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還暦の春
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彼女の名前は和子。還暦を迎えた専業主婦で、趣味は韓流ドラマを見ることだった。毎日、家事を済ませると、テレビの前で若い俳優たちの恋愛模様に胸をときめかせていた。そんな日常に、ほんの少しの変化が訪れたのは、取得していた資格更新講習の日だった。
講習会場で、彼女の隣の席に座ったのは、爽やかな笑顔の男性、健太だった。二十代後半だろうか。講義中は軽い挨拶だけ交わし、和子は最初、ただの席順だと思っていた。
終了後、駅へ向かう道で偶然また会った。雨が降り始めていた。健太が「傘、お貸ししますよ」と声をかけてくれた。同じ電車に乗ることになり、車内で少し雑談した。韓流ドラマの話になった時、健太が「僕、実は韓国語勉強してるんです」と言ったのに、和子は驚いた。帰り際、ほんのり照れながらLINEを交換した。
そこから、ゆっくりと世界が色を変えていった。
LINEのメッセージは、最初は講習の感想や資格の話から始まった。次第に、朝の「おはよう」や夜の「今日は寒かったね」といった何気ない日常の言葉が交わされるようになる。和子は、スマホが通知音を立てるたびに、胸が高鳴るのを感じた。数十年ぶりの、このときめき。夫との間には、もう長いことなかった感情だった。
彼女は意識して、地味だった服装を少しずつ変えていった。ネイルサロンにも行き、短くしていた髪を肩まで伸ばし始めた。鏡を見るのが、少し楽しみになった。娘が帰省した時、「お母さん、何か明るくなった?」と言われ、慌ててごまかした。
初めて二人きりで会ったのは、カフェだった。勉強会の打ち合わせという名目で。健太が「和子さん、今日の服、素敵です」と言ってくれた時、還暦の彼女の頬が、少女のように熱くなった。
関係が深まったのは、三回目に会った時だった。健太の小さなマンションの一室。和子は初めての不倫に、罪悪感と高揚感で胸がいっぱいだった。彼の優しい仕草に、体が長年忘れていた喜びを思い出していった。性の開花——それはまさに、枯れかけた花に水が注がれるような感覚だった。年の差は三十以上も離れてはいるが、身体を重ねている行為は川の流れのように自然だった。
外を歩く時、和子は周りの目が気になった。年の差は三十以上。きっと、若い男を金で囲っているおばさんか、あるいは若い男に遊ばれている中年女と見られているに違いない。しかし、本質は違った。健太は真剣だった。和子の話をじっくり聞き、彼女の不安に寄り添った。二人の関係は、ただの刺激を求めたものではなかった。
「勉強会」を口実にした外出は増えていった。週に一度が二度に、やがて三度に。ウソをつくことに慣れない和子は、毎回胃が痛んだ。夫は何も気づかないふりをしているようでもあり、あるいは本当に気づいていないのかもしれなかった。
転機は、和子が風邪をひいて寝込んだ時だった。夫は「大丈夫か?」と一言言って出勤した。その一方で、健太は仕事の合間を縫って、彼女の立場を考えて、近所の目を気にしながらスープを持って訪ねてきてくれた。その優しさの差に、和子は長年埋もれていた寂しさが一気に溢れ出るのを感じた。
「離婚して、僕と一緒に住みませんか」
健太の言葉は、唐突ではなかったが、それでも和子の世界を揺るがした。
決断までに三ヶ月かかった。還暦で離婚。周りにどう思われるか。経済的不安。何より、10年後、20年後を考えると不安でたまらなかった。健太が四十代、五十代になる頃、彼女は七十代、八十代になる。その時、彼はまだまだ現役で、彼女は老いていくだけではないか。
「そんな未来のことは、今考えても仕方ないよ」健太は彼女の手を握りながら言った。「僕が好きなのは、今の和子さんだ。十年後も、その十年後も、その時々の和子さんが好きになると思う。歳を取るのは二人とも同じだよ」
その言葉に、和子は涙が止まらなかった。長い間、自分が「妻」「母」という役割だけの存在になっていたことに気づいた。還暦を過ぎて、初めて「和子」という一個人として愛されていると感じた。
離婚は穏やかだった。夫もまた、別の寂しさを抱えていたのかもしれない。子供たちは驚いたが、母の変化を感じ取っていたのか、最終的には理解を示してくれた。
今、和子は健太の小さな部屋で同棲生活を送っている。時折、未来への不安がよぎることもある。しかし、健太が朝食を作りながら韓流ドラマの主題歌を口ずさんだり、彼女の好みを細かく覚えていてくれたりする小さな優しさの積み重ねが、その不安を少しずつ和らげていく。
還暦を過ぎて掴んだ恋は、若い頃のそれとは違う重みと深さがあった。それは、残された時間の有限さを知っているからこその、一瞬一瞬を大切にする愛の形だった。
ある夕暮れ、二人で散歩していると、すれ違った老夫婦が微笑みかけてきた。和子は、ふと、十年後の二人の姿を想像した。そして、健太の手を少し強く握り返した。
未来がどうなるかは誰にもわからない。でも、少なくとも今、この瞬間、彼女は還暦を過ぎて初めて、自分自身の人生を生きていると感じられた。それだけで、この選択は間違っていなかったと思えたのだった。
講習会場で、彼女の隣の席に座ったのは、爽やかな笑顔の男性、健太だった。二十代後半だろうか。講義中は軽い挨拶だけ交わし、和子は最初、ただの席順だと思っていた。
終了後、駅へ向かう道で偶然また会った。雨が降り始めていた。健太が「傘、お貸ししますよ」と声をかけてくれた。同じ電車に乗ることになり、車内で少し雑談した。韓流ドラマの話になった時、健太が「僕、実は韓国語勉強してるんです」と言ったのに、和子は驚いた。帰り際、ほんのり照れながらLINEを交換した。
そこから、ゆっくりと世界が色を変えていった。
LINEのメッセージは、最初は講習の感想や資格の話から始まった。次第に、朝の「おはよう」や夜の「今日は寒かったね」といった何気ない日常の言葉が交わされるようになる。和子は、スマホが通知音を立てるたびに、胸が高鳴るのを感じた。数十年ぶりの、このときめき。夫との間には、もう長いことなかった感情だった。
彼女は意識して、地味だった服装を少しずつ変えていった。ネイルサロンにも行き、短くしていた髪を肩まで伸ばし始めた。鏡を見るのが、少し楽しみになった。娘が帰省した時、「お母さん、何か明るくなった?」と言われ、慌ててごまかした。
初めて二人きりで会ったのは、カフェだった。勉強会の打ち合わせという名目で。健太が「和子さん、今日の服、素敵です」と言ってくれた時、還暦の彼女の頬が、少女のように熱くなった。
関係が深まったのは、三回目に会った時だった。健太の小さなマンションの一室。和子は初めての不倫に、罪悪感と高揚感で胸がいっぱいだった。彼の優しい仕草に、体が長年忘れていた喜びを思い出していった。性の開花——それはまさに、枯れかけた花に水が注がれるような感覚だった。年の差は三十以上も離れてはいるが、身体を重ねている行為は川の流れのように自然だった。
外を歩く時、和子は周りの目が気になった。年の差は三十以上。きっと、若い男を金で囲っているおばさんか、あるいは若い男に遊ばれている中年女と見られているに違いない。しかし、本質は違った。健太は真剣だった。和子の話をじっくり聞き、彼女の不安に寄り添った。二人の関係は、ただの刺激を求めたものではなかった。
「勉強会」を口実にした外出は増えていった。週に一度が二度に、やがて三度に。ウソをつくことに慣れない和子は、毎回胃が痛んだ。夫は何も気づかないふりをしているようでもあり、あるいは本当に気づいていないのかもしれなかった。
転機は、和子が風邪をひいて寝込んだ時だった。夫は「大丈夫か?」と一言言って出勤した。その一方で、健太は仕事の合間を縫って、彼女の立場を考えて、近所の目を気にしながらスープを持って訪ねてきてくれた。その優しさの差に、和子は長年埋もれていた寂しさが一気に溢れ出るのを感じた。
「離婚して、僕と一緒に住みませんか」
健太の言葉は、唐突ではなかったが、それでも和子の世界を揺るがした。
決断までに三ヶ月かかった。還暦で離婚。周りにどう思われるか。経済的不安。何より、10年後、20年後を考えると不安でたまらなかった。健太が四十代、五十代になる頃、彼女は七十代、八十代になる。その時、彼はまだまだ現役で、彼女は老いていくだけではないか。
「そんな未来のことは、今考えても仕方ないよ」健太は彼女の手を握りながら言った。「僕が好きなのは、今の和子さんだ。十年後も、その十年後も、その時々の和子さんが好きになると思う。歳を取るのは二人とも同じだよ」
その言葉に、和子は涙が止まらなかった。長い間、自分が「妻」「母」という役割だけの存在になっていたことに気づいた。還暦を過ぎて、初めて「和子」という一個人として愛されていると感じた。
離婚は穏やかだった。夫もまた、別の寂しさを抱えていたのかもしれない。子供たちは驚いたが、母の変化を感じ取っていたのか、最終的には理解を示してくれた。
今、和子は健太の小さな部屋で同棲生活を送っている。時折、未来への不安がよぎることもある。しかし、健太が朝食を作りながら韓流ドラマの主題歌を口ずさんだり、彼女の好みを細かく覚えていてくれたりする小さな優しさの積み重ねが、その不安を少しずつ和らげていく。
還暦を過ぎて掴んだ恋は、若い頃のそれとは違う重みと深さがあった。それは、残された時間の有限さを知っているからこその、一瞬一瞬を大切にする愛の形だった。
ある夕暮れ、二人で散歩していると、すれ違った老夫婦が微笑みかけてきた。和子は、ふと、十年後の二人の姿を想像した。そして、健太の手を少し強く握り返した。
未来がどうなるかは誰にもわからない。でも、少なくとも今、この瞬間、彼女は還暦を過ぎて初めて、自分自身の人生を生きていると感じられた。それだけで、この選択は間違っていなかったと思えたのだった。
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