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第六話 ラヘル・ヴェリシェレン
フィオがいなくなって、私は急に冷静さを取り戻し、まずすべきことを口に出します。
「落ち着いて、アリアーヌ。フィオから話を聞き出すのは一旦保留にして、私自身の目と耳で状況を把握するしかないわ。何がおかしいのか、何が正しいのか、きちんと見極めて、それから——」
それからどうする。逃げるか、フィオの妻になるかを決めるの?
どちらにしたって、私一人では困難です。今の今まで屋敷から一歩も出たことのない正真正銘の箱入り娘が、どうして遠く離れているであろう実家に戻ることができるのか。背中の『豊穣の女神』の紋章は私に何の力も与えてくれません、ただ異種族にとって魅了にも近い効果を発揮している何か、でしかないのです。
とはいえ、実現困難だからと諦めるにはまだ早いでしょう。落ち着いて考えてみましょう、まず待遇は悪くないのですから、衣食住の心配もなく、少しなら時間もあります。
(そうだわ。これほどの部屋のあるお屋敷なら、使用人がいるはず。フィオではなくそちらから話を聞いて、状況を整理しましょう)
うんそうだ、それがいい。私はサイドテーブルの呼び鈴を手にして、やっぱりダメだと下ろしました。呼び鈴ではフィオが来てしまいます、自分の足で会いにいかないと。
よいしょとベッド脇から腰を上げ、意を決して顔を上げると、そこには黒髪赤目の美少年が。
私が呆気に取られて固まった瞬間、黒髪赤目の美少年は笑っていました。
「お困りかな?」
「ひぇ!?」
驚きのあまり、というかいつの間にか勝手に部屋に入ってきていた黒髪赤目の美少年に、私はまったく気づきませんでした。執事服を着た、十五歳くらいの少年は、実に顔立ちが整っており、その所作まで目を見張るほど美しい有様です。少年の目元の二重ほくろがこうも色気を持っているとは、これまで私は露ほどもほくろに関心がありませんでしたが、とんでもないことです。
しかしながら、先ほどの声は少年らしからぬ低音バリトンだったような——混乱の極みにある私へ、執事服を着た黒髪赤目の美少年は、愛らしく目を細めます。
「ははは、可愛らしい悲鳴を聞いてしまったな」
「だ、だだだ、だれ、誰!?」
驚きすぎて一単語もちゃんと喋れない私に対し、美少年は大人びた口調で穏やかに問います。
「さて、アリアーヌ、私の名をご存じかな?」
不思議なものです。私が誰、と尋ねたら、名前を知っているかと問われました。この話の噛み合わなさは、先ほどのフィオとのやりとりを思い出してしまいます。何となく、嫌な沈黙が流れました。
笑顔を保ったまま、黒髪赤目の美少年はついに自己紹介に出ます。
「ラヘル・カジミェシュ・パントレオニス・ヴェリシェレン、それが私の名だ」
「まだ答えていないのに」
「それは失礼。だが、知っていたのかな?」
「ええ、もちろん。前に」
当然だとばかりに口を突いて出たものの、はて、私は首を傾げました。
「前に……?」
私は、ラヘルと名乗った黒髪赤目の美少年に、会ったことがないはずです。同世代の友人もろくにいない私のことです、忘れているとも思えません。
またしても、フィオと同じです。ラヘル少年は私を知っているようですが、私は知らない。ラヘル少年の親密な態度を見れば、互いに顔を見知っていてもおかしくないだろうに、です。居心地の悪さばかりではありません、すっかり私から何かが抜け落ちている気さえします。フィオやラヘル少年はそんなことないのに、私だけ記憶の欠落でもあるのでしょうか。
だめです、頭がこんがらがってきました。気づけるはずのことに気づけていない、そのもどかしさで私は頭がまともに働きません。驚きや恐怖も手伝って、なおのことです。
ですが、ラヘル少年は私の前にしゃがみ、微笑みを絶やさず待っていました。見上げてくるその上品な美貌は、どこか憂いを帯びています。人間離れした赤い切長の双眸には、強い意思を込めて。
ひょっとすると、私に何か言いたいことがあるのかもしれません。会話から何か事態解決の糸口が掴めるかもしれない、なけなしの勇気を振り絞って、私はできるだけはっきりと言葉を発します。
「あの、いくつか聞いてもいいかしら?」
「どうぞ」
「ラヘル、私はあなたと会ったことがあるの? どうしても、思い出せないのだけど」
ラヘル少年の目が一瞬だけ大きく開きましたが、すぐに元に戻ります。驚くようなことを言ってしまったかしら、もしかすると私は記憶喪失にでもなったのかもしれません。そんな心配をしてしまうほどに、他者の態度にすっかり私は怯えてしまっています。
ただ、ラヘル少年は片膝を床に突き、右手を胸に当て、私へ左手を差し伸べるプロポーズの姿勢を取って、高らかに笑います。
「君とは何度か運命の出会いをしたとも! もちろん、今のことではないよ。それに、今回は奇跡的に」
「そこまでだ」
ラヘル少年の言葉を遮ったのは、帰ってきたフィオです。ラヘル少年の頭に陶器のポットを置き、底面が相当熱かったらしくラヘル少年が「あっつぁー!?」と頭を抱えて叫んで床を転がっています。
いきなりのひどい絵面に、シリアスな雰囲気が台無しです。フィオはまったく意にも介さず、サイドテーブルに持ってきたトレイごと温かいお茶を置きました。香り高い紅茶です、薄手のティーカップに注がれると花の甘い香りが漂ってきました。
フィオは壁際にあったスツールを運んできて私の前に座り、未だ床に腰を下ろしているものの何とか起き上がったラヘル少年を冷たくあしらいます。
「油断も隙もないな、『ヴェリシェレン王』。ここに入れたのは、あなたの策動のためではない」
「分かっているとも、『ヴォルテア卿』。いや、私にとってはヴォルテア・マイナーだな。三世でもいい」
フィオとラヘル少年のさりげないやり取りですが、両者が見知った仲であり、それなりに因縁があることが窺えます。
ですが、それだけに私には不可解な点が多数ありました。
「それは、どういうことなの? ヴェリシェレン王って確か、処刑場にやってきた……ヴォルテア卿ってあなたのことでしょう? 孫、なの? あれ?」
「落ち着いて、アリアーヌ。フィオから話を聞き出すのは一旦保留にして、私自身の目と耳で状況を把握するしかないわ。何がおかしいのか、何が正しいのか、きちんと見極めて、それから——」
それからどうする。逃げるか、フィオの妻になるかを決めるの?
どちらにしたって、私一人では困難です。今の今まで屋敷から一歩も出たことのない正真正銘の箱入り娘が、どうして遠く離れているであろう実家に戻ることができるのか。背中の『豊穣の女神』の紋章は私に何の力も与えてくれません、ただ異種族にとって魅了にも近い効果を発揮している何か、でしかないのです。
とはいえ、実現困難だからと諦めるにはまだ早いでしょう。落ち着いて考えてみましょう、まず待遇は悪くないのですから、衣食住の心配もなく、少しなら時間もあります。
(そうだわ。これほどの部屋のあるお屋敷なら、使用人がいるはず。フィオではなくそちらから話を聞いて、状況を整理しましょう)
うんそうだ、それがいい。私はサイドテーブルの呼び鈴を手にして、やっぱりダメだと下ろしました。呼び鈴ではフィオが来てしまいます、自分の足で会いにいかないと。
よいしょとベッド脇から腰を上げ、意を決して顔を上げると、そこには黒髪赤目の美少年が。
私が呆気に取られて固まった瞬間、黒髪赤目の美少年は笑っていました。
「お困りかな?」
「ひぇ!?」
驚きのあまり、というかいつの間にか勝手に部屋に入ってきていた黒髪赤目の美少年に、私はまったく気づきませんでした。執事服を着た、十五歳くらいの少年は、実に顔立ちが整っており、その所作まで目を見張るほど美しい有様です。少年の目元の二重ほくろがこうも色気を持っているとは、これまで私は露ほどもほくろに関心がありませんでしたが、とんでもないことです。
しかしながら、先ほどの声は少年らしからぬ低音バリトンだったような——混乱の極みにある私へ、執事服を着た黒髪赤目の美少年は、愛らしく目を細めます。
「ははは、可愛らしい悲鳴を聞いてしまったな」
「だ、だだだ、だれ、誰!?」
驚きすぎて一単語もちゃんと喋れない私に対し、美少年は大人びた口調で穏やかに問います。
「さて、アリアーヌ、私の名をご存じかな?」
不思議なものです。私が誰、と尋ねたら、名前を知っているかと問われました。この話の噛み合わなさは、先ほどのフィオとのやりとりを思い出してしまいます。何となく、嫌な沈黙が流れました。
笑顔を保ったまま、黒髪赤目の美少年はついに自己紹介に出ます。
「ラヘル・カジミェシュ・パントレオニス・ヴェリシェレン、それが私の名だ」
「まだ答えていないのに」
「それは失礼。だが、知っていたのかな?」
「ええ、もちろん。前に」
当然だとばかりに口を突いて出たものの、はて、私は首を傾げました。
「前に……?」
私は、ラヘルと名乗った黒髪赤目の美少年に、会ったことがないはずです。同世代の友人もろくにいない私のことです、忘れているとも思えません。
またしても、フィオと同じです。ラヘル少年は私を知っているようですが、私は知らない。ラヘル少年の親密な態度を見れば、互いに顔を見知っていてもおかしくないだろうに、です。居心地の悪さばかりではありません、すっかり私から何かが抜け落ちている気さえします。フィオやラヘル少年はそんなことないのに、私だけ記憶の欠落でもあるのでしょうか。
だめです、頭がこんがらがってきました。気づけるはずのことに気づけていない、そのもどかしさで私は頭がまともに働きません。驚きや恐怖も手伝って、なおのことです。
ですが、ラヘル少年は私の前にしゃがみ、微笑みを絶やさず待っていました。見上げてくるその上品な美貌は、どこか憂いを帯びています。人間離れした赤い切長の双眸には、強い意思を込めて。
ひょっとすると、私に何か言いたいことがあるのかもしれません。会話から何か事態解決の糸口が掴めるかもしれない、なけなしの勇気を振り絞って、私はできるだけはっきりと言葉を発します。
「あの、いくつか聞いてもいいかしら?」
「どうぞ」
「ラヘル、私はあなたと会ったことがあるの? どうしても、思い出せないのだけど」
ラヘル少年の目が一瞬だけ大きく開きましたが、すぐに元に戻ります。驚くようなことを言ってしまったかしら、もしかすると私は記憶喪失にでもなったのかもしれません。そんな心配をしてしまうほどに、他者の態度にすっかり私は怯えてしまっています。
ただ、ラヘル少年は片膝を床に突き、右手を胸に当て、私へ左手を差し伸べるプロポーズの姿勢を取って、高らかに笑います。
「君とは何度か運命の出会いをしたとも! もちろん、今のことではないよ。それに、今回は奇跡的に」
「そこまでだ」
ラヘル少年の言葉を遮ったのは、帰ってきたフィオです。ラヘル少年の頭に陶器のポットを置き、底面が相当熱かったらしくラヘル少年が「あっつぁー!?」と頭を抱えて叫んで床を転がっています。
いきなりのひどい絵面に、シリアスな雰囲気が台無しです。フィオはまったく意にも介さず、サイドテーブルに持ってきたトレイごと温かいお茶を置きました。香り高い紅茶です、薄手のティーカップに注がれると花の甘い香りが漂ってきました。
フィオは壁際にあったスツールを運んできて私の前に座り、未だ床に腰を下ろしているものの何とか起き上がったラヘル少年を冷たくあしらいます。
「油断も隙もないな、『ヴェリシェレン王』。ここに入れたのは、あなたの策動のためではない」
「分かっているとも、『ヴォルテア卿』。いや、私にとってはヴォルテア・マイナーだな。三世でもいい」
フィオとラヘル少年のさりげないやり取りですが、両者が見知った仲であり、それなりに因縁があることが窺えます。
ですが、それだけに私には不可解な点が多数ありました。
「それは、どういうことなの? ヴェリシェレン王って確か、処刑場にやってきた……ヴォルテア卿ってあなたのことでしょう? 孫、なの? あれ?」
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