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第21話 ひとつ目の嘘
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正樹くんへ渡したい参考書の類をまとめつつ、ひどく落ち着いている自分に少し驚く。
俺は今、この世から消える準備をしているのに、俺と関わりのあった全ての人の中から消えるのに、俺がこの世に残したかもしれない何かが帳消しなるのに、怖いどころかワクワクしている。
前向きな自殺……とは言わないか。
死ぬワケじゃない。ルナと生きる為に俺はこの世界を捨てるんだ。
「ルナ!」
呼んでも胸はぽわんとはしない。
それでも届いているって解っているから、ルナからの返事が届かなくてもかまわない。呼び続ける。
正樹くんへの荷造りを終えて、次は亮平や和彦、真吾や沢井達に。
正樹くんのは大きめの紙袋に収まったけど、亮平達へのは段ボール箱でないと収まりそうにない。
明日近所のスーパーで段ボールをもらって、夕方には亮平に渡せるようにしたいと思う。
テキストや資料は欲しいヤツが取るだろうから、床に積み重ねるだけ。
服や家電は売ってしまおう。
その金で買えるだけコーヒーを買って持って行きたいって言ったら朱雀は怒るだろうか? 帰って来たら聞いてみようか。
そんな風に考えられる程に浮かれていた。
夜中三時を過ぎても二人は帰らない。
たった数時間で今後の身の振り方を決めた俺は浮かれてもいたけれど、同じくらい疲れてもいた。
先に寝てて良いとは言われたけれど、本当に良いのだろうか? あの二人はこんな時間まで俺の為に動いてくれているのに……。
でも、ちょっとだけ。ちょっとだけベッドに横になりたい。
片付けに夢中になり過ぎて背中は痛いし。
「疲れたぁ……」
そして、ちょっとだけ、目を閉じたい…。
明日……いや今日の昼に正樹くんのお宅にお邪魔して参考書を渡して来よう。正樹くんはいなくてもお母さんがいるはずだから、今までの夕食のお礼も言いたい。
亮平にもお礼と、茉奈ちゃんと仲良くなって言いたいな。他の連中には、合コンして酒ばっか飲んでないで、元気でって言いたい。
俺が何を言ってもなかったことになるんだろうけど、消える俺の都合っていうか、我儘っていうか……。
朱雀と白虎をあまりこの世界に引き留めるワケにはいかないから、できれば明日一日で終わらせられたら良いんだけどな……いくら郷の桃があるからって……あれ? 桃って冷蔵庫に入れておかなくて大丈夫だっけ? でも冷蔵庫に入れておいたら必要な時に食べられないから、それはダメか……? あれ? どうだっけ……ヤバ、目が開かな……い……。
胸が押し潰されるように重いのは何故だろう。
ルナに会えるってだけで、この世の全てをあっさり捨て去ろうとしている俺のわずかばかりの罪悪感だろうか。
更に身体が重くなって、呼吸も苦しくなってきた……え? でも、あれ? 身体が動かない。
唸ってる自分の声は聞こえるのに、身体が動かない。
これはもしや。
金縛りってヤツか? どうして? 今まで生きてきて金縛りなんてかかったことないのに!
金縛り、金縛りは確かアレだ。身体は寝てて脳が起きてるから起きる現象で、だから……どうやって解くんだっけ?
「うぅっ!」
ズンと重くなった胸に呼吸が邪魔される。
死にたくない。今死んだらルナに会えないじゃないか! そんなのは絶対に嫌だ! 動く所は? 身体は重くてダメだ。指先、ちょっとだけ。
「不思議と目だけは開いたんです。でも絶対に開けちゃいけないって思ったのに、勝手に目が開いて……覗き込むように黒い影が……」
暇潰しに見た夏のお約束の心霊番組で、そんなセリフがあったと思う。
目か! 目なら開くかも!
目を無理矢理開けて、胸の上で蠢く黒い物体……それを寝惚けた頭が認識した瞬間に身体が動いた。
「苦しい!」
「ぅぅ……動くな、深海……」
「……燐のせいですぅ……すぅー」
部屋の灯りを点けたまま寝てしまって、時間の感覚が掴めない。
とりあえず解るのは朱雀と白虎が帰って来ていて、俺の胸と腹の上で、べちょーっと行き倒れ状態で寝てるっていうことだ。
豆柴と黒ウサギを一旦身体から下ろして、両脇に抱え込んでやる。これなら文句はないだろ?
……良かった、無事に帰って来てくれて。俺の腹の上で行き倒れてくれて良かった。両脇に抱えた二つの体温を感じながら、もう一度目を閉じた。
「おかえり。おやすみ」
返事なんか期待していなかったのに
「はぃ……深海しゃん……」
ちっちゃい黒ウサギが可愛い寝惚け声でむごむごマジメに返事。
「深海、うっしゃい……ぐぅ……すぅー」
豆柴は文句。可愛いから許すけどさ。あったかいし、柔らかいし、寂しくないから許す。
起きたら……こぉひぃ、なんだろ……?
「……うみ、みうみ……深海!」
「ん? ルナ?」
ゆっさゆっさ、ずいぶん乱暴だな。お腹減ったのかな……?
揺さぶる手の方へ寝返りを打って眠い目を擦る。
「どした? ルナ……お腹減ったか?」
「腹も減った。すまんが起きてくれ」
……ルナ、声低くなったなぁ……って思いながら、無意識で手を伸ばして髪を撫でる。俺の大好きな柔らかい絹糸のような……絹糸のような……絹糸……あれ?
「ぅわぁ! あ! 朱雀!」
寝起きに飛び込んできた赤毛と切れ長の黒い目に心臓が止まるかと思った。慌てて髪から手を離して飛び起きた。
「うむ……和子を片時とも忘れんとはな。さすがだ、深海」
「ごめん! ホントごめん! 寝惚けてて、だから白虎! ごめん!」
「俺にも謝れや!」
もちろん朱雀にも悪いとは思うけど、もし俺なら、ルナが寝惚けた男に頭なんて撫でられているのを見たら良い気はしない。
だからとっさに白虎に謝った。
白虎は首を傾げて、すぐに合点がいったようで笑って許してくれた。
「深海さん、気にしなくて良いですよ? おはようございます」
早くに起こしてごめんなさい、と言う白虎の言葉に時計を確認すると朝の九時だった。
寝たのが確か、もう三時過ぎてんのにって思った直後だと思うから、六時間は寝た計算になる。
「大丈夫、けっこう寝てる……あ、腹減ってんだっけ? 白虎も? ちょっと待ってて……」
ルナの朝食は着色料や保存料、香料などを一切使っていないのがウリのパン屋の食パンと目玉焼きと、果物だった。
俺は朝飯は食べないからコーヒーだけ。そんな俺を心配してか遠慮してか、たまにルナがパンを千切って口元まで運んでくれたりして。あの大きな目でじぃっと俺を見つめて、食べて? ってお願いを発動するルナがとても可愛らしくて……。
でもそのパンは今はない。
ボサボサの髪や寝起きの顔を洗って身支度を整えて、パンを買いに行くことにする。
二人にはしっかり食べてもらわないと。ただでさえ苦しい世界にいて、俺の為に動いてくれているんだから少しでも何か役に立ちたい。
「すぐ戻る! 近所だから、えーっと十分で戻るから待ってて」
急げよーっと楽し気な朱雀の声に送られて、全力疾走でパン屋へ向かった。
「すごいです!」
焼いた食パンと目玉焼きとリンゴ三切れをワンプレートで出してやると、白虎は目を輝かせて、朱雀は手を叩いて喜んでくれた。
ワンプレートで出したのは皿がないからであって、決してオシャレさを求めたワケではないのだが、それでも彩りが良いと褒めてくれる。
パンも目玉焼きも焼いただけ、リンゴは切っただけ。それなのにこんなに嬉しそうな顔をされると、朝から照れ臭くてかなわない。
「お代わり、あるから。食べて」
「深海は? 食べないのか?」
「うん。朝はコーヒー。ほら、冷めるから食べて食べて!」
少し強めに促して、やっと二人は合掌して目玉焼きに手をつけてくれた。
「深海、今日の予定は?」
「昼過ぎには正樹くん……俺が勉強教えている子の家に行って、お母さんに参考書渡して来ようと思ってる」
「お友達は?」
「それは帰りに段ボー……でっかい箱もらって、そこの床に積んである資料とか詰めて。あ、そうそう、あのさ」
二人に昨夜の思い付きを話してみた。
売れる物は全部売って、それで買えるだけのコーヒー買って郷に持って行っちゃダメかな? って。
「郷にはあのこぉひぃを淹れる機械はないぞ?」
もっともなことを言う朱雀に機械がなくても淹れられることを伝えると、白虎と一瞬見つめ合って
「俺達にも振る舞ってくれるのなら文句はない!」
と笑って賛成してくれた。白虎は白虎で目を細めて
「和子と深海さんと四人でお茶会、楽しみですねぇ!」
と既に頭の中で楽しいお茶会が開かれているようだ。
「貯金も下ろしてコーヒーに変えたら、すっごい量になるけど、良いの?」
「……ちょきんってなんですか?」
白虎の言葉に瞬きを数回。変なことは言っていないはずだが……?
聞けば郷には銀行はないと言う。そもそも貨幣がない。食料その他は自給自足で間に合っているし、必要な物があれば物々交換でお互いが納得する形で手に入れている。
帝、ルナ、朱雀と白虎、玄武、青龍は郷の管理者としての仕事をしていて、その対価に食べ物や着物が献上されているので、何の問題もないらしい。
「平和な世界だな……」
「そうなるように和子や俺達がいるんだよ」
ぼそりと零した朱雀の口調に隠しきれない誇りを感じた。
「苦情処理係ですよ」
と言ったのは白虎。穏やかな顔でリンゴを齧っている。
「例えば……今年は収穫量が少ないのに朱雀の管理地の人達が去年と同じ交換率でないとダメって言うからなんとかしてくださいって言われたら、私が朱雀の所へ行ってお願いします。朱雀はそれを聞いて領地の人達と話し合いをして、お互い譲れるところで手を打ちます。そんな感じですよ」
なんて簡単に言うけど、絶対に簡単なことじゃないと思う。
少しの量で多くを得たいと思うのは当然のことだと思う。誰しも自分だけ損はしたくないだろう? それも一人二人じゃない、郷の全ての人を納得させるなんて至難の技だろう。
「しかし貯金か。深海がこの世から消えるなら深海の金も消えるだろうし……金って郷に持って行けるか? 持って行っても使い所があるか?」
「深海さん、お金を見せてくれませんか?」
財布から札を出して二人の掌に乗せると
「ダメだ」
と朱雀が瞬時に答え、俺の手に札が返ってきた。
「そうですね、コレはちょっと……」
と白虎もすぐに俺に渡したばかりの札を返して来た。
「コレは紙だろ? なんでこんなに情念がこもってるんだ? コレが世の中を回っているからか?」
「おそらく。深海さん、コレは郷には合いません……郷の住人になった深海さんがコレを持っていて平気だとも思えません……だから……ぜーんぶ! 全部こぉひぃに変えちゃいましょう。ね! お茶会です!」
くすっと笑っておどけてくれた白虎の気遣いに感謝した。
金を汚いとは思わない。生きていくのに必要だから、どんな金も汚いとは思えない。
俺も金が必要だからバイトして生きている。
ただ、たまに……金に支配されるのは嫌だと思ってしまう。
もちろん綺麗事だと解ってはいるけれど。
「おーい、深海!」
「あ、ごめん。ぼうっとしてた……あのさ! この世界の人達のこと、軽蔑とかしないで欲しい! もう物々交換なんて間に合わなくて、異国とも貿易とかしてて、それで生きてる人もいて、二人からしたらこんな紙に振り回されてる俺達なんて滑稽かも知れないけど、でも!」
がすっと頭が掴まれる。朱雀さん、ちょっとだけ痛いです。
「するワケねぇだろ? 仕組みが違う。それだけだ」
「そうですよ。皆さん必死に生きている……悪いことをする人もいるんでしょうけど、悪い人ばかりじゃないでしょう? 深海さんのお友達、悪い人ですか? 違うでしょう?」
安心なさい、と白虎は俺の頬を撫でてくれる。二人の手はやはり温かくて、ありがとうと呟くのが精一杯だった。
「先生、お昼食べて行きませんか?」
一方的なアポを押し付けたのに、正樹くんのお母さんは笑顔で迎えてくれて、昼食まで誘ってくれた。
「いえ、そんないきなり押しかけたのにその上そんな……」
「だって、こんなにたくさんの参考書いただいて! 何もおもてなしせずにお返ししたら主人と正樹に怒られます」
そうは言われても、だ。
昼下がり、ご主人もお子さんも不在の家に上がり込むようなマネができるはずもなく、人の良いお母さんのお誘いを丁重にお断りして、スーパーに段ボールをもらいに行くことにした。
「今日は用事がありまして、本当にいきなり押しかけてすみませんでした。あの、いつも美味しい晩御飯をありがとうございました。俺……僕は一人暮らしで、お母さんやお父さんや正樹くんと食べる夕食は本当に嬉しかったです。風邪をひいた時も、お粥、ありがとうございました。正樹くんは意志は強いし、すごくがんばっているから、きっと志望校に受かりますよ。それにお父さんのこともお母さんのことも大好きで、たまにそういう話をしてくれます」
「先生? どうしたんですか? なんだか嫌だわ…」
「本当にありがとうございました」
「お別れするみたいじゃないですか? 先生?」
そうです。お別れするんです。
貴女は忘れてしまうけど、俺は覚えておきますね、と心の中で呟いて不安そうなお母さんに笑顔を向けた。
「なかなか照れ臭くって言えないじゃないですか。正樹くんもいないし、言える時に言っておこうと思っただけです」
「本当? 困ったことがあるなら……」
「大丈夫です、お母さん。また今度!」
バレない嘘なら良いんだっけ?
ルナ、俺は今嘘をついたよ。
そして亮平にもきっと嘘をつくよ。
俺は今、この世から消える準備をしているのに、俺と関わりのあった全ての人の中から消えるのに、俺がこの世に残したかもしれない何かが帳消しなるのに、怖いどころかワクワクしている。
前向きな自殺……とは言わないか。
死ぬワケじゃない。ルナと生きる為に俺はこの世界を捨てるんだ。
「ルナ!」
呼んでも胸はぽわんとはしない。
それでも届いているって解っているから、ルナからの返事が届かなくてもかまわない。呼び続ける。
正樹くんへの荷造りを終えて、次は亮平や和彦、真吾や沢井達に。
正樹くんのは大きめの紙袋に収まったけど、亮平達へのは段ボール箱でないと収まりそうにない。
明日近所のスーパーで段ボールをもらって、夕方には亮平に渡せるようにしたいと思う。
テキストや資料は欲しいヤツが取るだろうから、床に積み重ねるだけ。
服や家電は売ってしまおう。
その金で買えるだけコーヒーを買って持って行きたいって言ったら朱雀は怒るだろうか? 帰って来たら聞いてみようか。
そんな風に考えられる程に浮かれていた。
夜中三時を過ぎても二人は帰らない。
たった数時間で今後の身の振り方を決めた俺は浮かれてもいたけれど、同じくらい疲れてもいた。
先に寝てて良いとは言われたけれど、本当に良いのだろうか? あの二人はこんな時間まで俺の為に動いてくれているのに……。
でも、ちょっとだけ。ちょっとだけベッドに横になりたい。
片付けに夢中になり過ぎて背中は痛いし。
「疲れたぁ……」
そして、ちょっとだけ、目を閉じたい…。
明日……いや今日の昼に正樹くんのお宅にお邪魔して参考書を渡して来よう。正樹くんはいなくてもお母さんがいるはずだから、今までの夕食のお礼も言いたい。
亮平にもお礼と、茉奈ちゃんと仲良くなって言いたいな。他の連中には、合コンして酒ばっか飲んでないで、元気でって言いたい。
俺が何を言ってもなかったことになるんだろうけど、消える俺の都合っていうか、我儘っていうか……。
朱雀と白虎をあまりこの世界に引き留めるワケにはいかないから、できれば明日一日で終わらせられたら良いんだけどな……いくら郷の桃があるからって……あれ? 桃って冷蔵庫に入れておかなくて大丈夫だっけ? でも冷蔵庫に入れておいたら必要な時に食べられないから、それはダメか……? あれ? どうだっけ……ヤバ、目が開かな……い……。
胸が押し潰されるように重いのは何故だろう。
ルナに会えるってだけで、この世の全てをあっさり捨て去ろうとしている俺のわずかばかりの罪悪感だろうか。
更に身体が重くなって、呼吸も苦しくなってきた……え? でも、あれ? 身体が動かない。
唸ってる自分の声は聞こえるのに、身体が動かない。
これはもしや。
金縛りってヤツか? どうして? 今まで生きてきて金縛りなんてかかったことないのに!
金縛り、金縛りは確かアレだ。身体は寝てて脳が起きてるから起きる現象で、だから……どうやって解くんだっけ?
「うぅっ!」
ズンと重くなった胸に呼吸が邪魔される。
死にたくない。今死んだらルナに会えないじゃないか! そんなのは絶対に嫌だ! 動く所は? 身体は重くてダメだ。指先、ちょっとだけ。
「不思議と目だけは開いたんです。でも絶対に開けちゃいけないって思ったのに、勝手に目が開いて……覗き込むように黒い影が……」
暇潰しに見た夏のお約束の心霊番組で、そんなセリフがあったと思う。
目か! 目なら開くかも!
目を無理矢理開けて、胸の上で蠢く黒い物体……それを寝惚けた頭が認識した瞬間に身体が動いた。
「苦しい!」
「ぅぅ……動くな、深海……」
「……燐のせいですぅ……すぅー」
部屋の灯りを点けたまま寝てしまって、時間の感覚が掴めない。
とりあえず解るのは朱雀と白虎が帰って来ていて、俺の胸と腹の上で、べちょーっと行き倒れ状態で寝てるっていうことだ。
豆柴と黒ウサギを一旦身体から下ろして、両脇に抱え込んでやる。これなら文句はないだろ?
……良かった、無事に帰って来てくれて。俺の腹の上で行き倒れてくれて良かった。両脇に抱えた二つの体温を感じながら、もう一度目を閉じた。
「おかえり。おやすみ」
返事なんか期待していなかったのに
「はぃ……深海しゃん……」
ちっちゃい黒ウサギが可愛い寝惚け声でむごむごマジメに返事。
「深海、うっしゃい……ぐぅ……すぅー」
豆柴は文句。可愛いから許すけどさ。あったかいし、柔らかいし、寂しくないから許す。
起きたら……こぉひぃ、なんだろ……?
「……うみ、みうみ……深海!」
「ん? ルナ?」
ゆっさゆっさ、ずいぶん乱暴だな。お腹減ったのかな……?
揺さぶる手の方へ寝返りを打って眠い目を擦る。
「どした? ルナ……お腹減ったか?」
「腹も減った。すまんが起きてくれ」
……ルナ、声低くなったなぁ……って思いながら、無意識で手を伸ばして髪を撫でる。俺の大好きな柔らかい絹糸のような……絹糸のような……絹糸……あれ?
「ぅわぁ! あ! 朱雀!」
寝起きに飛び込んできた赤毛と切れ長の黒い目に心臓が止まるかと思った。慌てて髪から手を離して飛び起きた。
「うむ……和子を片時とも忘れんとはな。さすがだ、深海」
「ごめん! ホントごめん! 寝惚けてて、だから白虎! ごめん!」
「俺にも謝れや!」
もちろん朱雀にも悪いとは思うけど、もし俺なら、ルナが寝惚けた男に頭なんて撫でられているのを見たら良い気はしない。
だからとっさに白虎に謝った。
白虎は首を傾げて、すぐに合点がいったようで笑って許してくれた。
「深海さん、気にしなくて良いですよ? おはようございます」
早くに起こしてごめんなさい、と言う白虎の言葉に時計を確認すると朝の九時だった。
寝たのが確か、もう三時過ぎてんのにって思った直後だと思うから、六時間は寝た計算になる。
「大丈夫、けっこう寝てる……あ、腹減ってんだっけ? 白虎も? ちょっと待ってて……」
ルナの朝食は着色料や保存料、香料などを一切使っていないのがウリのパン屋の食パンと目玉焼きと、果物だった。
俺は朝飯は食べないからコーヒーだけ。そんな俺を心配してか遠慮してか、たまにルナがパンを千切って口元まで運んでくれたりして。あの大きな目でじぃっと俺を見つめて、食べて? ってお願いを発動するルナがとても可愛らしくて……。
でもそのパンは今はない。
ボサボサの髪や寝起きの顔を洗って身支度を整えて、パンを買いに行くことにする。
二人にはしっかり食べてもらわないと。ただでさえ苦しい世界にいて、俺の為に動いてくれているんだから少しでも何か役に立ちたい。
「すぐ戻る! 近所だから、えーっと十分で戻るから待ってて」
急げよーっと楽し気な朱雀の声に送られて、全力疾走でパン屋へ向かった。
「すごいです!」
焼いた食パンと目玉焼きとリンゴ三切れをワンプレートで出してやると、白虎は目を輝かせて、朱雀は手を叩いて喜んでくれた。
ワンプレートで出したのは皿がないからであって、決してオシャレさを求めたワケではないのだが、それでも彩りが良いと褒めてくれる。
パンも目玉焼きも焼いただけ、リンゴは切っただけ。それなのにこんなに嬉しそうな顔をされると、朝から照れ臭くてかなわない。
「お代わり、あるから。食べて」
「深海は? 食べないのか?」
「うん。朝はコーヒー。ほら、冷めるから食べて食べて!」
少し強めに促して、やっと二人は合掌して目玉焼きに手をつけてくれた。
「深海、今日の予定は?」
「昼過ぎには正樹くん……俺が勉強教えている子の家に行って、お母さんに参考書渡して来ようと思ってる」
「お友達は?」
「それは帰りに段ボー……でっかい箱もらって、そこの床に積んである資料とか詰めて。あ、そうそう、あのさ」
二人に昨夜の思い付きを話してみた。
売れる物は全部売って、それで買えるだけのコーヒー買って郷に持って行っちゃダメかな? って。
「郷にはあのこぉひぃを淹れる機械はないぞ?」
もっともなことを言う朱雀に機械がなくても淹れられることを伝えると、白虎と一瞬見つめ合って
「俺達にも振る舞ってくれるのなら文句はない!」
と笑って賛成してくれた。白虎は白虎で目を細めて
「和子と深海さんと四人でお茶会、楽しみですねぇ!」
と既に頭の中で楽しいお茶会が開かれているようだ。
「貯金も下ろしてコーヒーに変えたら、すっごい量になるけど、良いの?」
「……ちょきんってなんですか?」
白虎の言葉に瞬きを数回。変なことは言っていないはずだが……?
聞けば郷には銀行はないと言う。そもそも貨幣がない。食料その他は自給自足で間に合っているし、必要な物があれば物々交換でお互いが納得する形で手に入れている。
帝、ルナ、朱雀と白虎、玄武、青龍は郷の管理者としての仕事をしていて、その対価に食べ物や着物が献上されているので、何の問題もないらしい。
「平和な世界だな……」
「そうなるように和子や俺達がいるんだよ」
ぼそりと零した朱雀の口調に隠しきれない誇りを感じた。
「苦情処理係ですよ」
と言ったのは白虎。穏やかな顔でリンゴを齧っている。
「例えば……今年は収穫量が少ないのに朱雀の管理地の人達が去年と同じ交換率でないとダメって言うからなんとかしてくださいって言われたら、私が朱雀の所へ行ってお願いします。朱雀はそれを聞いて領地の人達と話し合いをして、お互い譲れるところで手を打ちます。そんな感じですよ」
なんて簡単に言うけど、絶対に簡単なことじゃないと思う。
少しの量で多くを得たいと思うのは当然のことだと思う。誰しも自分だけ損はしたくないだろう? それも一人二人じゃない、郷の全ての人を納得させるなんて至難の技だろう。
「しかし貯金か。深海がこの世から消えるなら深海の金も消えるだろうし……金って郷に持って行けるか? 持って行っても使い所があるか?」
「深海さん、お金を見せてくれませんか?」
財布から札を出して二人の掌に乗せると
「ダメだ」
と朱雀が瞬時に答え、俺の手に札が返ってきた。
「そうですね、コレはちょっと……」
と白虎もすぐに俺に渡したばかりの札を返して来た。
「コレは紙だろ? なんでこんなに情念がこもってるんだ? コレが世の中を回っているからか?」
「おそらく。深海さん、コレは郷には合いません……郷の住人になった深海さんがコレを持っていて平気だとも思えません……だから……ぜーんぶ! 全部こぉひぃに変えちゃいましょう。ね! お茶会です!」
くすっと笑っておどけてくれた白虎の気遣いに感謝した。
金を汚いとは思わない。生きていくのに必要だから、どんな金も汚いとは思えない。
俺も金が必要だからバイトして生きている。
ただ、たまに……金に支配されるのは嫌だと思ってしまう。
もちろん綺麗事だと解ってはいるけれど。
「おーい、深海!」
「あ、ごめん。ぼうっとしてた……あのさ! この世界の人達のこと、軽蔑とかしないで欲しい! もう物々交換なんて間に合わなくて、異国とも貿易とかしてて、それで生きてる人もいて、二人からしたらこんな紙に振り回されてる俺達なんて滑稽かも知れないけど、でも!」
がすっと頭が掴まれる。朱雀さん、ちょっとだけ痛いです。
「するワケねぇだろ? 仕組みが違う。それだけだ」
「そうですよ。皆さん必死に生きている……悪いことをする人もいるんでしょうけど、悪い人ばかりじゃないでしょう? 深海さんのお友達、悪い人ですか? 違うでしょう?」
安心なさい、と白虎は俺の頬を撫でてくれる。二人の手はやはり温かくて、ありがとうと呟くのが精一杯だった。
「先生、お昼食べて行きませんか?」
一方的なアポを押し付けたのに、正樹くんのお母さんは笑顔で迎えてくれて、昼食まで誘ってくれた。
「いえ、そんないきなり押しかけたのにその上そんな……」
「だって、こんなにたくさんの参考書いただいて! 何もおもてなしせずにお返ししたら主人と正樹に怒られます」
そうは言われても、だ。
昼下がり、ご主人もお子さんも不在の家に上がり込むようなマネができるはずもなく、人の良いお母さんのお誘いを丁重にお断りして、スーパーに段ボールをもらいに行くことにした。
「今日は用事がありまして、本当にいきなり押しかけてすみませんでした。あの、いつも美味しい晩御飯をありがとうございました。俺……僕は一人暮らしで、お母さんやお父さんや正樹くんと食べる夕食は本当に嬉しかったです。風邪をひいた時も、お粥、ありがとうございました。正樹くんは意志は強いし、すごくがんばっているから、きっと志望校に受かりますよ。それにお父さんのこともお母さんのことも大好きで、たまにそういう話をしてくれます」
「先生? どうしたんですか? なんだか嫌だわ…」
「本当にありがとうございました」
「お別れするみたいじゃないですか? 先生?」
そうです。お別れするんです。
貴女は忘れてしまうけど、俺は覚えておきますね、と心の中で呟いて不安そうなお母さんに笑顔を向けた。
「なかなか照れ臭くって言えないじゃないですか。正樹くんもいないし、言える時に言っておこうと思っただけです」
「本当? 困ったことがあるなら……」
「大丈夫です、お母さん。また今度!」
バレない嘘なら良いんだっけ?
ルナ、俺は今嘘をついたよ。
そして亮平にもきっと嘘をつくよ。
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可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…?
攻め:ヴィクター・ローレンツ
受け:リアム・グレイソン
弟:リチャード・グレイソン
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