清掃員と僕の密やかな情状

MisakiNonagase

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第1章:青い作業服の微笑み

都心のオフィスビル、その32階にあるITコンサルティング会社が、高城蓮の主戦場だった。

26歳の蓮にとって、日常とは無機質な数字の羅列と、終わりの見えない納期、そして絶え間なく響くキーボードの打鍵音で構成されていた。

​このフロアには、午後の数時間だけ、静かな「凪」のような時間が訪れる。それが、山科和子が姿を見せる時間だった。

​和子は今年で70歳になる。委託先の清掃会社から派遣されており、彼女のシフトは13:00から19:00までの実働約4時間半(休憩を含む)と決まっていた。夕方、日が傾き始め、オフィスに西日が差し込む時間帯に、彼女は決まって蓮のデスクの周りに現れる。

​「お疲れ様です、蓮さん。少し根を詰めすぎじゃないかしら」

​背後からかけられた穏やかな声に、蓮は強張った肩を小さく回して振り向いた。そこには、体型に合わない少しぶかぶかとした青い作業服に身を包んだ、山科和子が立っていた。

​シルバーグレーの髪を後ろできっちりとまとめ、日焼けした顔には、深い年輪のような皺が刻まれている。しかし、その瞳だけは驚くほど澄んでいて、見る者を安心させる不思議な包容力を持っていた。

​「ああ、和子さん。こんにちは。今日はこれから会議で、ちょっと資料を急いでるんです」

「あらあら、大変ね。でも、深呼吸を忘れないで。人間、息を詰めすぎると良い知恵も逃げていっちゃうわよ」

​和子はいたずらっぽく笑うと、手慣れた動作でワゴンから除菌スプレーとクロスを取り出した。彼女の仕事は完璧だった。蓮がランチでこぼしたコーヒーの小さな染みも、電話機に積もった僅かな埃も、彼女が通り過ぎた後には霧が晴れたように消え去っている。

​15:00を過ぎ、フロアが慌ただしさを増す中でも、和子の周囲だけは時間がゆっくりと流れているようだった。彼女が立てる「キュッ、キュッ」というリズミカルな拭き掃除の音は、殺伐としたオフィスにおいて、唯一、人間らしい温もりを感じさせるメトロノームのようだった。

​「和子さんは、毎日この時間なんですね。腰とか大丈夫なんですか?」

蓮は、ディスプレイから目を離して問いかけた。

「ええ、13:00から17:00くらいまでが一番体が動くのよ。19:00に仕事が終わって外に出ると、夜の空気が気持ちよくてね。おかげさまで、主人がうるさいくらい健康に気を使ってくれるから、今のところは元気にやらせてもらってるわ」

​和子は手を休めることなく答える。彼女には定年を過ぎても働く理由が、経済的な困窮ではないことを蓮は知っていた。以前、彼女は「家でじっとしていると、自分が錆びついていくような気がして。誰かの役に立って、身体が動くうちは自分にできることを無理なく、ね。それが口癖なの」と笑っていた。

​ある日の夕暮れ時。蓮が深刻なプログラムのエラーに頭を抱え、デスクに突っ伏していた時のことだ。
18:30を回り、和子の勤務終了時間が近づいていた。和子は最後のゴミ回収を終えると、蓮のデスクの隅に、小さな、温かい紙コップを置いた。

​「これ……」

「給湯室で淹れたてのほうじ茶。糖分も必要かと思って、お砂糖を少し入れておいたわよ。お行儀悪いけど、たまにはこういうのもいいでしょう?」
​和子は茶目っ気たっぷりにウインクをした。
包みを開けると、素朴な香ばしい香りが広がった。口に含むと、ほのかな甘みが、冷え切った蓮の体と心をじんわりと解きほぐしていくのがわかった。

​「……ありがとうございます、和子さん。助かりました」

「いいのよ。私は19:00になったらお先に失礼するけど、あんまり夜更かししちゃダメよ、蓮さん」

​その日以来、二人の間には、単なる「社員」と「清掃員」という枠を超えた、ささやかな信頼が芽生え始めた。

和子は、蓮が新しいプロジェクトのリーダーになったと言えば自分のことのように喜び、連日遅くまで残業が続く時期には、清掃の合間に「あと一踏ん張りね」と短い言葉をかけていった。蓮もまた、彼女が新しい掃除用具の使い方に戸惑っていれば手助けをし、時には彼女の孫の話や、趣味の釣りに熱中する夫の話に耳を傾けた。

​しかし、この時の蓮にとって、山科和子という女性は、あくまで「青い作業服を着た、心優しい、気丈な老婆」でしかなかった。

彼女の背負ってきた70年という歳月の重みや、その作業服の下に隠された「一人の女」としての柔らかな佇まいに触れることになるとは、まだ想像もしていなかった。

​季節は秋から冬へと移り変わり、街にクリスマスのイルミネーションが灯り始めた12月のある金曜日。
蓮は珍しく19:00過ぎに仕事を切り上げることができた。ちょうど和子の退勤時間と重なる頃だったが、オフィスを出る時には彼女の姿は見当たらなかった。

​冷え込みの厳しい夜だった。コートの襟を立て、会社近くの馴染みの立ち飲み屋へと足を向けた彼は、そこで自分の目を疑うことになる。
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