を揺らした。
「いえ、ね。馬鹿にしているわけではないんです。気取った男性よりも、貴方ぐらい直情的で、ちょっと鬱陶しい人のほうがステラには似合っている気がします」
「…………。」
 本人は馬鹿にしているわけではないというが、だが、褒められている感じもまったくしない。それに、鬱陶しいって顔のことじゃないだろうな……。
 あんたに言われたくねえよと返そうかどうか迷っていると、
「アリスター殿! それに、ラスキン……来ていたのか」
 待合所にステラが入ってきた。
 彼女はアリスターとベネディクトが並んで座っているところを見て、一瞬だけ口を噤んだが、すぐに気を取り直したようだった。
「遅くなったようだな。すまない」
「僕のほうこそ、こんな朝早くにどうもありがとう。君には助けてもらったし、黙って出立するのも薄情な気がして」
「いや。私のほうも、貴方を見送らないのは……どうも後味が、よくない」
 ステラは言葉を切った時に、ちらりとベネディクトを見た。
「そうだね……僕たちがそれぞれ新たなスタートを切るには、必要なことだったと思う。でも、来てくれてほんとうにありがとう」
 アリスターが言葉にすると同時に、待合所の職員が「ネドシア行き、乗船開始します」と叫んだ。アリスターが立ち上がったので、ベネディクトは再び彼のトランクを持ち上げる。
「あっ、また……どうもありがとう」
「……。」
 優しさからではない。俺のほうが強いんだぞアピールである……たぶん。

 アリスターの荷物をタラップのところまで運ぶと、彼はそこで「ありがとう」ともう一度言って、手を差し出した。
 ベネディクトのほうは渋々ではあったが、握手を交わす。
 その次に彼はステラとも握手を交わした。ベネディクトへの遠慮があったかどうかはわからないが、ほんの一瞬だけの、淡白なものを。
 そして大きなトランクを引き摺りながら、アリスターは船に乗り込んでいったのだった。



 朝日が水面に乱反射する中、帆船は港から遠ざかっていく。
「……行ったな」
 ステラがそう呟いて、ベネディクトを振り返る。
「ラスキン。貴様、何時にここへ来た」
「四時五十分」
 ステラよりも早く到着したので、まるで張り切ってやってきたみたいである。彼女はちょっと驚いたように眉をあげた。
「来ちゃ悪かったかよ」
「……悪かったら、アリスター殿の出立の日時は教えていない」
「じゃあ、」
 昨夜のあれは、ベネディクトに来て欲しかったからなのだろうか。そうならそうと言えばいいのに、わかり難いことをする……と、思っていると、
「別にどちらでも構わん。貴様の好きにすれば良いという意味で言った。私は後ろめたいことをする訳ではないからな」
「そっか」
 アリスターはベネディクトと話してみたかったと言っていたが、ステラが自分に告げなかったらそれは実現しなかったはずだ。では、アリスターはすべて見通していたというのだろうか。
 それはそれで気に入らないが、アリスターに対するステラの淡々とした、一線引いたような態度はベネディクトをおおいに安心させていた。ここへ来てよかったとも思った。


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