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番外編
Up Song 5
しおりを挟むここ最近は異国の文字を書き写していたヘザーだったが、数日ぶりにフェルビア語の『もじのれんしゅうちょう』に教材が戻った。
ヘザーの書いた文字を見て、ウィルクス夫人が息をのむ。
「……思ったよりも効果があったようですね」
なんとヘザーの文字は前よりも綺麗になっていたのだ。
「実は異国の本を使うというのは……ヒューイ様の提案だったのです」
「え?」
それは知らなかった。というか、ヘザーはヒューイにその本を見せた。思えばヘザーが異国とはどこの国のことなのだろうと言った時、彼は海の向こうの南西の果ての大陸だ、と答えていた。
「私は就学前の子供がやる基礎からやり直すべきだと考えいたのですが……ヒューイ様は違いました」
文字の練習だと思うからダメなのかもしれない。一度「文字」という概念を取り払ってやってみてはどうかと、この国の人間からすれば記号にも模様にも見える文字の本を、ヒューイは探し出してきたのだという。
「もちろん個人差はあるのでしょうが……私はそんな方法で上手くいくわけがないと決めつけておりました。そういった思い込みや決めつけは、教育者としてよくありませんでしたね。考えを改めさせられました」
ヒューイにはやる事がたくさんある。それなのに、ヘザーの文字の練習にまで気を回してくれていたなんて。「自分の案だ」などとは言わずにとぼけていた彼を思うと、愛おしくて目の奥が熱くなった。
「ですが! 私の認める『美しい文字』にはまだまだ及びません! いいですか! これからも、厳しく! いきますからね!」
「は、はい!」
*
今日の朝、ランサム・ソレンソンは帰路についた。
ヒューイは出勤前にランサムとソレンソン伯爵を見送った。ヘザーもやって来ていて、彼らの口から妙な……ソドミィ・ジャッカルズという罪深い単語が聞こえてきたような気がした。どういう意味なのか不思議に思ったが限りなくスカル・スカベンジャーズに近い匂いがする……。
ソドミィ・ジャッカルズの演奏会にも連れて行かれることになったらと思うと、ヘザーに言葉の意味を訊ねる勇気は持てなかった。
ランサムはこれからも王都にやって来る機会はちょくちょくあるだろうが、ジェーンはそうもいかないだろう。生まれた子供が手のかからない年齢になった時には、さらに二人目三人目がいるかもしれないのだから。彼女によろしくと伝え、土産──日持ちする菓子と、ドレスを作るための生地だ──を持たせてやった。
それから王城に向かい、話があると言って個室にエドウィンを呼び出した。
彼は説教でも食らうのかとちょっと不安げな表情をしている。
「悪い話ではない。まずはかけたまえ」
向かいにエドウィンを座らせて、用意していた資料の類を机の上に出す。
「君は王立学校を中退しているな」
「はい。父が亡くなったので……」
ヒューイは頷いた。エドウィンはあと二年半ほど学校に通って騎士を目指すつもりだったのだ。だが父親の死で経済的苦境に陥り、兵士として働かざるを得なくなった。そして妹に持参金を用意して嫁がせ……今は母親と協力して十四歳の弟を学校に通わせているという。
「その事なんだが、エドウィン。今でも君に騎士を目指すつもりがあるならば……もう一度学校へ通ってみないか」
「……はい?」
よほど驚いたのだろう、エドウィンの声がひっくり返った。
「え……あの。ぼく、バークレイ教官の助手になったばかりで……」
「うむ。君の所属も給料もそのままだ。働きながら学校へ通ってみないか?」
そこでヒューイは資料を広げた。王立学校で騎士を目指すクラスの時間割や授業内容の一覧である。
「君は二年半ほどの課程を残してきたんだったな。だが、兵士としての実務経験が三年あるから、この授業とこの授業……これらは免除されるだろう。だが騎士になるための必修科目は受けてもらわなくてはいけない……」
説明しながら、エドウィンが騎士になるために必要な科目を記していく。
「君はこれから週に二日、一年半ほど学校へ通えば騎士になれるぞ」
「ま、待ってください教官。ぼく、騎士にはなりたいです。でもぼくが学校へ行ったら、その間の仕事って……」
「うむ。僕一人になるな。だが君が授業のために抜けるのは決まった曜日だろう。ならば予定も立てやすい。どうだ、やってみるつもりはないか?」
エドウィンのように夢破れても真面目に働いている者はいる。ヒューイが考えているのは、そういった若者の救済である。
そこで、エドウィンと似た境遇の兵士を探した。兵士自体はたくさんいたが、学校へ通うために部下が仕事を抜ける……それを許すような上官は少ない。だがヒューイが打診して駆け回った結果、エドウィンを含めて六名の兵士を集めることが出来た。
「まずは前例を作りたい。君たち六人が騎士になれたら……そういった救済制度を正式に確立できるかもしれない」
これが上手くいけば、将来的には夜間クラスや休日講座の開設も夢ではない。自分ではどうしようもない事情で脱落し、腐ってしまう若者は減るだろう……とヒューイは考えている。
「実験に使うようで申し訳ないが、君さえよかったら……どうかね」
「……ほ、本当にいいんですか」
エドウィンは声を震わせ、少し涙ぐんでいる。
「おい。泣くのは早い。大変なのはこれからだぞ。やると決めたらしっかりやりたまえ」
「は、はい!」
自分に強い発言権があったなら──それは貴族や権力者の娘を妻として迎える、ということだ──もっと容易に事が運んだだろう。
だが今は、地道な活動も悪くないと思っている。もう一度学校へ通えと伝えた時のエドウィンの反応……すごく手ごたえを感じた。まあ、喜ぶのはまだまだ早いのだが。彼に告げた通り、大変なのはこれからである。
ヒューイは自分の机に戻ると、ポケットからハンカチを取り出した。
ちょっと……いや、結構歪んでいるが、ヘザーが刺繍したカエデの葉。使ってはいないが、常に持ち歩いている。
ウィルクス夫人からは「ヘザーの文字が少しだけ綺麗になった」との報告を受け取った。彼女の汚い字も見慣れれば味わい深く思えてくる。それが綺麗に矯正されていくのは少し寂しい気もするが、今後社交の機会が増えることを考えれば直した方が良いのだろう。
それからヘザーの部屋を訪ねた時、片付いていたのも実はちょっと寂しい気持ちになった。アイリーンがまめに掃除しているのだから綺麗でなくてはおかしいのだが、ヘザーの部屋が綺麗、それだけでなんだか落ち着かない。
しかし抽斗を開けた時、中がごちゃごちゃと散らかっていた。そこにヘザーらしさを見つけてうっかり安心してしまったのだった。
あの時……ウィルクス夫人や使用人が近くにいるというのに、ヘザーと身体を重ねるという大胆極まりない行為に及んだことは、未だに信じられないでいる。
それも、ヒューイの屋敷でロイドと一緒にいるヘザーを見た時から、彼女に触れたくて触れたくて仕方がなかったのだ。
屋敷に来ていた医者を見送る時、彼らのいる部屋をちらりと覗くと、ヘザーとロイドはカンチョーのポーズをとって、二人で大笑いしていた。あれは大人の女性がやるポーズではない筈だが、ヘザーがやっている分には全く違和感がなかった。
そして同時に確信した。彼女は良い母親になるだろうと。
ヒューイは子供が欲しいと以前から思っていたが、それは子供が好きだからではない。家の存続のために必要だと考えていたのだ。
しかし今はヘザーが母親になるところが見たい。切に思う。
「おいおい。それ、もしかしてヘザーのお手製?」
気づくとベネディクトがヒューイの手元を覗き込んでいるではないか。
「……それが、どうしたというのだ」
どう見ても素人の作品であるので、否定も肯定もしなかった。
「今、それ見てヘザーのこと考えてにやにやしてたんだろ~。うわあ!」
「なっ……僕はにやにやなどしていない!」
「可愛いことしちゃって、もう~」
「……!」
ベネディクトに小突かれ、ヒューイは手早くハンカチを畳んだ。
「しかし、婚約者のハンカチに大麻の刺繍って、ヘザーもなかなかロックだよなあ」
彼はぶつぶつ言いながら自分の机に戻っていく。
ベネディクトがいなくなってから、もう一度ハンカチを広げて確かめた。
これはカエデ、だよな……?
練習を重ねるうちに、ヘザーの刺繍の腕は上達していくのかもしれない。だが、これはこれで味がある。ずっと大切にとっておこう。
いびつなカエデの葉を見つめ、そして自分が僅かに微笑んでいることに気づき、慌てて表情を整える。
どうやらベネディクトが言っていたのは事実らしい。こっそりと認めた。
(番外編:Up Song 了)
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