愚者の旅路

Canaan

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第1章 A Walking Lie

08.学問のススメ

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 その翌日ジェーンは朝から街へと足を運んでいた。一つの目的は干し終わった薬草を売るため、二つ目は食べ物を買う為である。姉弟三人の数日分と思って買い込んだ一昨日の食料は、思いがけない居候の存在と、あればあるだけ欲してしまうロイドの食欲とによって、早くも底を尽きそうになっていた。
 帰り道は、昨日のことを考えながら歩いた。ランサムと、ヤーナのやりとりである。すべてが聞こえた訳ではないが、「可愛らしいお嬢さん」とかなんとか言っているのは聞こえていた。
 問題はヤーナの風貌についてである。大家の娘、ヤーナは十五か十六くらい少女であるが、お世辞にも可愛いとは言えない。樽のような体型と顔面を侵食しているニキビ痕に加え、黒くて濃い眉毛は左右繋がっているし、口の周りにヒゲまで生えている。
 そのヤーナを可愛いだなんて……分かってはいたが、ランサムは女の子であれば常にそう声をかけている男に違いない。具体的に褒められないから髪やリボンに注目したのかもしれないが、それでもここまでくると、呆れを通り越して感心の域に入ってしまう。
 だが、ジェーンに言う「可愛い」とヤーナに言う「可愛い」は、ランサムにとって同じ重さの言葉なのだろうか……なんだかもやもやする……。

 頭上でピチチチチ──と小鳥が囀って、ジェーンはぱっと顔を上げた。
 ランサムが誰を可愛いと言おうとジェーンには関係のない事だし、それに、他人の容貌をあれこれあげつらうのは良くない。ヤーナは痩せて肌や無駄毛のケアをすればどうにかなるではないか。ジェーンはどう頑張ったって貧乏のままだ。太って眉毛を繋げておけばお金持ちになれるのならば、自分だってそうする! その前に太るだけの食べ物が手に入らない! どうしろっていうのよ!

 ふん、と鼻を鳴らし、なぜか肩をいからせながら歩き続けていると、借りている小屋が見えてきた。
 ランサムが倒木に腰掛け──この倒木は薬草の選別作業をする時に便利なので、ジェーンもよく腰掛けている──木の枝で地面に何かを書きこんでいる。それを、グレンがじっと見つめていた。ロイドはその内容に興味が無いのか、二人の周囲をつまらなそうにぷらぷらと歩いていた。
 グレンとランサムはいったい何を話しこんでいるのだろうと思いながら近寄っていくと、地面には図形が描きこんであった。
「ほら、ここの頂点から線を引っ張ると、直角三角形が二つ出来上がるだろう」
「あ、本当だ」
 聞こえてきた会話にジェーンは瞳を丸くした。勉強だ。ランサムはグレンに勉強を教えてくれている。
「やあジェーン。お帰り」
 ランサムは、女性に買い物に行かせるなんて申し訳ないと言いながらゆっくりと立ち上がって、ジェーンの荷物を一つ持とうとした。ランサムの足首はだいぶ腫れが引き、今朝から杖を使わなくても歩けるようにはなっているが、それでも歩き方は心許無い。それに、大事な勉強を中断して欲しくなかった。
「私一人で大丈夫よ。ランサム……貴方、弟に勉強を教えてくれていたの?」
「いや、教えるというほどのことは」
「姉さん、ランサムってすごく物知りなんだ」
 ランサムは彼らしくもなく謙遜してみせたがグレンは感嘆の眼差しでランサムを見上げている。
「ありがとう、ありがとう……!」
 心を込めてお礼を言うと、ランサムはびっくりした顔をした。だが本当に有難かったのだ。

 両親が生きていた頃、ジェーンは学校に通っていた。とはいっても貴族や金持ちの通う立派な学校ではない。街でやっている、安い授業料で気軽に通える学校だ。冬の間は農民の子供たちがやってきたりもする。ジェーンはそこで読み書きや計算を習った。
 だが母親が亡くなると、家族の世話に追われ学校へは通えなくなってしまった。本当ならば弟たちもその学校で勉強するはずであったのだが、父が亡くなり、住む場所を失い、学校は諦めるしかなくなった。
 弟たちには折を見て、自分が知っている文字を教えたりはしているが、紙を買うお金もない。グレンは勉強したがっていて、こっそりと街の図書館へ通っているようだった。学校へ行きたいとジェーンにねだる訳にはいかないから、彼は一人でこっそりと通っているのだ。ジェーンもジェーンで、本も筆記用具も買ってやれないから、グレンが図書館に通うのを見て見ぬふりをしていた。本当に心苦しかった。
 ランサムは騎士だから、きっと立派な教育を受けたのだろう。そういう人に教わる機会があるなんて。

「ほら、ロイドもちゃんと聞きなさい。ランサムは大切な事を教えてくれているのよ」
 その辺で小石を拾ったり捨てたりを繰り返すロイドにも声をかける。
「だってさあ、おれ、勉強嫌い。つまんないもん」
「こらっ。そういうこと言うんじゃないの。学校に通いたくても通えない子はたくさんいるのよ」
「ええー? だってさあ、その三角形がどうとかいうやつ、役に立つの? 大人になって、姉ちゃんはそれ、使った?」
「う……」
 言われてみれば。ジェーンのような生活では、買い物の時に簡単な計算が必要になるくらいだ。そこでランサムが笑った。
「確かに使わないね」
「ほら見ろよ」
「でも、知りたいっていうグレンに教えてあげられたから、今初めて使う機会が訪れたね。私が勉強したことは無駄ではなかったようだよ」
 ジェーンがただやりなさいと繰り返すよりも、ランサムの言葉は彼の心に響いたらしい。ロイドは瞬きを繰り返し、それから黙ってグレンの隣に腰を下ろした。ランサムは再び小枝を手に取り、地面に何かを書いていく。
 いい加減な女誑しと思えていたが、それだけではないようだ。
「……だから、aを二乗したものと、bを二乗したものを足せば……その公式を応用して……」
「うんうん、それで?」
「うぇえ、さっそくわかんねえー」
 二乗……? 公式を応用……? 聞こえてきた会話にジェーンも首を傾げた。十一歳の子供が習う内容でもない気がするけれど、グレンは理解しているようだから、まあいいか。




 この日の夜は市場で買ってきた羊の肉を調理したが、ロイドがおかわりを続けたのでまた食材が足りなくなってくる。彼におかわりを自粛するように言うべきなのかもしれないが、ロイドは食べ盛りの男の子だ。それも申し訳ない気がした。学校に通わせてやれないのも申し訳ないが、弟たちがお腹を空かせている状態なのが、ジェーンにとってはいちばん心苦しいのだ。
 食事が終わると、お腹がいっぱいになったロイドは眠ってしまった。グレンはランサムとテーブルに着き、その上に指で何かを示す。ランサムが頷き、答えてやっている。たぶん、昼間の勉強の続きなのだろう。
 消耗品だと思うと紙は高くて手が出ないが、小さな黒板と白墨を買ってやるのはどうだろう。初期投資はある程度必要だが、黒板ならばずっと使える。いや、まずはグレンに靴を買ってやるのだった。
 二人が勉強する様子を見守りながら、出て行くお金の事を考えて頭を悩ませていると、不躾なノックの音が響いた。

「おおい! バークレイの姉ちゃんよお!」
 男のだみ声が続き、ノックの音も大きくなった。
「おおい! いるんだろ!?」
 ノックどころか扉をたたき壊しそうな勢いに、小屋が軋む。奥の部屋からロイドも起きてきたが、彼はグレンと抱き合うように部屋の隅へ身を潜めた。
 ランサムは「誰かな」と小さな声で呟いてジェーンを見やる。
 この男なら何度か家にやってきたから知っている。扉を開けたくないが、このままでは近所迷惑だし、本当に小屋を叩き壊されてしまうかもしれない。ジェーンは唾を飲みこんで、それから扉の方へ近づいた。
 少しだけ扉を開けると、外にいた男の顔が迫ってきた。
「きゃ、ちょ、ちょっと……!」
「姉ちゃん、くれよぉ! あの薬をくれよォ!」
「何度も言っているけれど、貴方が欲しがっているものは、この家にはないのよ」
「嘘いうなよォ! あんた、アレを作れるんだろ? 売ってくれよォ!」
「本当に何度も言っているけど、作れないわ……って、キャー!」
 男の指が扉にかかり、彼がぐいぐいと中に入ってこようとしたのでジェーンは思わず叫んだ。
「……どちら様かな」
 そこでジェーンの背後に立ったのがランサムである。来訪者はランサムの姿を目に入れてさっそく怯む。
「え。お、おう。なんだ、男がいるのかよ」
「ジェーンに、何の用かな」
「あれだよ、あれ。薬を売ってくれって言ってんだよ」
「ジェーンは無いと言っているが? どうしてジェーンが持っていると、貴方は思っているのかな」
 ランサムが静かに凄むと、男は「お、おう」と口ごもり、去って行った。
 話が見えていないであろうに、ランサムは無条件でジェーンの味方をしてくれた。それが、とても嬉しかった。
 もう大丈夫だからと、弟たちを寝室に追いやり、ランサムに説明を始める。

「あの人、アヘン中毒なの」
 過去に怪我をして、痛み止めにとアヘンチンキを服用していたらしい。そして中毒になってしまったのだ。
「私、近所の人に痛み止めを処方してあげた事があって……それがあの人の耳に入ったみたい」
 ジェーンが作ったものは痛み止めとは言っても、気持ちをリラックスさせるための香草のお茶で、薬としての効き目は弱く、中毒性が生まれるものではない。そしてアヘンのような強い薬を精製できるだけの知識も道具も、ジェーンは持ってはいない。
「作れるだろうって、決めつけてるみたいで、たまにここに来るの」
 これも女子供だけで暮らしているから、軽く見られているのだ。実際大人の男がいると分かっただけで、あの中毒患者はあっさりと身を引いた。今夜はランサムの存在が有難かった。だが、姉弟三人だけの家族がどれほど舐められているのかもよく分かって、やるせない。
「ジェーン、君は薬草を摘んで売っているそうだけれど、自分で作った薬を薬種屋に売りこんだりはしないのかい」
「それも考えたことがあったけれど」
 もちろんただの葉っぱを売るよりも、完成された薬の方に高い値がつく。だがやはり、ジェーンのような身寄りも後ろ盾もない娘の作ったものは買ってもらえない。色々と調合して作った薬を買ってもらうには、ますます伝手やコネが必要とされるのだ。
「君の作った湿布薬、良く効いているのに。私も二、三日中には出立できそうだよ」
 そこでハッとする。そうだ、ランサムは足が良くなったらまた旅に出るのだ。ランサムが行ってしまったら、また三人だけの暮らしに戻る。あのアヘン中毒者がまた来た時、きちんと追い返せるとよいのだが。
「では、その時は湿布薬と軟膏をいくらか貴方に持たせるわね。完治するまでは、無理しないで」
「ありがとう。君の作った薬、よく効くって行く先々で宣伝しておくよ。ここに直接買いに来る人がいるかもしれないからね」
「あ、ありがとう……」
 なんとなく、別れを前にした湿っぽい雰囲気となる。
「湿布薬と軟膏と、痛み止めの他に、何か作れるものはあるのかな」
「二日酔いに効く薬湯」
「なるほど。それから?」

 ランサムはジェーンの前に立ち、その指で彼女の頬を撫でた。優しげで気だるげな、例の堕天使のような表情でジェーンを見つめている。彼の美しさにどぎまぎしたし、彼が行ってしまうという妙な焦燥感もあったし、ジェーンの薬を宣伝してくれる彼に感謝の気持ちもあって、いろんな感情がごちゃ混ぜになっていた。少し、饒舌になってしまっていたかもしれない。

「喉の痛みに効くシロップ」
「うん、他にもあるのかな……熱冷ましとか」
「効き目の強いものじゃないけど、作ったことがあるわ」
「あとは……眠り薬なんかは?」
「ええ、作ったことならある」
 そう、ジェーンは雰囲気に酔って、饒舌になっていた。
「それを、私に使ったんだね。ジェーン」
「ええ。あんな風にいきなり効くと思ってなかったんだけど……っ!」
 そこで自分が何を口走ったか、ギクリと気がついて顔を上げた。ランサムはにこやかにジェーンを見つめたままであったが、目が笑っていない。
「あ、その……私……」
 慌てて後ずさったが、狭い小屋の中である。すぐに壁際に追いやられ、ランサムの両腕によって左右の退路も断たれてしまった。

 彼の口調に剣呑な響きが宿る。ジェーンは身を縮めた。
「なるほどね。おかしいと思っていたんだ」
「ご、ごめんなさいっ」


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