サレ夫の監獄 ―世間体という名の鎖―

MisakiNonagase

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Case 5:パパと呼ばないで―杉本健一の場合

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杉本健一(38)が何よりも大切にしていたのは、5歳になる娘の姫加(ひめか)だった。

仕事から帰り、姫加が「パパ!」と駆け寄ってくる瞬間、日中の疲れはすべて霧散した。自分は、この子のために生きている。そう信じて疑わなかった。

​しかし、その聖域は、妻・佳代(36)の不倫によって無残に侵食されていた。
​相手は、佳代が通うヨガ教室のオーナー、伊勢(30)。

健一が不倫に気づいたのは、姫加が描いた一枚の絵だった。そこには、佳代と姫加、そして見知らぬ「眼鏡をかけた男」が手を繋いで笑っている姿があった。

​「姫加、この人はだれ?」

「伊勢くん。パパよりも優しくて、一緒に遊んでくれるの」

​心臓が冷えるのを感じた。健一が家族のために残業し、孤独に働いている間に、佳代は伊勢を家庭の中に、そして姫加の心の中に引き込んでいたのだ。

​健一は佳代を問い詰めた。だが、佳代から返ってきたのは謝罪ではなく、冷徹な「宣告」だった。

​「姫加はもう、伊勢くんに懐いてるわ。あなたが怒鳴ったり、裁判なんて騒ぎを起こしたら、一番傷つくのはこの子よ? 父親なら、姫加の幸せを第一に考えるべきじゃない?」

​佳代は、健一の「父親としての責任感」を逆手に取り、不倫を認めさせるどころか、健一を家庭の『外側』へと追いやり始めた。

​ある週末、健一が仕事から帰ると、リビングから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
ドアを開けると、そこには伊勢が座り、姫加に絵本を読み聞かせていた。佳代は隣で、健一には決して見せないような穏やかな顔で茶を淹れている。

​「あ、パパ。伊勢くん、今日もお泊りしていい?」

​姫加の無邪気な言葉が、健一の胸を深く抉った。
健一は怒鳴りたかった。伊勢を家から叩き出し、自分の権利を主張したかった。しかし、それをすれば姫加は泣き叫び、佳代は「暴力的な父親」として彼を家から完全に締め出すだろう。

​「……ああ、いいよ。パパ、今日は疲れてるから、もう寝るね」
​健一は自分の家でありながら、這いずるように寝室へ逃げ込んだ。
壁一枚隔てた向こう側では、自分が必死に稼いで払っている住宅ローンの家で、妻と娘、そして見知らぬ男が「新しい家族」を演じている。

​伊勢は時折、健一と目が合うと、勝ち誇ったような、それでいて深い憐れみを込めた笑みを浮かべる。

「君はただのスポンサーだよ」
その瞳が、そう語っていた。

​健一は、不倫を公にすることができなかった。

もし離婚裁判になれば、いくら妻の不貞とはいえ、姫加の親権は母親である佳代にいく可能性がある。そうなれば、自分は姫加に二度と会えなくなるかもしれない。
この地獄のような「共同生活」に耐えることが、姫加の傍にいられる唯一の条件だった。

​「知らなければ、よかった……」
​夜中、健一はリビングに落ちていた姫加の玩具を拾い上げ、暗闇の中で声を殺して泣いた。

客観的に見れば、今すぐ家を出て弁護士を立てるべきだ。だが、世間には「円満な家庭」として映っているこの虚飾を壊す勇気が、彼にはなかった。
​翌朝、健一は姫加を幼稚園へ送るため、玄関で靴を履かせた。

「パパ、行ってきます!」
その笑顔だけが救いだった。しかし、幼稚園の門の前で姫加が振り返り、遠くで手を振る伊勢に向かって、「伊勢パパー!」と叫んだ瞬間。

​健一の心は、音を立てて砕け散った。
公にならなければ、自分はまだ「パパ」でいられたのか。それとも、知ってしまったあの日から、自分はもう死んでいたのか。

彼に残されたのは、愛する娘に別の男を「パパ」と呼ばせることを許容し続ける、抜け殻のような毎日だけだった。
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