会社員の青年と清掃員の老婆の超越した愛

MisakiNonagase

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越境 青年と老婆

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レンは二十六歳、都心のオフィスビルで働く普通の会社員だった。そんな彼の日常に、唯一の彩りを添えていたのが、ビルの清掃員、カズコだった。

カズコは七十歳、委託会社の清掃員として、夕方からビル内を黙々と掃除していた。愛嬌のある笑顔と、隅々まで丁寧に拭き上げる真面目な仕事ぶりで、レンをはじめ、ビルの誰からも好かれていた。夫と二人暮らしで、孫もおり、経済的に困っているわけではなかった。ただ、「身体が動くうちは、自分にできることを無理なく」が口癖の、気丈な老婆だった。

ある金曜日の夜、定時で仕事を終えたレンが、会社近くのよく行く立ち飲み屋に入ると、カズコが一人でカウンターに座っていた。清掃員の青い作業服姿しか見たことのなかったレンは、少し驚いた。私服のカズコは、淡いベージュのカーディガンに紺色のスカートという、ごく普通の装いだったが、整った小奇麗な顔立ちが、柔らかな店内の照明に照らされて、どこか輝いて見えた。

「あら、レンさん。お疲れ様」

カズコが気さくに声をかける。これまで挨拶以上の会話はほとんどなかったが、レンは自然と隣に座った。

「カズコさんも、ここよく来られるんですか?」
「ええ、たまにね。主人が釣りに行った日なんかは、一人でここで一杯やるのが楽しみで」

ビールを一口飲みながら、話は弾んだ。住まいが数駅離れた同じ沿線だと知り、料理の話ではカズコが「うちの孫も好きな肉じゃが、コツは玉ねぎをしっかり炒めることよ」と、さりげないアドバイスをくれた。その自然な優しさに、レンは思わずLINEの交換を申し出た。カズコは少し戸惑ったように笑ったが、「孫に教えてもらったばかりなのよ」と言いながら、スマートフォンを取り出した。

それから、時折、立ち飲み屋でばったり会うと、一緒に一杯飲むようになった。世代の差など感じさせない、たわいもない会話。カズコの話す、長年の主婦生活で培った知恵や、家族との何気ないエピソードは、レンの狭かった世界を、そっと広げてくれるようだった。帰りは同じ電車に乗り、カズコの駅で別れる。レンは、彼女と過ごす時間が、なぜか心地よいと感じていた。無意識に惹かれていることには、まだ気づいていなかった。

ある日、レンは思い切って言った。
「カズコさんに教えてもらった肉じゃが、練習したんです。よかったら、食べに来ませんか? ご馳走したいな」

一瞬、目を丸くしたカズコだったが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「そう? じゃあ、腕前、拝見させてもらおうかしら」

次の日曜日の昼下がり、カズコはレンの一人暮らしのマンションを訪れた。レンが緊張しながら作った肉じゃがを、二人で囲んだ。カズコは「美味しいわね、玉ねぎが甘くて」と褒めてくれた。窓から差し込む穏やかな日差し。テーブルの上のグラスに残った麦茶の氷が、かすかな音を立てて溶ける。

その穏やかな時間が、何かを変えた。

食器を片付け、ソファに腰掛けてテレビのニュースを見ていると、レンはふと、隣に座るカズコの横顔を見た。細くて白い首筋。耳たぶにかかった銀色の髪の毛。長い年月を経て、深みを増したその佇まいが、突然、たまらなく愛おしく思えた。これまで「清掃員のカズコさん」「気さくなおばあちゃん」という枠でしか見ていなかった彼女が、今、ここに、「一人の女性」として存在していることに、初めて気がついたのだ。

鼓動が早くなる。理性が警告する声は、遠くにかすんで聞こえる。
レンは、さりげなくカズコのすぐ横に座り直した。肩にそっと手を回す。カズコがゆっくりとこちらの顔を向く。その瞳には、驚きと、深い理解、そして少しの諦めのようなものが混ざっていた。レンは顔を近づけ、彼女の柔らかい唇に触れた。

カズコは一瞬、身体を硬くした。しかし、押し返すことはなかった。ただ、深くため息をつくと、目を閉じた。そのまま、自然に身を任せるように、レンに導かれてベッドへ移った。世代も立場も越えた、禁断の一線が、静かに越えられていった。

行為の後、レンが腕を枕にして天井を見つめていると、カズコが小さな声で言った。
「…レンさん。これは、間違ってるわ」
「…」
「あなたには、これから長い未来がある。私のような老婆と、こんな関係になって…将来のことを考えて」
言葉は拒絶でも、その横顔には深い慈愛が浮かんでいた。
「でも…」カズコは続けた。「…もう、長いこと、『女』として見てもらったことなんてなかったからね。少し…身を任せても、いいのかなって」



それから、二人は奇妙な関係を続けた。主にレンの部屋で、肉体を重ね、身を寄せ合った。情事というより、互いの孤独と温もりを分かち合う「情状」に近い、静かで濃密な時間。カズコはレンに、人生の深みと優しさを教え、レンはカズコに、忘れかけていた自分自身の「女」としての存在を思い出させた。公の場では、相変わらず「会社員のレンさん」と「清掃員のカズコさん」。その秘密は、小さなマンションの一室だけに閉じ込められた。

月日は流れ、レンは三十代半ばになった。周囲の勧めもあり、見合いを経て、良縁に恵まれた。家庭を持ち、やがて子供も生まれた。カズコとの関係は、自然と薄れていった。最後に会ったのは、レンの結婚が決まった報告をしに行った時だった。カズコは、心から祝福するような温かい笑顔を見せ、「お幸せに」とだけ言った。それ以来、連絡は途絶えた。

それからさらに年月が過ぎたある日、レンは旧職場の同僚から一本のメールを受け取った。
「以前、ビルで清掃をされていたカズコさんが、先週、老衰で亡くなられたそうです」

胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。葬儀は、ごく身内だけで執り行われるという。レンは「元同僚」として、個人で参列することを決めた。

小さな葬儀場。参列者はまばらだった。祭壇の中央に飾られた写真は、レンが知っている、あの愛嬌のある笑顔だった。棺の中のカズコは、とても穏やかな、ほんのり笑みを浮かべた寝顔をしていた。まるで、深い満足の中にいるようだった。

レンは焼香を済ませ、そっと目を閉じた。
あの立ち飲み屋での出会い。自室で交わした無数の会話。世代を越えて分かち合った温もり。すべてが、かけがえのない贈り物だった。

「ありがとう、カズコさん」
心の中で呟き、彼は静かに場を後にした。外は、春の柔らかな陽射しが降り注いでいた。彼の背中には、かつての青年の面影はなく、一人の大人の男の、深く静かな哀しみと感謝の色が宿っていた。越えたはずの境界線の向こう側で、彼は確かに、愛の一つの形を教わったのだ。

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