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エピローグ:それぞれの航路
2月12日。山科徹(48)は、品川駅のホームで長男の大輔(22)を待っていた。 今日は、大学を卒業し春から大手商社への就職が決まった大輔の「社会人予行演習」を兼ねた、父子二人の酒宴の日だった。
「父さん、待たせたな」 人混みを割って現れた大輔は、徹の背を追い越しそうなほど逞しくなっていた。その表情には、数年前、母の裏切りに直面して絶望していた少年の面影はない。
「智子さんから聞いたよ。今日のために、いい店を予約してくれたんだって?」 「ああ。智子が『男同士の話もあるでしょうから』って勧めてくれてね」 二人は銀座の静かな割烹へ向かった。
カウンターで盃を傾けながら、大輔がふと真面目な顔で切り出した。 「……俺さ、実は就職が決まった時、一瞬だけ、母さんに知らせようか迷ったんだ」 徹は酒を口に運ぶ手を止め、黙って息子の言葉を待った。
「でも、やめた。あの日、父さんが『自分の人生を生きる』と決めて前を向いた姿を見て、俺も決めたんだ。過去に囚われるんじゃなくて、今、俺を支えてくれている人たちを一番に大事にしようって。今の俺にとって、家族は父さんと真司、そして智子さんなんだ」
徹は胸の奥が熱くなるのを感じた。 「……そうか。大輔、お前は強いな」 「父さんの背中を見てたからだよ」 大輔は笑って、徹のグラスに酒を注いだ。次男の真司(19)も、大学のサークルやバイトに明け暮れ、充実した日々を送っている。あの壊滅的な崩壊から、彼らは自分たちの力で新しい家族の形を作り上げたのだ。
宴を終え、徹が世田谷の自宅へ帰ると、智子がリビングで本を読みながら待っていた。 「おかえりなさい。大輔くん、元気でした?」 「ああ。立派な大人になったよ。智子のおかげだ」 徹が彼女の肩に手を置くと、智子は嬉しそうに微笑んだ。
徹はふと、リビングの窓から夜空を見上げた。 かつてこの場所には、嘘と裏切りが渦巻いていた。しかし今、ここにあるのは透明な信頼と、穏やかな日常の音だけだ。
一方、地方の片隅。 美香(49)は、冷え切ったワンルームマンションの布団の中で、スマートフォンの画面を見つめていた。検索窓に「山科徹」と打ち込み、数年前の経済記事を何度も読み返す。それが彼女にとって唯一、かつて「自分の夫」だった男との繋がりだった。
彼女の指先は、もう誰にも届かない。 自分が手放したものの価値、裏切った愛の重さ。それを一生、冷たい部屋で噛み締め続ける。それが彼女に課せられた、終わりのない刑罰だった。
徹は智子の手を取り、静かに明かりを消した。 明日もまた、誠実な一日が始まる。失ったものは二度と戻らない。けれど、その代わりに手に入れた「真実の幸せ」を、徹はもう二度と離さないと誓った。
(完)
「父さん、待たせたな」 人混みを割って現れた大輔は、徹の背を追い越しそうなほど逞しくなっていた。その表情には、数年前、母の裏切りに直面して絶望していた少年の面影はない。
「智子さんから聞いたよ。今日のために、いい店を予約してくれたんだって?」 「ああ。智子が『男同士の話もあるでしょうから』って勧めてくれてね」 二人は銀座の静かな割烹へ向かった。
カウンターで盃を傾けながら、大輔がふと真面目な顔で切り出した。 「……俺さ、実は就職が決まった時、一瞬だけ、母さんに知らせようか迷ったんだ」 徹は酒を口に運ぶ手を止め、黙って息子の言葉を待った。
「でも、やめた。あの日、父さんが『自分の人生を生きる』と決めて前を向いた姿を見て、俺も決めたんだ。過去に囚われるんじゃなくて、今、俺を支えてくれている人たちを一番に大事にしようって。今の俺にとって、家族は父さんと真司、そして智子さんなんだ」
徹は胸の奥が熱くなるのを感じた。 「……そうか。大輔、お前は強いな」 「父さんの背中を見てたからだよ」 大輔は笑って、徹のグラスに酒を注いだ。次男の真司(19)も、大学のサークルやバイトに明け暮れ、充実した日々を送っている。あの壊滅的な崩壊から、彼らは自分たちの力で新しい家族の形を作り上げたのだ。
宴を終え、徹が世田谷の自宅へ帰ると、智子がリビングで本を読みながら待っていた。 「おかえりなさい。大輔くん、元気でした?」 「ああ。立派な大人になったよ。智子のおかげだ」 徹が彼女の肩に手を置くと、智子は嬉しそうに微笑んだ。
徹はふと、リビングの窓から夜空を見上げた。 かつてこの場所には、嘘と裏切りが渦巻いていた。しかし今、ここにあるのは透明な信頼と、穏やかな日常の音だけだ。
一方、地方の片隅。 美香(49)は、冷え切ったワンルームマンションの布団の中で、スマートフォンの画面を見つめていた。検索窓に「山科徹」と打ち込み、数年前の経済記事を何度も読み返す。それが彼女にとって唯一、かつて「自分の夫」だった男との繋がりだった。
彼女の指先は、もう誰にも届かない。 自分が手放したものの価値、裏切った愛の重さ。それを一生、冷たい部屋で噛み締め続ける。それが彼女に課せられた、終わりのない刑罰だった。
徹は智子の手を取り、静かに明かりを消した。 明日もまた、誠実な一日が始まる。失ったものは二度と戻らない。けれど、その代わりに手に入れた「真実の幸せ」を、徹はもう二度と離さないと誓った。
(完)
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