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アラ還女性と二十歳の青年との恋愛模様
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六十一歳のますみは、朝五時半に目を覚ました。隣では夫が規則正しい寝息を立てている。三十六歳と三十二歳の子供たちはそれぞれ独立し、四人の孫たちの写真がリビングに飾られていた。平凡で、安定した、何も不足のない日常。窓の外には薄明かりが差し始め、彼女は静かにベッドを抜け出した。
キッチンでコーヒーを淹れながら、スマートフォンを確認した。推しのロックバンド「クロノス」の公式ファンクラブからのメールが届いていた。次回の地方公演のチケット抽選、当選。彼女の唇がほんのりと緩んだ。この瞬間が、彼女の習慣、いや、人生のハイライトだった。
夫に朝食の準備を整え、「買い物に行ってくる」と告げて家を出た。買い物カゴには確かに野菜がいくつか入っていたが、彼女の心はすでに三百キロ離れたライブ会場に飛んでいた。オフ会で知り合ったファン仲間とのLINEグループは、すでに盛り上がっている。中でも、大学生の悠人とは特に気が合った。二十歳。孫ほどの年齢差があったが、音楽の話になると時間を忘れた。住まいが近かったこともあり、純粋な「推し活仲間」として、二人でライブに行くことが増えていった。
今回の地方公演も、もちろん悠人と一緒だ。新幹線の座席は隣同士。彼が大学の講義の話をし、ますみが孫の自慢話をする。その奇妙なバランスが、なぜか心地よかった。立場も年齢も大きく違うのだから、男女としての意識など微塵もなかった。彼はまるで、もう一人の息子のようだった。
ライブは最高に盛り上がった。ステージ上の轟音と熱気に、ますみは六十一歳の身体を忘れて飛び跳ねた。隣で同じように叫ぶ悠人の横顔が、一瞬、とても頼もしく見えた。
終演後、二人は会場近くの居酒屋で遅い食事をとった。話が尽きず、もっと話そうと、つい「部屋で飲まない?」という悠人の軽い誘いに乗ってしまった。ホテルの部屋は別々に取ってある。ただのファン同士の打ち上げだ、とますみは思った。
悠人の部屋はシンプルなビジネスホテルの一室。缶ビールとチューハイを手に、ライブの興奮冷めやらぬまま語り合った。時計の針は知らないうちに深夜を回っていた。
「ますみさん」
突然、悠人が真剣な声で彼女の名前を呼んだ。
「僕、ますみさんのことが好きです」
ますみは一瞬、耳を疑った。ジョークか、と顔を上げると、悠人の目はまっすぐに自分を見つめていた。からかっているようには見えない。彼女は慌てて笑いながらごまかそうとした。
「何言ってるのよ、おばあちゃんに。あなた、私の孫くらいの歳でしょ?」
「年齢なんて関係ないって、ますみさん自身がいつも言ってたじゃないですか。『クロノス』の音楽に年齢は関係ないって」
彼の言葉に、ますみは押し黙った。確かにそう言っていた。音楽に対しては。でも、これは…。
気がつくと、悠人が隣に座り、距離を詰めていた。彼の若々しい顔が近づき、そして、彼の唇がますみの唇に触れた。
「……っ!」
驚きが身体を走った。しかし、その驚きのすぐ後に、長年感じたことのない、胸の高鳴りが押し寄せてきた。夫とのキスは、いつからか儀礼的なものになっていた。この震えるような緊張感、鼓動の早さを、彼女は忘れていた。
理性は「いけない」と叫んでいた。しかし、身体はもう動いていた。流れに任せて、というより、押し寄せる感情の波に抗えず、彼女はその一線を越えた。
朝日がカーテンの隙間から差し込んだ時、ますみは見知らぬ天井を見つめていた。横では悠人が深く眠っている。若く、均整の取れた身体。彼の腕が無防備にますみの上に横たわっていた。一夜の出来事が、悪夢でも夢でもなく、現実としての重みで彼女の胸にのしかかる。
朝食をとるホテルのレストランは、重苦しい沈黙に包まれていた。コーヒーカップを持つますみの手がわずかに震えているのに、自分で気づいた。
「あの…悠人くん」ますみは覚悟を決めて口を開いた。「昨夜は…一時の迷いだったのよ。きっとライブの興奮の余韻とか、そういうものだったんだと思う。これは間違いだった。一度きりのこと。忘れよう」
そう言い切らなければ、自分が壊れてしまいそうだった。
悠人の顔が歪んだ。「そんな…ますみさん。僕の気持ちは迷いなんかじゃない。でも…でも、せめてこれまで通り、友達のままでいてくれませんか? 突然全部なくなっちゃうのは…つらい」
彼の切実な瞳を見て、ますみはぐらりと心が揺れた。完全に断ち切る勇気が、自分にないことに気づいた。
「…わかったわ。友達のままで」
その言葉は、自分自身への嘘だった。
それから、二人の関係は「なんだかんだ」で続いていった。「クロノス」のライブという完璧なアリバイを盾に、ますみは悠人の一人暮らしの部屋に泊まることが増えた。小さなワンルームは、彼の教科書と、ますみがこっそり置いていったヘアブラシとが混在する、奇妙で甘い空間だった。
彼の優しさは、時に子供っぽく、時に大人びていて、ますみの心を癒した。長年家庭を守り、妻として、母として、祖母として生きてきた中で忘れていた「女」としての自分を、悠人はそっと引き出してくれた。彼の若く緊密な身体に抱かれる時間は、彼女に忘れていた生命力を呼び覚ませた。
「このまま、彼と一緒にいたい」
ベッドで悠人の寝息を聞きながら、ますみは切実に思った。同時に、冷たい現実が背筋を這い上がる。
いつか必ず終わる。この関係が発覚すれば、家族は崩壊する。夫は、子供たちは、孫たちは、彼女をどう見るだろう。悠人だって、いつか本当の意味で同年齢の恋人を見つけるに違いない。六十歳を超えた女と二十歳の男。世間は冷たい目でしか見ない。
恐怖はあった。しかし、窓から差し込む朝日に、悠人の柔らかな髪が黄金色に輝くのを見ると、すべてを投げ出したくなった。
ある朝、ますみは決意した。家族には最低限の迷惑すらかけない。夫にも嘘はつかない、家事もこれまで通り完璧にこなす。ただ、この心の隙間を、この若さの残り火を、消したくない。
駅までの道で、悠人の手をこっそり握りしめた。彼が驚いて振り向くと、ますみは小さく微笑んだ。
「次のライブ、どこに行く?」
この先、どこまで行けるかわからない。崖っぷちの道かもしれない。それでも、今この瞬間、彼と並んで歩くこの道が、六十一年の人生で一番、鮮やかに輝いて見えたのだから。
キッチンでコーヒーを淹れながら、スマートフォンを確認した。推しのロックバンド「クロノス」の公式ファンクラブからのメールが届いていた。次回の地方公演のチケット抽選、当選。彼女の唇がほんのりと緩んだ。この瞬間が、彼女の習慣、いや、人生のハイライトだった。
夫に朝食の準備を整え、「買い物に行ってくる」と告げて家を出た。買い物カゴには確かに野菜がいくつか入っていたが、彼女の心はすでに三百キロ離れたライブ会場に飛んでいた。オフ会で知り合ったファン仲間とのLINEグループは、すでに盛り上がっている。中でも、大学生の悠人とは特に気が合った。二十歳。孫ほどの年齢差があったが、音楽の話になると時間を忘れた。住まいが近かったこともあり、純粋な「推し活仲間」として、二人でライブに行くことが増えていった。
今回の地方公演も、もちろん悠人と一緒だ。新幹線の座席は隣同士。彼が大学の講義の話をし、ますみが孫の自慢話をする。その奇妙なバランスが、なぜか心地よかった。立場も年齢も大きく違うのだから、男女としての意識など微塵もなかった。彼はまるで、もう一人の息子のようだった。
ライブは最高に盛り上がった。ステージ上の轟音と熱気に、ますみは六十一歳の身体を忘れて飛び跳ねた。隣で同じように叫ぶ悠人の横顔が、一瞬、とても頼もしく見えた。
終演後、二人は会場近くの居酒屋で遅い食事をとった。話が尽きず、もっと話そうと、つい「部屋で飲まない?」という悠人の軽い誘いに乗ってしまった。ホテルの部屋は別々に取ってある。ただのファン同士の打ち上げだ、とますみは思った。
悠人の部屋はシンプルなビジネスホテルの一室。缶ビールとチューハイを手に、ライブの興奮冷めやらぬまま語り合った。時計の針は知らないうちに深夜を回っていた。
「ますみさん」
突然、悠人が真剣な声で彼女の名前を呼んだ。
「僕、ますみさんのことが好きです」
ますみは一瞬、耳を疑った。ジョークか、と顔を上げると、悠人の目はまっすぐに自分を見つめていた。からかっているようには見えない。彼女は慌てて笑いながらごまかそうとした。
「何言ってるのよ、おばあちゃんに。あなた、私の孫くらいの歳でしょ?」
「年齢なんて関係ないって、ますみさん自身がいつも言ってたじゃないですか。『クロノス』の音楽に年齢は関係ないって」
彼の言葉に、ますみは押し黙った。確かにそう言っていた。音楽に対しては。でも、これは…。
気がつくと、悠人が隣に座り、距離を詰めていた。彼の若々しい顔が近づき、そして、彼の唇がますみの唇に触れた。
「……っ!」
驚きが身体を走った。しかし、その驚きのすぐ後に、長年感じたことのない、胸の高鳴りが押し寄せてきた。夫とのキスは、いつからか儀礼的なものになっていた。この震えるような緊張感、鼓動の早さを、彼女は忘れていた。
理性は「いけない」と叫んでいた。しかし、身体はもう動いていた。流れに任せて、というより、押し寄せる感情の波に抗えず、彼女はその一線を越えた。
朝日がカーテンの隙間から差し込んだ時、ますみは見知らぬ天井を見つめていた。横では悠人が深く眠っている。若く、均整の取れた身体。彼の腕が無防備にますみの上に横たわっていた。一夜の出来事が、悪夢でも夢でもなく、現実としての重みで彼女の胸にのしかかる。
朝食をとるホテルのレストランは、重苦しい沈黙に包まれていた。コーヒーカップを持つますみの手がわずかに震えているのに、自分で気づいた。
「あの…悠人くん」ますみは覚悟を決めて口を開いた。「昨夜は…一時の迷いだったのよ。きっとライブの興奮の余韻とか、そういうものだったんだと思う。これは間違いだった。一度きりのこと。忘れよう」
そう言い切らなければ、自分が壊れてしまいそうだった。
悠人の顔が歪んだ。「そんな…ますみさん。僕の気持ちは迷いなんかじゃない。でも…でも、せめてこれまで通り、友達のままでいてくれませんか? 突然全部なくなっちゃうのは…つらい」
彼の切実な瞳を見て、ますみはぐらりと心が揺れた。完全に断ち切る勇気が、自分にないことに気づいた。
「…わかったわ。友達のままで」
その言葉は、自分自身への嘘だった。
それから、二人の関係は「なんだかんだ」で続いていった。「クロノス」のライブという完璧なアリバイを盾に、ますみは悠人の一人暮らしの部屋に泊まることが増えた。小さなワンルームは、彼の教科書と、ますみがこっそり置いていったヘアブラシとが混在する、奇妙で甘い空間だった。
彼の優しさは、時に子供っぽく、時に大人びていて、ますみの心を癒した。長年家庭を守り、妻として、母として、祖母として生きてきた中で忘れていた「女」としての自分を、悠人はそっと引き出してくれた。彼の若く緊密な身体に抱かれる時間は、彼女に忘れていた生命力を呼び覚ませた。
「このまま、彼と一緒にいたい」
ベッドで悠人の寝息を聞きながら、ますみは切実に思った。同時に、冷たい現実が背筋を這い上がる。
いつか必ず終わる。この関係が発覚すれば、家族は崩壊する。夫は、子供たちは、孫たちは、彼女をどう見るだろう。悠人だって、いつか本当の意味で同年齢の恋人を見つけるに違いない。六十歳を超えた女と二十歳の男。世間は冷たい目でしか見ない。
恐怖はあった。しかし、窓から差し込む朝日に、悠人の柔らかな髪が黄金色に輝くのを見ると、すべてを投げ出したくなった。
ある朝、ますみは決意した。家族には最低限の迷惑すらかけない。夫にも嘘はつかない、家事もこれまで通り完璧にこなす。ただ、この心の隙間を、この若さの残り火を、消したくない。
駅までの道で、悠人の手をこっそり握りしめた。彼が驚いて振り向くと、ますみは小さく微笑んだ。
「次のライブ、どこに行く?」
この先、どこまで行けるかわからない。崖っぷちの道かもしれない。それでも、今この瞬間、彼と並んで歩くこの道が、六十一年の人生で一番、鮮やかに輝いて見えたのだから。
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