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その愛の果て
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もうずいぶんと歩いた。
足は重く、肺が痛い。ひんやりとした森の中、つう、と頰を伝う汗を手の甲で拭う。
静まり返った森は海の底のようで、私は思わず鼻を摘んで耳抜きをした。クン、と鼓膜が震えた途端にざあぁっと森全体を吹き揺らしながら強風が抜けた。
目の前が紅紫色に染まる。
ソメイヨシノの淡い色よりも濃く、山桜よりも更に大きい花弁がほわりほわりと降り注ぐ。
「見つけた……」
高さ三十メートルをゆうに超える大木がそこにあった。
大きく伸びた枝を飾る満開の見事な花。辺りを包む柔らかな匂い。その姿を誰かに誇示するわけでもない凛とした静謐さを前に、私はひどく胸の奥がざわつき、幹に手を伸ばして膝をついた。
ざらついた幹は氷のように冷たく、思わず手を引いた私に語りかける者があった。
その人は大木の根元の盛り上がったコブに腰を下ろし、痩せた細い腕で膝を抱いていた。土に汚れたくすんだ着物を着た姿は大木の陰に大半が隠れていて、白髪が風にそよぎ、老女の掠れた声を更に聞き取りにくくした。
「……この桜は今年で終わるよ」
「終わる?」
「そう。死ぬんだよ。だからこんなに見事に花を咲かせているんだよ。ずぅっと花をつけなかったんだけどね、今年は咲いた。枯れる前だからだろうかねぇ」
ズズッと足を引きずって、よたりと老女が姿を現した。
筋張った手に走る血管や、今にも折れてしまいそうな細い手首、草履の赤い鼻緒が痛々しかった。
幹を頼りに歩み来る彼女を見上げて、私の目は彼女の小枝のような小指に巻かれた黒い糸に釘付けとなった。
刹那、激しい耳鳴りがし、頭の中の蝋燭の炎がひときわ大きく揺れ輝いた。
──なんで子供がいるんだい?──
──アンタ、アタシが怖くないのかい?──
──また来たのかい!? バカだねぇ、こんな寂しい森の奥に。おっ母に怒られるよ──
──やれやれ、頑固な子だねぇ……約束ってアンタ、こら! 勝手に何を──
「……綺麗なべべ着たお姉ちゃん……」
老婆を見上げる私の顔は、ひどく間の抜けたものだったのだろう。
「バカだねぇ、何を泣いているのさ」
嗄れた声が
「泣きたいのはアタシの方だよ。勝手に約束なんて押し付けて」
徐々に艶を取り戻してゆく。
あとは死を待つだけに見えた老婆の姿が、どんどん変わってゆく。白かった髪は緑の黒髪へ。枯れ木のようだった手足はスラリと健康的に伸び、それを覆う皮膚はきめ細かく張りのある美しく艶めかしい女の肌へ。
「人間なんて勝手なもんだ。勝手に約束して、アタシをここに縛り付けて、それで忘れて……」
違うんだ、と私はそれこそ子供のように泣きじゃくりながら、すっかり変貌を遂げた彼女を迷わず抱きしめた。
「忘れてない。あの時の俺は、次の年が来る前に流行病で死んだんだ!」
ぽかん、と口を開けた彼女を大山桜の花吹雪が彩る。
風がおさまると同時に彼女が笑い出し、森がその鈴のような音を吸い込んだ。
「本当に難儀なモンだよ、人間なんて。忘れてなくても、おっ死んじまったら意味ないだろう? 流行やまっ、流行病でポックリ逝って……アンタ、アタシがどれだけ待ったと思ってんのさ」
笑って泣いて悪態をつく彼女は、私の目の前にずいっと親指だけをたたんだ掌を差し出した。
「四百年。ざっと四百年は待ったよ……最初の百年でアンタは死んだって解ってた。それでもアタシは動けなかった。次の百年は、生まれ変わったアンタが来たらブン殴ってやろうと思って過ごした。次の百年は、アンタを恨んでやろうって思ったけど、アタシを見ても怖がらなかったアンタの笑った顔や楽しかった事ばかり思い出して……この百年は……この桜が死ぬ時にきっとアタシも消えるんだって……だからそれでもやっぱりアンタを待ってた」
「ごめん。遅くなってごめん。未練があるから魂がまっさらになるのを拒んだんだ。だから獣からやり直した」
「バカだねぇ……来てくれたからもう良いんだよ」
そう言って初めて会った時と同じように私の頭を撫でようとして手を伸ばした彼女は、大きくなったねぇ、と頭ではなく頬を撫でて溜息をついた。
「あの頃とは逆だね。俺の方が小さかった」
「子供だったもの」
「今は俺の方が背も高い」
「それだけじゃないか。アタシはこの四百年で変わっちまった」
寂し気に俯いた彼女の長い睫毛が涙を含んで重た気に震えた。
頰に添えられたままの彼女の手を取り、小指に巻かれた黒い糸──かつて幼かった私が勝手に彼女に押し付けた約束の証の、私の髪の毛──をそっと外した。
「俺もあの頃とは顔も声も変わったよ」
「魂は変わっちゃいないだろう?」
「それを言うなら、貴女もだ……約束を果たしに来たよ」
この桜の木の下で、幼い私は、綺麗な着物を着た美しく優しい妖に恋をしたのだ。
満開の大山桜が見守る中、私を待ち続けた挙句に妖から鬼へと変化した初恋の相手にそっと唇を重ねた。
──ずっと一緒にいるには、どうしたら良いの? お姉ちゃんと同じものになれば良いの?──
──待っててね。大きくなったらお嫁さんになってね。それまでは毎年会いに来るからね──
髪を数本抜き取り彼女の小指に外れぬように絡め詰めると、彼女もまた同じように美しい髪を惜しげもなく抜き去り私の指へと巻いて花のような笑顔を見せて、最期の桜を見上げた。
桜は最後の一輪まで注ぐつもりなのか、雪のように紅が舞う。
「立派な祝言になったねぇ」
「新婚旅行はどこが良いい?」
「さぁね。この木が枯れたそのあとは風任せさ」
ああ、そうだ。風に任せれば良いだろう。花粉がその身を委ねるように、私も彼女も、次の行先は風に問えば良いのだ。
今や私は異端ではない。
彼女と同じく森と同化し自然に溶け込んだ、人間の目には映らぬモノとなったのだ。
足は重く、肺が痛い。ひんやりとした森の中、つう、と頰を伝う汗を手の甲で拭う。
静まり返った森は海の底のようで、私は思わず鼻を摘んで耳抜きをした。クン、と鼓膜が震えた途端にざあぁっと森全体を吹き揺らしながら強風が抜けた。
目の前が紅紫色に染まる。
ソメイヨシノの淡い色よりも濃く、山桜よりも更に大きい花弁がほわりほわりと降り注ぐ。
「見つけた……」
高さ三十メートルをゆうに超える大木がそこにあった。
大きく伸びた枝を飾る満開の見事な花。辺りを包む柔らかな匂い。その姿を誰かに誇示するわけでもない凛とした静謐さを前に、私はひどく胸の奥がざわつき、幹に手を伸ばして膝をついた。
ざらついた幹は氷のように冷たく、思わず手を引いた私に語りかける者があった。
その人は大木の根元の盛り上がったコブに腰を下ろし、痩せた細い腕で膝を抱いていた。土に汚れたくすんだ着物を着た姿は大木の陰に大半が隠れていて、白髪が風にそよぎ、老女の掠れた声を更に聞き取りにくくした。
「……この桜は今年で終わるよ」
「終わる?」
「そう。死ぬんだよ。だからこんなに見事に花を咲かせているんだよ。ずぅっと花をつけなかったんだけどね、今年は咲いた。枯れる前だからだろうかねぇ」
ズズッと足を引きずって、よたりと老女が姿を現した。
筋張った手に走る血管や、今にも折れてしまいそうな細い手首、草履の赤い鼻緒が痛々しかった。
幹を頼りに歩み来る彼女を見上げて、私の目は彼女の小枝のような小指に巻かれた黒い糸に釘付けとなった。
刹那、激しい耳鳴りがし、頭の中の蝋燭の炎がひときわ大きく揺れ輝いた。
──なんで子供がいるんだい?──
──アンタ、アタシが怖くないのかい?──
──また来たのかい!? バカだねぇ、こんな寂しい森の奥に。おっ母に怒られるよ──
──やれやれ、頑固な子だねぇ……約束ってアンタ、こら! 勝手に何を──
「……綺麗なべべ着たお姉ちゃん……」
老婆を見上げる私の顔は、ひどく間の抜けたものだったのだろう。
「バカだねぇ、何を泣いているのさ」
嗄れた声が
「泣きたいのはアタシの方だよ。勝手に約束なんて押し付けて」
徐々に艶を取り戻してゆく。
あとは死を待つだけに見えた老婆の姿が、どんどん変わってゆく。白かった髪は緑の黒髪へ。枯れ木のようだった手足はスラリと健康的に伸び、それを覆う皮膚はきめ細かく張りのある美しく艶めかしい女の肌へ。
「人間なんて勝手なもんだ。勝手に約束して、アタシをここに縛り付けて、それで忘れて……」
違うんだ、と私はそれこそ子供のように泣きじゃくりながら、すっかり変貌を遂げた彼女を迷わず抱きしめた。
「忘れてない。あの時の俺は、次の年が来る前に流行病で死んだんだ!」
ぽかん、と口を開けた彼女を大山桜の花吹雪が彩る。
風がおさまると同時に彼女が笑い出し、森がその鈴のような音を吸い込んだ。
「本当に難儀なモンだよ、人間なんて。忘れてなくても、おっ死んじまったら意味ないだろう? 流行やまっ、流行病でポックリ逝って……アンタ、アタシがどれだけ待ったと思ってんのさ」
笑って泣いて悪態をつく彼女は、私の目の前にずいっと親指だけをたたんだ掌を差し出した。
「四百年。ざっと四百年は待ったよ……最初の百年でアンタは死んだって解ってた。それでもアタシは動けなかった。次の百年は、生まれ変わったアンタが来たらブン殴ってやろうと思って過ごした。次の百年は、アンタを恨んでやろうって思ったけど、アタシを見ても怖がらなかったアンタの笑った顔や楽しかった事ばかり思い出して……この百年は……この桜が死ぬ時にきっとアタシも消えるんだって……だからそれでもやっぱりアンタを待ってた」
「ごめん。遅くなってごめん。未練があるから魂がまっさらになるのを拒んだんだ。だから獣からやり直した」
「バカだねぇ……来てくれたからもう良いんだよ」
そう言って初めて会った時と同じように私の頭を撫でようとして手を伸ばした彼女は、大きくなったねぇ、と頭ではなく頬を撫でて溜息をついた。
「あの頃とは逆だね。俺の方が小さかった」
「子供だったもの」
「今は俺の方が背も高い」
「それだけじゃないか。アタシはこの四百年で変わっちまった」
寂し気に俯いた彼女の長い睫毛が涙を含んで重た気に震えた。
頰に添えられたままの彼女の手を取り、小指に巻かれた黒い糸──かつて幼かった私が勝手に彼女に押し付けた約束の証の、私の髪の毛──をそっと外した。
「俺もあの頃とは顔も声も変わったよ」
「魂は変わっちゃいないだろう?」
「それを言うなら、貴女もだ……約束を果たしに来たよ」
この桜の木の下で、幼い私は、綺麗な着物を着た美しく優しい妖に恋をしたのだ。
満開の大山桜が見守る中、私を待ち続けた挙句に妖から鬼へと変化した初恋の相手にそっと唇を重ねた。
──ずっと一緒にいるには、どうしたら良いの? お姉ちゃんと同じものになれば良いの?──
──待っててね。大きくなったらお嫁さんになってね。それまでは毎年会いに来るからね──
髪を数本抜き取り彼女の小指に外れぬように絡め詰めると、彼女もまた同じように美しい髪を惜しげもなく抜き去り私の指へと巻いて花のような笑顔を見せて、最期の桜を見上げた。
桜は最後の一輪まで注ぐつもりなのか、雪のように紅が舞う。
「立派な祝言になったねぇ」
「新婚旅行はどこが良いい?」
「さぁね。この木が枯れたそのあとは風任せさ」
ああ、そうだ。風に任せれば良いだろう。花粉がその身を委ねるように、私も彼女も、次の行先は風に問えば良いのだ。
今や私は異端ではない。
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