​三十路の決断、四十路の静寂(しじま)

MisakiNonagase

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第21章:帰路の残像

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​事務所を出ると、都心の冷たい風が優子の頬を打った。
「すごかったね、お母さん。瀬戸先生、本当にかっこよかった……」
陽菜は駅へ向かう道すがら、興奮した面持ちで今日の出来事を反芻している。
​優子は、陽菜の問いかけに短く相槌を打ちながら、自分の指先がまだ微かに震えていることに気づいていた。
拓也は一度も、優子の顔を覗き込もうとはしなかった。
一度も、二人の過去を匂わせるような言葉を口にしなかった。
その態度は、優子が最も望んでいた「完璧な初対面」であったはずなのに、今の彼女の胸にあるのは、安堵ではなく、抉り取られたような空白感だった。
​(……あなたは、本当に忘れてしまったの?)
​いや、そんなはずはない。あの時、一瞬だけ彼が見せた視線の揺らぎを、優子は見逃さなかった。
彼は、優子が引いた「他人」という境界線を、一歩も踏み越えずに守りきったのだ。それは、彼なりの、今の優子の生活に対する最大限の「誠実さ」であり、同時に、二度と交わることのない断絶の宣言のようにも思えた。
​夕食時。健太が帰宅し、陽菜から事務所の様子を聞いて目を細めた。
「そうか、そんなに丁寧に案内してくれたのか。瀬戸さんは本当に、見かけによらず情熱的な人なんだな」
​「そうなの。お母さんにも、私の才能のこと、すごく褒めてくれたんだよ」
陽菜の言葉に、健太が優子を振り返る。
「よかったな、優子。お前も、実際にあの方と話してみて安心しただろ? ああいう真っ直ぐな人が陽菜を導いてくれるなら、俺たちも親として心強い」
​「……ええ。本当に、立派な方だったわ」
​優子は、喉の奥に刺さった棘を飲み込むように答えた。
夫が拓也を賞賛すればするほど、優子の中に残る「あの頃の拓也」が、激しく疼く。
健太が「誠実だ」と評したその態度は、優子との過去をすべて闇に葬り、自分を他人として扱うという、拓也の悲しい決意の表れなのだ。
​深夜。
陽菜や健太が眠りにつき、家の中が静まり返る。
優子は二階のベランダに出て、冷たい冬の夜空を見上げた。
​(あの子の癖は、あなたに似ている)
​彼が一度だけ、誰もいない空間で呟いたあの言葉。
あえて探るようなことをせず、初対面を崩さなかった彼が、あの一瞬だけ見せた「隙」。
優子は、自分の指先でベランダの手すりをなぞった。その指の動きが、かつて設計図をなぞっていたあの頃と同じであることを、今さらながら自覚する。
​拓也は、優子の嘘を壊さなかった。
その代わりに、彼は「他人」という仮面を被ることで、優子がかつて彼に願った『素敵な恋をしてほしい』という言葉への、彼なりの回答を示したのかもしれない。
​(私は、あの日……本当に、彼を解放できたのかしら)
​一方、事務所に残った拓也は、一人、陽菜が座っていた椅子の背もたれに手を置いていた。
スタッフも皆帰り、静まり返ったワークスペース。
彼は、優子が一度も目を合わせようとしなかった、その伏せられた睫毛の震えを思い出していた。
​「……変わらないな、あなたは」
​拓也は、デスクの引き出しの奥から、使い古された一本の製図用ペンを取り出した。それは、大学生の頃、優子からプレゼントされたものだった。
彼はそのペンを握りしめ、窓の外に広がる東京の夜景をじっと見つめる。
​彼は、彼女を追い詰めるつもりはなかった。
ただ、彼女が守り抜こうとしているその「偽りの平穏」が、どれほどの重みを持っているのか、それを自分の目で確かめたかっただけだ。
そして、その平穏の代償として自分が忘れ去られることを、彼は静かに受け入れようとしていた。
​けれど、彼の中の深い場所で、何かが静かに燃え続けている。
それは、決して「他人」にはなりきれない男の、最後の意地のような熱だった。
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