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第10章:声の残響
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隣市の公会堂は、冷房が効いているはずなのに、熱気に満ちていた。
約五百人を収容するホールは、学生から同業者らしき大人まで、空席がほとんどない。
「……すごい人だね、陽菜」
彩花が小声で囁いたが、陽菜からの返事はなかった。陽菜は膝の上で拳を握りしめ、ステージの中央で、都市の光と影について淡々と、けれど情熱を込めて語る瀬戸拓也を、瞬きも忘れて見つめていた。
「建築とは、そこに住む人の人生の『背景』をデザインすることです。派手である必要はない。ただ、静かな雨の日に、その場所にいて良かったと思えるような――」
拓也の声は、ホールによく通った。
彩花はその声を聴きながら、ふと不思議な感覚に捉われた。初めて聞く声のはずなのに、どこか聞き覚えがある。低くて穏やかで、言葉の端々に慎重な誠実さが滲むその響き。
(……誰かに似てる。でも、誰だっけ)
彩花は隣の陽菜を見た。陽菜は、まるで自分の魂の片割れを探し当てたような、切実な眼差しでステージを見つめている。
講演が終わり、質疑応答の時間が設けられた。
数人が専門的な質問を終えた後、司会者が「他にどなたか」と会場を見渡す。
優子から「終わったらすぐ帰るように」ときつく言われていた彩花は、陽菜の服の袖を引いた。「ねえ、もう行こう。混む前に出ないと」
しかし、陽菜は止まらなかった。
震える右手を、まっすぐに、高く、天に突き上げるようにして挙げたのだ。
「……あ、そちらの、中学生の方でしょうか。どうぞ」
マイクを持ったスタッフが駆け寄る。彩花は「ちょっと、陽菜!」と焦ったが、もう遅かった。陽菜は立ち上がり、マイクを握りしめた。
「……私は、あなたの設計した『こども文化センター』を何度も見に行きました」
陽菜の声が、スピーカーを通してホール全体に響き渡る。
壇上の拓也が、ふっと表情を和らげ、客席の陽菜へと視線を向けた。
「ありがとうございます。嬉しいな」
「あの場所の二階にある、小さな吹き抜け。……あそこから見える空は、どうしてあんなに、一人ぼっちじゃないって思えるんですか。あんなに優しい影を、どうやって作っているんですか」
陽菜の言葉は、質問というよりは、祈りに近かった。
その「声」が届いた瞬間、拓也の肩が、微かに、けれど明らかに強張った。
拓也は、眩しすぎる照明を遮るように少し目を細め、客席の一点を見つめた。
そこにいるのは、見知らぬ少女だ。けれど、その声の震え、言葉の選び方、そして何より、自分に向けられた真っ直ぐな意志の力。
それは、十数年前。
「拓也君の作る場所は、いつも雨の匂いがするね」
そう言って、狭いアパートの窓辺で微笑んだ、あの女性の声と、あまりにも似通っていた。
会場が静まり返る。
拓也は、手元の資料を握る指先に力が入りすぎて、紙が小さく音を立てた。
「……それは」
拓也は、喉の奥から声を絞り出すように言った。
「……それは、僕がかつて、世界で一番大切だと思っていた人に、その空を見せたかったからです。今の質問をくれた君の『声』が……あまりにその人に似ていて、少し驚きました」
その回答は、あまりにも個人的で、建築の講演会としては異質なものだった。
彩花の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
今の回答。そして、陽菜の声。
(……似てる?)
彩花は、自分の隣で頬を赤らめ、感極まった表情で立ち尽くす妹を、戦慄にも似た思いで見つめた。
「声」という、目に見えない遺伝子が、十数年の歳月を飛び越えて、かつての恋人たちを繋いでしまったことを、この時の彩花はまだ、うまく言葉にできなかった。
優子のスマートフォンが、テーブルの上で激しく震えた。
彩花からの着信。
だが、優子はその画面を見つめたまま、どうしても通話ボタンを押すことができなかった。
約五百人を収容するホールは、学生から同業者らしき大人まで、空席がほとんどない。
「……すごい人だね、陽菜」
彩花が小声で囁いたが、陽菜からの返事はなかった。陽菜は膝の上で拳を握りしめ、ステージの中央で、都市の光と影について淡々と、けれど情熱を込めて語る瀬戸拓也を、瞬きも忘れて見つめていた。
「建築とは、そこに住む人の人生の『背景』をデザインすることです。派手である必要はない。ただ、静かな雨の日に、その場所にいて良かったと思えるような――」
拓也の声は、ホールによく通った。
彩花はその声を聴きながら、ふと不思議な感覚に捉われた。初めて聞く声のはずなのに、どこか聞き覚えがある。低くて穏やかで、言葉の端々に慎重な誠実さが滲むその響き。
(……誰かに似てる。でも、誰だっけ)
彩花は隣の陽菜を見た。陽菜は、まるで自分の魂の片割れを探し当てたような、切実な眼差しでステージを見つめている。
講演が終わり、質疑応答の時間が設けられた。
数人が専門的な質問を終えた後、司会者が「他にどなたか」と会場を見渡す。
優子から「終わったらすぐ帰るように」ときつく言われていた彩花は、陽菜の服の袖を引いた。「ねえ、もう行こう。混む前に出ないと」
しかし、陽菜は止まらなかった。
震える右手を、まっすぐに、高く、天に突き上げるようにして挙げたのだ。
「……あ、そちらの、中学生の方でしょうか。どうぞ」
マイクを持ったスタッフが駆け寄る。彩花は「ちょっと、陽菜!」と焦ったが、もう遅かった。陽菜は立ち上がり、マイクを握りしめた。
「……私は、あなたの設計した『こども文化センター』を何度も見に行きました」
陽菜の声が、スピーカーを通してホール全体に響き渡る。
壇上の拓也が、ふっと表情を和らげ、客席の陽菜へと視線を向けた。
「ありがとうございます。嬉しいな」
「あの場所の二階にある、小さな吹き抜け。……あそこから見える空は、どうしてあんなに、一人ぼっちじゃないって思えるんですか。あんなに優しい影を、どうやって作っているんですか」
陽菜の言葉は、質問というよりは、祈りに近かった。
その「声」が届いた瞬間、拓也の肩が、微かに、けれど明らかに強張った。
拓也は、眩しすぎる照明を遮るように少し目を細め、客席の一点を見つめた。
そこにいるのは、見知らぬ少女だ。けれど、その声の震え、言葉の選び方、そして何より、自分に向けられた真っ直ぐな意志の力。
それは、十数年前。
「拓也君の作る場所は、いつも雨の匂いがするね」
そう言って、狭いアパートの窓辺で微笑んだ、あの女性の声と、あまりにも似通っていた。
会場が静まり返る。
拓也は、手元の資料を握る指先に力が入りすぎて、紙が小さく音を立てた。
「……それは」
拓也は、喉の奥から声を絞り出すように言った。
「……それは、僕がかつて、世界で一番大切だと思っていた人に、その空を見せたかったからです。今の質問をくれた君の『声』が……あまりにその人に似ていて、少し驚きました」
その回答は、あまりにも個人的で、建築の講演会としては異質なものだった。
彩花の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
今の回答。そして、陽菜の声。
(……似てる?)
彩花は、自分の隣で頬を赤らめ、感極まった表情で立ち尽くす妹を、戦慄にも似た思いで見つめた。
「声」という、目に見えない遺伝子が、十数年の歳月を飛び越えて、かつての恋人たちを繋いでしまったことを、この時の彩花はまだ、うまく言葉にできなかった。
優子のスマートフォンが、テーブルの上で激しく震えた。
彩花からの着信。
だが、優子はその画面を見つめたまま、どうしても通話ボタンを押すことができなかった。
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