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番外編

お堅い教官は公私混同がお好き 3

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 一方でヘザーはというと。
 ウィルクス夫人に宣言した通り、講師を務める以外の時間は勉強に費やしていた。

「では、次の問題です。この紋章を使用している家はどこですか?」
 ウィルクス夫人がヘザーの目の前に紋章の描かれたカードを差し出した。
 これは、フェルビア王国の貴族を覚えるための勉強だ。
「えーと、えーと……」
 ヘザーはカードを見ながら考えをめぐらせた。ここ数日は、暇さえあれば「フェルビア貴族名鑑」に目を通している。
 カードに描かれているものは剣、盾、そして……獅子。剣と盾を使った紋章は多すぎて覚えきれないくらいだった。しかし、紋章に獅子を使っても良いのは王家と、王家に所縁ある公爵家のみ。
「えーと……ティレット公爵家……?」
 ヘザーはちらりと夫人を見上げた。彼女はただヘザーを見つめ返す。頷きもしなければ、首を振りもしなかった。そう、紋章と家を組み合わせただけではまだ正解ではないのだ。
「ティレット家のはじまりは……八代前の王弟ウェスレーから……で、現在の当主はユリエル・ティレット。領地、は……ティレットワース」
 そこまで言ってもう一度夫人を見上げた。彼女は瞬きと同時に小さなため息を吐き、そして頷いた。
「少し怪しげですが……まあ、いいでしょう」
「わあー! よかったあ!」
「安心するのはまだ早いですよ! 次、行きますからねっ」
「は、はいっ」
 公爵家の人間と顔を合わせる機会など殆どない筈だが、それでも社交界に出入りするならば知っておかなくてはいけないらしい。まずはすべての公爵家と、「名門」と呼ばれている貴族について。

 でも、以前よりも間違わずに答えられるようになってきた。勉強時間を増やしたからというのももちろんあるのだろうが、講師の仕事(バイト)を引き受けたことが大きいような気がする。「やりたいことをやらせてもらう代わりに、やりたくないことも頑張ってみる」自分はそうした方が何かと捗るタイプのようだった。



 おかげで、特別講師の仕事も絶好調である。

 一番最初の授業は、ベネディクトとの手合わせを研修生に見学させることがメインであったから、二人でちょっと打ち合わせして、娯楽要素も盛り込んでみた。派手な音が出るように刃を合わせ、動きも大げさに。追い込まれたふりをして巻き返す……などなどだ。
 研修生たちの歓声や拍手がとても気持ち良かった。気が付くといつの間にかヒューイの助手と研修生も見学にやって来ていたのでびっくりしたが、ヒューイ本人は来ていなかった。
 帰りはヒューイに送ってもらったのだが、彼はなんとなく口数が少なかったように思えた。もともとお喋りな人ではないから、不思議に思うようなレベルではなかったけれど。

 次に講師を務めにやってきた時は、ベネディクトの研修生一人一人に個別指導を行った。そして休憩時間に入った時、ベネディクトが声をかけにくる。
「お疲れー。休憩室、用意してあるけど使う?」
「んー……」
 ヘザーは少し考えた。特別講師のために用意された休憩室はとんでもなく贅沢なものだ。兵舎の一室を使っていて、昼寝のできる大きな長椅子と軽食をとるためのテーブルもあった。メイドに言えば、冷たい飲み物を持って来てもらえたりもするらしい。
 ただ、第八訓練場からはちょっとばかり遠いのだ。往復していると休憩時間が短くなってしまう。この場で木陰に入って長く休むべきか。時間は短くなるが良質な休息を取るべきか。悩むところである。
 するとその時、
「整列! 番号っっ!」
 訓練場の端に植えられた樹木の向こうから、聞きなれた声がするではないか。
 ヒューイの授業に違いなかった。ベネディクトを見やると、彼は親指で声のする方を指した。そして「覗いてみるか?」と言う。ヘザーはもちろん頷いた。

 そこには数人の研修生が並んでおり、ヒューイはその中の一人をビシッと指さした。
「おい、その前髪は何とかならないのか?」
「え? あ、これですか……?」
 ヒューイにそう指摘された新人騎士は、自分の前髪をつまみ上げた。目が隠れるかどうかという長さである。
「以前から気になっていたが、君の前髪は長すぎる! 切って来たまえ」
「ええ? じゃ、この授業の後に……」
「だめだ! 視界不良は怪我の原因になる。眼球に傷がつく。衛生的にも悪い! 今すぐ切って来たまえ!」
 そう言って宿舎の方を示され、前髪の長い研修生はだらだらとした足取りで訓練場を後にしようとした。
「遅いっ! もっときびきび動きたまえ!」
「は、はい」
 急かされてようやく彼は小走りになる。

 その様子を見ていたヘザーの脳裏に、忘れかけていたかつての風景が蘇った。
 あれは、ヒューイ・バークレイを初めて知った時のことだ。どうしてそんな重要な出来事を忘れかけていたかというと、その後にもっと衝撃的な接触があったからである。
 あの日も彼は研修生たちを厳しく叱りつけていた。ヘザーはそれを見て、なんてウザい野郎だと、そんなことを思った気がする。
 でも彼が厳しいのは、性格が悪いとか意地悪をしているとか、そういう理由からではない。むしろ相手のことを考えているからだ。言い方がきついので誤解を受けることも多いけれど、本人はそれを取り繕うことはしない。
 ああ、なんて高潔で素敵な人なのだろう……。
 ヒューイを見ているうちにヘザーの胸が高鳴ってきた。恋する乙女のように──実際にその通りなのだが──木の幹に寄り添いながら、愛しい人を見つめる。
 それに、結構な激しい運動をしているはずなのに、彼の髪はまったく乱れておらず、表情も涼しげなままだ。さらに今の彼は、いつもの仄かに良い香りを漂わせているに違いない。
 あ……ああ~……しゅ、しゅてき……。よだれ出ちゃう。
 本格的に頭がくらくらしてきて、ヘザーは木の幹につかまった。

「そういえば、ヒューイってさあ」
「んっ?」
 いきなりベネディクトに話しかけられたので開けていた口を慌てて閉じ、よだれが垂れていなかったか、口元をごしごししながら振り返った。
「常にキッチリしてるんだよなあ。髪もそうだけど、俺、あいつにヒゲ生えてんの見たことねえわ」
「そ、そうなの!? 学生時代とかも?」
「ああ」
 ヘザーもヒューイのヒゲなんて見たことがない。彼だって男だし、ヒゲがあるのは分かるけど、ちょっとでも伸びている状態を見たことが無いのだ。

「学生の頃にさあ。地方の砦に数週間滞在したことがあるんだけどさあ」
 ベネディクトは語る。
 それは騎士を目指すものたちが受けなくてはいけない授業の一つであった。国境警備を行う砦に数週間滞在し、そこで軍事演習に参加するというものだ。
「けど、そこの先輩騎士たちって、すげえ意地悪なわけ! 後輩いびりっつうの?」
「ええー。そういうの、あるんだ」
「うん。半ば伝統化した洗礼みたいなもんでさ」
 ベネディクトやヒューイが参加した年は、先輩騎士たちが浴場の前を陣取り「使用料」をせびっていたらしい。
「えー! ひどい!」
「だろ? 俺なんか金払うの癪だったからさ、意地でも風呂入らなかったね!」
 すると、一週間もしないうちにヒゲは伸びるし肌は垢塗れ、ベネディクトから異臭が漂い、指揮官が「誰かこいつを洗い場に連れていけ」と鼻をつまみながら怒鳴った。それは授業中のことであったから、普段浴場を使ってもいい時間ではなかった。だから屯している先輩騎士もいなかった。
「その時にタダで風呂入ってやったんだ」
「あははは! 考えたわね。でも……」
 でも、ヒューイはどうだったのだろう。彼は理不尽な集金に屈するタイプではない。しかし、ベネディクトのような捨て身の行動に出るタイプとも思えない。
「うん。あいつは金を払って風呂入ってる様子はなかった。でも、いつもピカピカだった」
 不思議に思ったベネディクトはもちろんヒューイに理由を訊ねる。
「うんうん、そしたら?」
「朝の四時に起きて風呂入ってるんだって、涼しい顔で言われた」
「あはははは! らしいっていうか……なんか、分かるぅー!」


*


 新人騎士は前髪を切って戻ってきたが、そのラインはガタガタであった。周りの研修生たちが彼を見てくすくすと笑っている。
 ヒューイが急がせたせいもあるのだろう。少しだけ気の毒に思ったが、髪は伸びるものだ。それにヒューイに指摘されるまで伸ばしていた彼も悪い。

「切って来たな、よし。皆揃ったところで授業を開始する」
 とはいえ、かなりの時間をロスしてしまった。計画していた授業のうち、どこかを省略するしかなさそうだ。ポケットから懐中時計を引っ張り出して考えていると、

「あはははは! なんか分かるぅー!」
 並んだ樹木の向こうからヘザーの笑い声が響いてきた。確認してみれば、ベネディクトと楽しそうにお喋りしているではないか。時にはお腹を押さえて苦しそうに笑っている。
「…………。」
 ヘザーは元気で明るい女だし、ヒューイと二人の時もしょっちゅうニコニコ笑っている。……ニヤニヤしている時も多いが。しかし、あんな風に爆笑を連発することはあまりない気がする。彼女とベネディクトのノリが合っているのは分かる。分かるが。
「教官?」
 やっぱり腑に落ちない。
「教官?」
「む。な、なんだ?」
 顔を上げるとエドウィンが困ったような顔をして立っている。彼は位置についている研修生たちを示した。
「皆、準備が整いましたよ。次の指示をください」
「あ、ああ。わかった」
「……大丈夫ですか? もしかして具合が悪いとかじゃ……」
「いや。少しぼうっとしてしまっただけだ。すまない。授業を続けよう」
 彼にはそう言ってごまかしたが、具合は悪くない。悪いのは気分である。しかも、結局は公私混同しまくっている気がした。主に自分の方が。



 訓練場を使った授業が終わり、司令部へ戻る時にベネディクトたちと鉢合わせた。
「あっ、ヒューイ! ヤッホー!」
 また妙な挨拶をして手を振りながら、ヘザーがこちらへやって来る。確かにこんな挨拶をされると怯む。ヤッホーと返すヒューイではないし、やっぱり手を振りかえすのも違う。ただ、ヘザーに向かって小さく頷いた。
「君の授業はこれで終わりだな」
「うん。ヒューイはまだ一コマ残ってるんでしょう?」
「ああ」
 ヒューイにもベネディクトにも、あと一時限の講義が残っている。その間ヘザーには休憩していてもらう予定だ。兵舎の浴室を使ってもいいし、休憩室でのんびりと過ごしても良い。
 いつものヘザーの外出には使用人のアイリーンがお供しているが、講師を務めにくる際にはそれがない。一人で着替えられる服装をしてきてもらっているからだ。
「授業が終わったら迎えに行くが……休憩室にいるのか?」
「んー……まずはお風呂を借りて……、うん。その後は休憩室で待ってるわね」
「わかった」
 先に行ってしまったベネディクトの方をちらりと見てから、ヒューイは気になっていたことを訊ねた。
「さっき、ベネディクトと何を話していた」
「え?」
「君は大笑いしながら『なんだかわかる』と言っていた……何が分かったんだ」
「ええー……」
 自分に言えないことを、ベネディクトとは話していたのだろうか。ヘザーの態度に、少しムッとしたヒューイだ。
「僕に言えないことなのか」
「言えないっていうか……ベネディクト殿のこと、怒らないでくれる?」
 どうしてベネディクトを庇うような発言をするのだろう。ヒューイはますますムッとした。
「それは僕が決めることだ。ベネディクトと何を話していた。言いたまえ」
「ええー? でも、もう怒ってるじゃない」
「……君がなかなか口を割らないからだろう」
「口を割るって……ただ、貴方の学生時代のこと、ベネディクト殿が教えてくれて」
「……僕の学生時代?」
「うん。国境警備してる砦に行ったとき、そこの騎士たちが研修に来てる学生に意地悪してたんでしょう?」
「うん……?」
 確かに地方の砦に数週間、滞在したことがあった。男ばかりの砦という性質上、常に埃っぽくて汗臭くてむさくるしい、不愉快極まりない場所だったことはよく覚えている。しかし意地悪とは。いったい何のことだと考えていると、
「お風呂場の前で『使用料』取ってたんでしょう」
「……ああ。」

 そういえばそうだったかもしれない。
 ベネディクトは敢えて風呂に入らず、指揮官命令を待つという手段に出たことを思い出した。幸いヒューイは別の部屋であったが、ベネディクトと同室の学生は彼が風呂に入るまでかなりの迷惑を被ったのではないだろうか。
 浴場の前で不当な集金をされると知った時、ヒューイは自分がどうするかをすぐに決めた。人がいそうにない時間帯を狙っていけば良いだけの話だからだ。
 砦の浴場には大勢で使える大きな浴槽があるのだが、そんな時間に行っても中の湯はもちろん冷めきって水になっている。どちらにしろヒューイは不特定多数が使った後の浴槽に入る気にはならないので、問題はなかった。浴場の隅に置いてある大きな水がめ──おそらくは清掃用の水だ。ヒューイには大勢が使った後の浴槽の中身よりマシに思えた──から水を汲み、まともな灯りのない中、それで身体を洗っていた。研修期間が一日も早く終わることを願いながら。

「でも、すごいよね。四時になんて普通は起きられないよー」
「確か、起床は六時半に決まっていた。入浴の後もう一度眠る時間はある」
「そうは言ってもさあ」
「……君たちは、そんなことを喋っていたのか」
 くだらないと思うべきだろうか、二人の会話の中心に自分がいたことにホッとすべきだろうか。しかし、次のヘザーの言葉でヒューイはさらに不機嫌に陥ることになる。
「うん。ベネディクト殿と貴方の授業風景見ててね、ヒューイっていつも清潔にしてるなあーって。そういう話だったの」
「ちょっと待て。君は、僕の授業を見ていたのか……?」
「え? うん。前髪長い子を叱って、切って来いって言ってたでしょ」
「……僕は君の授業を見てはいけないのに、君は僕のことを見ていたのか!?」
「うん」
 ヘザーは悪びれる様子もなく即答した。
 反対にヒューイは絶句するしかない。
「なっ……」
 なんという勝手な女だ……!!!

 ヘザーのあまりの自由っぷりに唇をわなわな震わせていると、先に行っていたベネディクトがこちらに向かって叫んだ。
「ヘザー! 休憩室に飲み物運んでおくけど、何がいいー?」
「ありがとー! んーとねえ……!」
 ヘザーもベネディクトに聞こえるように叫びかえす。ここでの「運んでおく」とは、もちろんベネディクト自身が運ぶわけではない。メイドに頼んでおくのだ。
「酒でもお茶でも、好きなもの言ってよー!」
「うわあ! いいの~!?」

 ──うわあ、ありがとうございます! 私、ウィルクス夫人大好き~!
 ヒューイの頭の中に、いつかのヘザーが思い浮かんだ。
 彼女には好きな人が多い。ヒューイの父も好きだろうし、ロイドもグレンも好きなのだろう。ウィルクス夫人も、ラッキーも。それが自分への「好き」とはまったく違う種類のものだと理解してはいるが、この調子では「ベネディクト殿大好き~!」とノリで言い出すのではないか。ベネディクトもやっぱりノリで「俺もヘザー好きだぜ~!」と答えるに決まっている。

 妙な焦燥に駆られたヒューイはベネディクトに対抗するように叫んでいた。
「ヘザー!」
「えっ?」
 近くにいるのに叫んだものだから、彼女は驚いてヒューイを見る。
「僕がやる」
「え……え? な、何を?」
「君の世話は僕がやると言っているんだ!」
 相変わらず察しの悪い女である。
「休憩は僕の部屋を使いたまえ。鍵を預けておく」
 ヘザーの剣技を期待して講師として呼んでみれば「ヒューイは私の授業見ちゃダメ」と言い出した挙句、自分はちゃっかりとこちらの授業を覗いておいて、当たり前のようにしれっとしている。そのうえ察しも悪い。
 ……本当になんという女だ!
 それに、ここにいるヘザーは「みんなのもの」になったみたいで嫌だった。ヒューイのイライラは頂点に達しそうであったが、彼女の管理と世話をするのは自分でなくてはいけない。
「手を出したまえ」
 ヒューイはポケットから鍵を取り出すと、それをヘザーの手のひらに乗せた。


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