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第13章:甘美な密室の終焉と、母の顔
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防音完備の密室。そこは静寂すらも和文の愛撫の一部となり、加代子の肌に深く刻まれていった。
29歳の和文は、55歳の加代子の内側に広がる深淵に触れ、エリートとしての知性を完全に放棄していた。彼は加代子の首筋に顔を埋め、まるで祈るように何度もその名を呼ぶ。
「加代子……もう、元の世界には戻れない。明日、婚約者に会わなきゃいけないのに、僕の頭の中はあなたで埋め尽くされている……」
加代子は、自分の胸の中で喘ぐ若い男の髪を、慈しむように、しかしどこか冷徹に撫でた。凛音を跪かせ、大輝を焦らせ、そしてこの和文を壊す。
55歳にして手に入れた絶対的な支配力。加代子は、密室の薄暗がりの中で、勝利を確信した笑みを浮かべていた。
だが、その悦びを切り裂いたのは、サイドテーブルの上で震えたスマートフォンの振動音だった。本来、この部屋に届くはずのない外の世界の気配。加代子はわずかに眉をひそめ、和文の腕をすり抜けてスマホを手に取った。
画面に表示されたのは、海外赴任中の息子・康助からのメッセージだった。
『母さん、プロジェクトに目処がついた。来週の月曜、一時帰国できることになった。父さんにはまだ内緒にしておいて。驚かせたいから。久しぶりに母さんの飯が食いたいよ』
その文字を目にした瞬間、加代子の心臓が温かい灯火を灯されたようにドクリと跳ねた。
(康助が、帰ってくる……!)
異国の地で、自分たちの助けも借りずに大きな仕事をやり遂げた28歳の息子。最後に顔を見てからもう随分経つ。あの子が好きな料理は何だったかしら、部屋の掃除もしておかなくては——。
「女」としての全能感に酔いしれていたはずの意識が、驚くほど自然に、そして強力に「母親」の領域へと引き戻されていく。それは、どんなに若い男を従えても得られない、根源的な誇らしさを伴う喜びだった。
「……加代子? どうしたんですか、そんなに嬉しそうな顔をして」
和文が不安げに、しかし不思議そうに覗き込んでくる。加代子はスマホを胸に抱き寄せ、これまでに彼に見せたことのない、柔らかく純粋な微笑みを向けた。
「和文さん、聞いて。息子が、来週帰ってくることになったの。大きなプロジェクトを終えて、やっと一息つけるみたい」
ごく自然に、溢れ出る喜びを隠すことなく彼女は言った。
和文は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。目の前で自分を骨抜きにし、破滅的な快楽を与えていた「魔性の女」が、今はただの「息子の帰りを喜ぶ母」としてそこに立っている。そのギャップに、和文は言いようのない戸惑いと、ほんの少しの嫉妬を覚えた。
「……そう、ですか。それは……良かったですね」
和文のぎこちない返事も、今の加代子の耳には届かない。彼女は手早く、しかし弾むような手つきで身支度を整え始めた。
康助が帰ってくる。それは彼女にとって、何物にも代えがたい「自分への報酬」のように感じられた。
一方、海を越えた地で荷造りをする康助の心には、メッセージには書かなかった冷徹な思いが沈んでいた。
(母さんに会って、確かめなきゃいけない。あの『変化』の正体を)
康助は、母には内緒で、実家を静かに観察するための「目」をすでに研ぎ澄ませていた。
密室を出て、琥珀色の光が満ちるバーを通り抜ける。
加代子の足取りは、先ほどまで和文に奉仕させていた時よりも、ずっと軽やかだった。
来週の月曜日。彼女の日常に、最も愛しく、そして最も恐ろしい観察者が帰還する。
29歳の和文は、55歳の加代子の内側に広がる深淵に触れ、エリートとしての知性を完全に放棄していた。彼は加代子の首筋に顔を埋め、まるで祈るように何度もその名を呼ぶ。
「加代子……もう、元の世界には戻れない。明日、婚約者に会わなきゃいけないのに、僕の頭の中はあなたで埋め尽くされている……」
加代子は、自分の胸の中で喘ぐ若い男の髪を、慈しむように、しかしどこか冷徹に撫でた。凛音を跪かせ、大輝を焦らせ、そしてこの和文を壊す。
55歳にして手に入れた絶対的な支配力。加代子は、密室の薄暗がりの中で、勝利を確信した笑みを浮かべていた。
だが、その悦びを切り裂いたのは、サイドテーブルの上で震えたスマートフォンの振動音だった。本来、この部屋に届くはずのない外の世界の気配。加代子はわずかに眉をひそめ、和文の腕をすり抜けてスマホを手に取った。
画面に表示されたのは、海外赴任中の息子・康助からのメッセージだった。
『母さん、プロジェクトに目処がついた。来週の月曜、一時帰国できることになった。父さんにはまだ内緒にしておいて。驚かせたいから。久しぶりに母さんの飯が食いたいよ』
その文字を目にした瞬間、加代子の心臓が温かい灯火を灯されたようにドクリと跳ねた。
(康助が、帰ってくる……!)
異国の地で、自分たちの助けも借りずに大きな仕事をやり遂げた28歳の息子。最後に顔を見てからもう随分経つ。あの子が好きな料理は何だったかしら、部屋の掃除もしておかなくては——。
「女」としての全能感に酔いしれていたはずの意識が、驚くほど自然に、そして強力に「母親」の領域へと引き戻されていく。それは、どんなに若い男を従えても得られない、根源的な誇らしさを伴う喜びだった。
「……加代子? どうしたんですか、そんなに嬉しそうな顔をして」
和文が不安げに、しかし不思議そうに覗き込んでくる。加代子はスマホを胸に抱き寄せ、これまでに彼に見せたことのない、柔らかく純粋な微笑みを向けた。
「和文さん、聞いて。息子が、来週帰ってくることになったの。大きなプロジェクトを終えて、やっと一息つけるみたい」
ごく自然に、溢れ出る喜びを隠すことなく彼女は言った。
和文は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。目の前で自分を骨抜きにし、破滅的な快楽を与えていた「魔性の女」が、今はただの「息子の帰りを喜ぶ母」としてそこに立っている。そのギャップに、和文は言いようのない戸惑いと、ほんの少しの嫉妬を覚えた。
「……そう、ですか。それは……良かったですね」
和文のぎこちない返事も、今の加代子の耳には届かない。彼女は手早く、しかし弾むような手つきで身支度を整え始めた。
康助が帰ってくる。それは彼女にとって、何物にも代えがたい「自分への報酬」のように感じられた。
一方、海を越えた地で荷造りをする康助の心には、メッセージには書かなかった冷徹な思いが沈んでいた。
(母さんに会って、確かめなきゃいけない。あの『変化』の正体を)
康助は、母には内緒で、実家を静かに観察するための「目」をすでに研ぎ澄ませていた。
密室を出て、琥珀色の光が満ちるバーを通り抜ける。
加代子の足取りは、先ほどまで和文に奉仕させていた時よりも、ずっと軽やかだった。
来週の月曜日。彼女の日常に、最も愛しく、そして最も恐ろしい観察者が帰還する。
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