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第1章:はじまりの予感 —— 凍える駅前と、新しいカバン
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1. 塾の門を叩く理由
2024年、冬。
10歳の冬は、それまでの人生で一番、空気が冷たく感じられた。
野上遥人(のがみはると)が中学受験という得体の知れない世界に足を踏み入れることを決めたのは、ある火曜日の放課後のことだった。
「じゃあな、遥人! 明日な!」
地元の公立小学校の校門前。サッカー仲間だったはずの親友・健太が、慣れ親しんだエナメルバッグではなく、少し大人びた紺色のリュックを背負って走り去っていく。
「……あ、おい! 遊ばないのかよ」
呼びかけは、冷たい北風にかき消された。健太だけではない。クラスの男子の三分の一、女子に至っては半分近くが、放課後のチャイムとともに「塾」という未知の場所へ吸い込まれていく。
残された放課後は、急に色褪せて見えた。誰もいない公園で一人、サッカーボールを蹴る虚しさ。
「俺も、あいつらが行く場所を見てみたい」
夕飯時、遥人が意を決してそう切り出すと、父は新聞から目を上げ、母は菜箸を止めた。
「遊び半分じゃ続かないわよ?」
「わかってる。……本気だよ」
そう答えた遥人の胸のうちは、学歴への野心などではなく、ただ「仲間外れになりたくない」という、10歳なりの切実な生存本能だった。
同じ頃、数キロ離れた別の小学校に通う仲田朱里(なかだあかり)もまた、自分の部屋で鏡を見つめていた。
リビングからは、高校生の姉と母の楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「お姉ちゃん、その制服、やっぱり可愛いね」
「でしょ? 頑張って中学受験して良かったって、今でも思うもん」
姉の通う私立女子校の制服は、深い紺色のブレザーにチェックスカート。地元の公立中学の制服も悪くないが、まるで別世界のドレスのように見えた。
(私も、あんな風になりたい)
朱里は、机の上に置かれた「冬期講習のご案内」というチラシを握りしめた。
「お母さん、私、塾に行きたい。お姉ちゃんみたいになりたいの」
その瞳には、幼いながらも「自分の手で未来を選びたい」という強い意志が宿っていた。
2. 運命の掲示板
入塾テストの日。
駅前の雑居ビル、四階にある「進学塾・栄光ゼミ」の廊下は、独特の緊張感に包まれていた。
真新しい教材の匂い、ホワイトボードマーカーのツンとした香り、そして、子供たちの放つ緊張の汗。
テストを終えた遥人は、手応えのなさに肩を落としていた。
「算数……最後の方、一問も解けなかったな」
数日後、結果を見に塾へ足を運ぶと、そこには既に人だかりができていた。
「野上……、野上……」
掲示板に貼り出されたクラス分けのリスト。自分の名前を探して、遥人は背伸びをした。
その時、背後からふわりと甘いシャンプーのような香りがした。
「ごめん、ちょっと見えない……」
鈴を転がしたような声。
振り向くと、そこにはポニーテールを揺らした女の子が立っていた。
白いダッフルコートを着て、寒さのせいか鼻先を少し赤くしている。
「あ、ごめん。どうぞ」
遥人は慌てて横に退いた。
「ありがとう」
彼女――朱里は、掲示板の一番上の段をじっと見つめた。
「あ、あった! Sクラス……良かったぁ」
安堵のため息をつく彼女の横で、遥人もようやく自分の名前を見つけた。
「野上遥人……Sクラス」
あの一番後ろの段にいた自分と、この隣の女の子が同じクラス?
遥人は不思議な縁を感じずにはいられなかった。
「あ……君もSクラス?」
朱里が、合格証の封筒を握りしめた遥人に気づいて、小首をかしげた。
「うん。野上遥人。よろしく」
「私は仲田朱里。よろしくね、野上くん」
それが、二人にとっての「はじまり」だった。
3. 初めての授業と、交わされる言葉
最初の授業は、一月の凍えるような夜だった。
Sクラスの教室は、たった十二人の精鋭で構成されていた。
学校では「勉強ができる方」と言われてきた遥人だったが、塾のスピードは異次元だった。
講師の言葉が弾丸のように飛び交い、ノートを取る手が追いつかない。
「はい、ここ重要。四角で囲んで!」
講師の威勢のいい声に、教室中がカリカリと鉛筆を走らせる。
遥人がふと隣の席を見ると、朱里が真剣な表情でテキストに向き合っていた。
その横顔は、学校にいるどの女子よりも大人びて見えた。
授業の合間の十分休憩。
張り詰めた空気が一瞬だけ緩む。
「……死ぬかと思った」
遥人が思わず独り言を漏らすと、隣で朱里がクスクスと笑った。
「本当に。学校の算数とは全然違うよね」
「仲田さんは、ついていけてるの?」
「まさか。旅人算なんて、誰と誰がどこで出会うかなんて、どうでもいいって思っちゃうもん」
「だよな。わざわざ歩く速度を変えて近づいてくるなんて、不審者だよな」
二人の小さな冗談に、周囲の緊張も少しだけ溶けた。
「ねえ、野上くん。帰りの方向、どっち?」
「俺は、各駅停車の東口の方」
「あ、私と逆だ。私は西口」
「そっか……。じゃあ、また明後日」
「うん、またね」
塾の入口で別れる時、朱里が小さく手を振った。
冬の冷たい夜空に、二人の白い吐息が混ざり合って消えていく。
遥人は、重たいカバンが少しだけ軽くなったような気がした。
あいつらが行く場所は、ただの勉強場所じゃない。
ここには、自分と同じように戦い、同じように不安を抱え、そして、同じように笑う「特別な誰か」がいる場所だった。
二人の小学校生活は、ここから大きく変わり始める。
放課後のサッカーよりも、公園での遊びよりも、週三回のこの場所が、二人にとっての「世界の中心」になっていく。
2024年、冬。
10歳の冬は、それまでの人生で一番、空気が冷たく感じられた。
野上遥人(のがみはると)が中学受験という得体の知れない世界に足を踏み入れることを決めたのは、ある火曜日の放課後のことだった。
「じゃあな、遥人! 明日な!」
地元の公立小学校の校門前。サッカー仲間だったはずの親友・健太が、慣れ親しんだエナメルバッグではなく、少し大人びた紺色のリュックを背負って走り去っていく。
「……あ、おい! 遊ばないのかよ」
呼びかけは、冷たい北風にかき消された。健太だけではない。クラスの男子の三分の一、女子に至っては半分近くが、放課後のチャイムとともに「塾」という未知の場所へ吸い込まれていく。
残された放課後は、急に色褪せて見えた。誰もいない公園で一人、サッカーボールを蹴る虚しさ。
「俺も、あいつらが行く場所を見てみたい」
夕飯時、遥人が意を決してそう切り出すと、父は新聞から目を上げ、母は菜箸を止めた。
「遊び半分じゃ続かないわよ?」
「わかってる。……本気だよ」
そう答えた遥人の胸のうちは、学歴への野心などではなく、ただ「仲間外れになりたくない」という、10歳なりの切実な生存本能だった。
同じ頃、数キロ離れた別の小学校に通う仲田朱里(なかだあかり)もまた、自分の部屋で鏡を見つめていた。
リビングからは、高校生の姉と母の楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「お姉ちゃん、その制服、やっぱり可愛いね」
「でしょ? 頑張って中学受験して良かったって、今でも思うもん」
姉の通う私立女子校の制服は、深い紺色のブレザーにチェックスカート。地元の公立中学の制服も悪くないが、まるで別世界のドレスのように見えた。
(私も、あんな風になりたい)
朱里は、机の上に置かれた「冬期講習のご案内」というチラシを握りしめた。
「お母さん、私、塾に行きたい。お姉ちゃんみたいになりたいの」
その瞳には、幼いながらも「自分の手で未来を選びたい」という強い意志が宿っていた。
2. 運命の掲示板
入塾テストの日。
駅前の雑居ビル、四階にある「進学塾・栄光ゼミ」の廊下は、独特の緊張感に包まれていた。
真新しい教材の匂い、ホワイトボードマーカーのツンとした香り、そして、子供たちの放つ緊張の汗。
テストを終えた遥人は、手応えのなさに肩を落としていた。
「算数……最後の方、一問も解けなかったな」
数日後、結果を見に塾へ足を運ぶと、そこには既に人だかりができていた。
「野上……、野上……」
掲示板に貼り出されたクラス分けのリスト。自分の名前を探して、遥人は背伸びをした。
その時、背後からふわりと甘いシャンプーのような香りがした。
「ごめん、ちょっと見えない……」
鈴を転がしたような声。
振り向くと、そこにはポニーテールを揺らした女の子が立っていた。
白いダッフルコートを着て、寒さのせいか鼻先を少し赤くしている。
「あ、ごめん。どうぞ」
遥人は慌てて横に退いた。
「ありがとう」
彼女――朱里は、掲示板の一番上の段をじっと見つめた。
「あ、あった! Sクラス……良かったぁ」
安堵のため息をつく彼女の横で、遥人もようやく自分の名前を見つけた。
「野上遥人……Sクラス」
あの一番後ろの段にいた自分と、この隣の女の子が同じクラス?
遥人は不思議な縁を感じずにはいられなかった。
「あ……君もSクラス?」
朱里が、合格証の封筒を握りしめた遥人に気づいて、小首をかしげた。
「うん。野上遥人。よろしく」
「私は仲田朱里。よろしくね、野上くん」
それが、二人にとっての「はじまり」だった。
3. 初めての授業と、交わされる言葉
最初の授業は、一月の凍えるような夜だった。
Sクラスの教室は、たった十二人の精鋭で構成されていた。
学校では「勉強ができる方」と言われてきた遥人だったが、塾のスピードは異次元だった。
講師の言葉が弾丸のように飛び交い、ノートを取る手が追いつかない。
「はい、ここ重要。四角で囲んで!」
講師の威勢のいい声に、教室中がカリカリと鉛筆を走らせる。
遥人がふと隣の席を見ると、朱里が真剣な表情でテキストに向き合っていた。
その横顔は、学校にいるどの女子よりも大人びて見えた。
授業の合間の十分休憩。
張り詰めた空気が一瞬だけ緩む。
「……死ぬかと思った」
遥人が思わず独り言を漏らすと、隣で朱里がクスクスと笑った。
「本当に。学校の算数とは全然違うよね」
「仲田さんは、ついていけてるの?」
「まさか。旅人算なんて、誰と誰がどこで出会うかなんて、どうでもいいって思っちゃうもん」
「だよな。わざわざ歩く速度を変えて近づいてくるなんて、不審者だよな」
二人の小さな冗談に、周囲の緊張も少しだけ溶けた。
「ねえ、野上くん。帰りの方向、どっち?」
「俺は、各駅停車の東口の方」
「あ、私と逆だ。私は西口」
「そっか……。じゃあ、また明後日」
「うん、またね」
塾の入口で別れる時、朱里が小さく手を振った。
冬の冷たい夜空に、二人の白い吐息が混ざり合って消えていく。
遥人は、重たいカバンが少しだけ軽くなったような気がした。
あいつらが行く場所は、ただの勉強場所じゃない。
ここには、自分と同じように戦い、同じように不安を抱え、そして、同じように笑う「特別な誰か」がいる場所だった。
二人の小学校生活は、ここから大きく変わり始める。
放課後のサッカーよりも、公園での遊びよりも、週三回のこの場所が、二人にとっての「世界の中心」になっていく。
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