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第37章:真実の境界線
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事務所の奥にある応接室。防音扉に遮られ、外の怒鳴り声は聞こえないはずだった。しかし、陽菜は重い扉の隙間に指をかけ、わずかに開いたその空間から漏れ出す空気を、震えながら吸い込んでいた。
「血の繋がりなど、彼女が今描いている線の美しさに比べれば……」
瀬戸先生の、あの低く穏やかな声。それが父に向かって放たれたとき、陽菜の心臓は激しく脈打った。「血の繋がり」という言葉が、鋭いナイフのように彼女の耳を切り裂く。
(……どういう、こと……?)
陽菜の脳裏に、これまでの不可解な出来事が濁流のように押し寄せた。母が瀬戸先生に見せる、あの怯えたような、それでいて縋るような視線。姉の彩花が自分に向ける、憐れみを含んだ眼差し。 そして今、目の前で「お父さん」が、自分でも見たことがないような絶望に染まった顔をして立っている。
「……勝手なことを言うな!」
健太の絞り出すような声が、廊下まで漏れてきた。
「陽菜は俺の娘だ! 俺がこの手で育ててきたんだ! お前のような、後から現れた男に何がわかる!」
「そうですね。だからそう申し上げているんです。彼女の『父親』は、あなた以外の誰でもない。……あなたがそう信じ続けたいのであれば」
拓也の言葉には、慈悲などなかった。それは、健太がしがみついている「父親」という椅子が、いかに脆く、優子の嘘の上に築かれた砂の城であるかを突きつける冷酷な宣告だった。
健太はもう耐えられなかった。これ以上、この男と同じ空気を吸えば、自分という人間が内側から腐り落ちてしまうような気がした。
「陽菜! 帰るぞ!」
健太は応接室のドアを乱暴に開けた。 隙間に耳を押し当てていた陽菜は、弾かれたように後退りする。その顔は幽霊のように青ざめ、目には大粒の涙が溜まっていた。
「お父さん……?」 「いいから、来い。……こんな男のところに、二度と来るな」
健太は陽菜の手首を、痛いほどの力で掴んだ。陽菜が大事に抱えていた、あの古びた画集が床に落ちる。 健太はそれを拾うことさえ許さず、陽菜を半ば引きずるようにして出口へと向かった。
事務所のドアを出ようとしたその時。 背後から、拓也の静かな声が追いかけてきた。
「陽菜さん」
陽菜が足を止める。健太は振り返り、拓也を睨みつけた。
「彼女は、いずれ私のところへ戻ってきますよ。どれほど遠ざけようとしても、その指先に宿る『僕の線』が、彼女をここへ連れ戻す。……それが血の運命(さだめ)というものです、健太さん」
「黙れ……二度とその口を聞くな!」
健太は陽菜を抱えるようにして、夜の渋谷へと駆け出した。背後に残された事務所の窓からは、拓也が相変わらず静かな眼差しで、遠ざかる二人を見送っているのが見えた。
一方、新塚家のリビング。 彩花は、床に伏して動かない母・優子を、ただ冷たく見下ろしていた。
「お父さんが陽菜を連れて帰ってきたら、なんて言うつもり? 『陽菜はあいつとの子供だけど、あなたのことも愛してるわ』って、また嘘を重ねるの?」
「彩花、もうやめて……」
「やめないよ。お母さんが一番恐れていたことが起きたんだよ。家族が、家族じゃなくなったんだ」
その時、玄関のドアが乱暴に開く音がした。 健太と、泣き腫らした陽菜が帰宅したのだ。 リビングに足を踏み入れた健太の目は、もはや優子を「妻」としては見ていなかった。そこにあるのは、自分を裏切り、家族を地獄に突き落とした一人の女への、凍てつくような憎悪だった。
「血の繋がりなど、彼女が今描いている線の美しさに比べれば……」
瀬戸先生の、あの低く穏やかな声。それが父に向かって放たれたとき、陽菜の心臓は激しく脈打った。「血の繋がり」という言葉が、鋭いナイフのように彼女の耳を切り裂く。
(……どういう、こと……?)
陽菜の脳裏に、これまでの不可解な出来事が濁流のように押し寄せた。母が瀬戸先生に見せる、あの怯えたような、それでいて縋るような視線。姉の彩花が自分に向ける、憐れみを含んだ眼差し。 そして今、目の前で「お父さん」が、自分でも見たことがないような絶望に染まった顔をして立っている。
「……勝手なことを言うな!」
健太の絞り出すような声が、廊下まで漏れてきた。
「陽菜は俺の娘だ! 俺がこの手で育ててきたんだ! お前のような、後から現れた男に何がわかる!」
「そうですね。だからそう申し上げているんです。彼女の『父親』は、あなた以外の誰でもない。……あなたがそう信じ続けたいのであれば」
拓也の言葉には、慈悲などなかった。それは、健太がしがみついている「父親」という椅子が、いかに脆く、優子の嘘の上に築かれた砂の城であるかを突きつける冷酷な宣告だった。
健太はもう耐えられなかった。これ以上、この男と同じ空気を吸えば、自分という人間が内側から腐り落ちてしまうような気がした。
「陽菜! 帰るぞ!」
健太は応接室のドアを乱暴に開けた。 隙間に耳を押し当てていた陽菜は、弾かれたように後退りする。その顔は幽霊のように青ざめ、目には大粒の涙が溜まっていた。
「お父さん……?」 「いいから、来い。……こんな男のところに、二度と来るな」
健太は陽菜の手首を、痛いほどの力で掴んだ。陽菜が大事に抱えていた、あの古びた画集が床に落ちる。 健太はそれを拾うことさえ許さず、陽菜を半ば引きずるようにして出口へと向かった。
事務所のドアを出ようとしたその時。 背後から、拓也の静かな声が追いかけてきた。
「陽菜さん」
陽菜が足を止める。健太は振り返り、拓也を睨みつけた。
「彼女は、いずれ私のところへ戻ってきますよ。どれほど遠ざけようとしても、その指先に宿る『僕の線』が、彼女をここへ連れ戻す。……それが血の運命(さだめ)というものです、健太さん」
「黙れ……二度とその口を聞くな!」
健太は陽菜を抱えるようにして、夜の渋谷へと駆け出した。背後に残された事務所の窓からは、拓也が相変わらず静かな眼差しで、遠ざかる二人を見送っているのが見えた。
一方、新塚家のリビング。 彩花は、床に伏して動かない母・優子を、ただ冷たく見下ろしていた。
「お父さんが陽菜を連れて帰ってきたら、なんて言うつもり? 『陽菜はあいつとの子供だけど、あなたのことも愛してるわ』って、また嘘を重ねるの?」
「彩花、もうやめて……」
「やめないよ。お母さんが一番恐れていたことが起きたんだよ。家族が、家族じゃなくなったんだ」
その時、玄関のドアが乱暴に開く音がした。 健太と、泣き腫らした陽菜が帰宅したのだ。 リビングに足を踏み入れた健太の目は、もはや優子を「妻」としては見ていなかった。そこにあるのは、自分を裏切り、家族を地獄に突き落とした一人の女への、凍てつくような憎悪だった。
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