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第30話 審判の刻
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この部屋から桜が見えると誰かが窓を開いた途端、芳しい香が流れ込んで来た。
とっぷりと日の暮れた真っ暗な庭に、それは見事な枝振りの大木が満開の光り輝く花を咲かせていた。
月の明かりを受けてキラリキラリと輝く花は間違いなくルナが眠らせたはずのあの瑠璃の桜だった。
「起きたんだね」
「……和子様の慶事に咲かなくては意味がない……って言ってる」
「え、深海、瑠璃桜の声が聞こえるの?」
大きな目をぱちくりさせて俺を見上げるルナに今は聞こえると告げた。
「耳も声も……なんかおかしいんだ」
これは郷が俺の身体を麒麟に変えてド派手な意志表示をしているせいだと思う。
湧き水が地下深くから噴き上がる音も、夜行性の動物が山の中を歩き始めた音も、強い意志を持った植物の囁く声も鮮明に耳に届く。
「近くに行ってみよう? きっとすごく綺麗だよ。おはようとありがとうも言わなくちゃ!」
先に立ち上がったルナに促されて立ち上がると、少しだけ身体が四足歩行に慣れたのを感じた。
慣れってすごいな……。
「……させるか……謀反人共……」
両手を背中に回されて掴まれ、左右を朱雀と青龍に固められた帝が怒りで赤黒く変色した顔で俺とルナを見た。
「どうせ桜も湧き水も月が介入したのじゃろうが。その麒麟も……儂を蹴落としたい輩が集まって作り上げた幻覚じゃろうがっ! 退位じゃと? ふざけるなよ、童共。騙されると思うなよ!? 穢れの郷入りに麒麟が出てくるなぞあるものかっ! 儂こそがこの郷の王じゃ! 皆の者っ、こやつら謀反人共に騙されるでないぞっ」
水を打ったように静まり返った部屋に帝の怒りに任せた荒い呼吸音だけが響く。
この部屋の中にいる人達が帝に賛同することはなかった。
「どうして? 帝……貴方はそんな人じゃなかったよ? 俺が小さい頃はよく一緒に遊んでくれたよ? 力の使い方を教えてくれたのも帝だった。貴方、優しかったよ……なのに何故?」
哀しみを含んだルナの声が帝に届くこともなかった。
「お前の力が強かったからだ! お前が欲しかったからだ! 新月に産まれ、月光鳥が祝福に現れた時に儂は思った。月に愛された……月の申し子と言っても過言ではないお前の力と儂の力を利用すればこの世の神にすらなれる、と」
「なんと畏れ多いことを……」
「そうかの? だから可愛がってやったのに。儂に懐いて、何でも言うことを聞くようになれば、と思うたが。頑固というかバカ正直というかバカというか。その強大な力を無駄にしおるわい。儂ならば使う。使ってこの郷をもっと良い物にする。格下の者共とへらへらとしおって。挙句に穢れを伴侶じゃと? 可愛がり方が足りんかったか? 愛してやったろうに……儂を畏怖し服従すれば良いと思うて声も脚も奪ったが……手緩かったか……こんな穢れに郷ごと奪われるくらいなら、いっそ身も心も蹂躙してその腹の中に儂のをぶちまけてやれば良かったわい!」
「……ひどい……」
ルナの頬をぽろりと涙が落ちる。
もし俺がじいちゃんに同じことを言われたら、と思うと胸が張り裂けそうになる。
優しく可愛がってくれた爺さんの目的がルナの持って生まれた力で、挙句に邪な想いまで抱いていたなんて。
「ルナ……今の俺じゃ抱きしめてやれない」
舌の先で涙を掬って、頬を擦り付けて顔を拭いてやる。今の俺ができる最大限がコレだ。
「俺達は、裏切ってねぇよ。謀反人はあんただろ?」
怒り過ぎて氷のような朱雀の声が微かに震えていた。
「郷を、俺達を裏切ってんのは、あんたじゃねぇか。郷をより良い物にするだと? ふざけんな! 花は咲かず泉は枯れかけた。大地がヒビ割れて、生き物達は皆生きることを諦め始めてた! なあ!? あんたには悲鳴が聞こえなかったか? それとも聞こうともしなかったか?」
「それもこれも月が穢れたからよ! 離せクソガキッ」
最後の悪足搔き、のつもりか。とても老人とは思えない激しい動きで朱雀と青龍の戒めを緩めた帝の目が昏い。
全身の毛が逆立つ感触にルナを突き飛ばしたのと、帝の歪んだ口が開くのは一瞬の差だった。
「炎蛇」
辺りを熱風が包もうとじわりと広がる。俺には、コマ送りのようにゆっくりと帝の指先からのたうつ蛇のような真っ赤な炎が吐き出されるのが見えた。
俺達の背後には、郷の人達もいるのに。
失うなら殺してしまえって?
それは認められない。許さない。傷付けることすら許さない。
突然胸を占めた俺だけの物じゃない怒りに戸惑う間もなく、気付けば。
「封縛」
口から勝手に出た言葉に、帝は舌打ちして床に這いつくばった。指一本動かすこともままならないようで、その様に少し安心した。
「み、皆は!?」
目の端にルナの無事を確認して、慌てて振り返った。
本当の俺はルナに駆け寄りたいのに、おそらく郷の意志がそれを許さない。
「深海さんが打ち消してくれたので、おかげさまで大丈夫ですよ」
白虎が両手を広げて皆を守るように立っていた。玄武も片手を床についていて、今の俺の目には二人を取り巻く気の動きが見えて、何か術を発動したのが解った。
皆、怯えている。
守ってくれていたはずの、郷を治めていた頂点が自分達を殺そうとしたことに言葉を失っていた。
「……すげぇな、あんた。俺の中にまだわずかに残ってた……解ってもらえるんじゃねぇかって希望も見事に消えたよ……」
がっくりと肩を落とした朱雀の声音が疲れたと嘆いている。
あり得ない、と郷の人達が騒ぎ出す。あまりの恐怖に泣き出している女性も何人かいた。
そんな人達の間をルナは歩いて、一人一人に大丈夫、落ち着いてと声をかけている。
俺の脚は床に転がっている帝に向いた。
「あんたの力は俺には届かない。だから声は奪わない。言い分もあるだろうし。そんなに帝と呼ばれることは特別か? デカい屋敷に住んで、着飾って、ふんぞり返って、四方守護を手足のように使うのはそんなに心地良いか? そんなにこの世の神になりたいか?」
ベッと唾が飛んで来るのが見えたので脚を上げて避けた。
見えるんだよ、今の俺には。
郷は見てるんだよ、俺の目を通して。
「……力ある者が支配して何が悪いか!」
「俺が生きてた人間の世界にはあんたみたいな人がたくさんいる。あんたが穢れと呼び忌み嫌う人間に、あんたはとてもよく似てる……あんたが誇るその力、与えられたモノだろ?」
「いきなり現れて知った風な口をきく……」
また唾が飛んで来る。またひょいと躱す。
「クソ……滅んでしまえ! 今までさんざん助けてやったのに儂を崇めも認めもしないこの世など、儂の物にならん月もこの世もさっさと滅んでしまえっ! 貴様など呪われてしまえっ!」
「この期に及んで呪詛を吐くの!?」
信じられない、と青龍と白虎の悲鳴のような声が重なった。玄武は嫌悪に目を細めて
「……不様」
と呟いた。
この目は見た。この耳は聞いた。
ざわり、ざわり。
……郷が動く……
「ルナ!」
泣いている女性の手を取って宥めているルナの元へ駆け寄って、身体に覆い被さった。
「深海?」
「目を閉じろ。何も見るな」
ルナは見なくて良い。見なくてもきっと解ってしまうだろうけど、見てしまえば記憶に焼き付いてしまう。
「見たくない者は目を閉じろ!」
桜の香が一瞬で消えた。
開け放たれた窓から真っ黒な靄が怒涛の勢いで雪崩れ込み、あっという間に帝に絡みついた。
呪詛を吐いた口から、話を聞こうともしなかった耳から、欲に濁った目から靄が体内に浸入していく。
体内を靄が移動する度に肌の色や輪郭がボコボコと変わる帝の姿を俺はじっと見ていた。
ぎゅうっとルナが俺の胸に顔を押し当て、髪を……鬣を掴む。小さく震える身体を抱いてやれないことがもどかしい。
「あ、がっおっごぉ……つ、つき……儂の月っゔえお…」
「ひっ!」
「和子、そのまま目を閉じていてくださいね」
帝に月と呼ばれる度にビクつくルナの耳を白虎がそっと塞いだ。
俺がシンクに吐いたのと同じようなヘドロが帝を眼球の隙間から溢れ出て、固唾を呑んで見守っていた人達もついには悲鳴をあげて目を閉じてしまった。
靄に覆い尽くされ、身体中から墨色のヘドロを垂れ流し徐々にヒトの形を失くしていく。
帝の最期を見たのは俺の他は守護の四人だけだった。
「もう良いよ。目を開けても良いよ」
何一つ残さず、靄は入って来た時と同様、嵐のように去って行った。
部屋の中は再び桜の香が満ち始め、人々からは安堵の溜め息が零れる。
「……俺のせい……?」
顔色を失くしたルナが弱々しく呟いて、金眼が涙でぼやけている。
「……月の和子……朔だったか、ルナだったか……お前のせいではないよ。長い長い時間の中、在るべき形を忘れ権力に驕り溺れ狂ったのは全てはアレの心の歪み。そして消したのは我等郷の意志。役目も果たしたことだし、そろそろ我は帰らせてもらおう」
口が勝手に動く。これは完全に俺の意志じゃない。
固まるルナの前で勝手に身体が動いて跪く。
「おぉ! 伴侶には伝えたが、祝福がまだであったな。我等郷からは加護を。伴侶と末永く寄り添って生きるが良い。お前達ならば、まぁ間違えることはあるまいて。ならば深海の身体を返そう」
「か、神様……?」
麒麟が満足しているのが解った。
その認識で文句はないようだ、と思った瞬間身体から全ての力が抜けた。
がくりと崩れる身体を支えてくれた白虎にルナが慌てて何か言っている。
「早く着物を!」
「とりあえず俺のを」
ばさりと朱雀が羽織っていた着物を掛けられて、衆人環視の中で全裸を晒してモジモジするという恐怖からは解放された。
「すざく、ありがと……あれ?」
「あー。喋んな。郷からの祝福を受けた後は少しの間身体がいうことを利かない。それに……深海の場合は特に、な。悪い。ちっとも素敵なことにならなかったな。和子も許してくれ」
「……うん」
「みんな! 聞いて! それぞれ思うところがあるかも知れないけど和子と伴侶殿を休ませてあげたいんだよ! だから今日のところはこんなカタチになったけど解散してほしい。お願いっ!」
顔の前で手を合わせて必死の様子の青龍に誰も異議を申し立てることなく、動ける者から立ち上がる。
「……朱雀……行け」
「おう、頼む」
朱雀に抱えられてルナの館に連れて行ってもらう途中、瑠璃の桜の木の側を通った。
待ってて! と桜に駆け寄ったルナは桜に向かって
「ありがとう。おはよう。すごく綺麗」
と幹に手を当てて話しかけていた。
心配そうに俺をチラリと見て
「そうだよ。うん、聞こえたって! 明日また会いに来るね。本当にありがとう」
そう言うと身を翻してこちらへ駆けて来る。
「帰ろ、深海。んで、明日考えよ?」
ルナと迎える明日があることで疲れもさっきの無惨な光景もどうでも良くなるゲンキンな自分に苦笑した。
とっぷりと日の暮れた真っ暗な庭に、それは見事な枝振りの大木が満開の光り輝く花を咲かせていた。
月の明かりを受けてキラリキラリと輝く花は間違いなくルナが眠らせたはずのあの瑠璃の桜だった。
「起きたんだね」
「……和子様の慶事に咲かなくては意味がない……って言ってる」
「え、深海、瑠璃桜の声が聞こえるの?」
大きな目をぱちくりさせて俺を見上げるルナに今は聞こえると告げた。
「耳も声も……なんかおかしいんだ」
これは郷が俺の身体を麒麟に変えてド派手な意志表示をしているせいだと思う。
湧き水が地下深くから噴き上がる音も、夜行性の動物が山の中を歩き始めた音も、強い意志を持った植物の囁く声も鮮明に耳に届く。
「近くに行ってみよう? きっとすごく綺麗だよ。おはようとありがとうも言わなくちゃ!」
先に立ち上がったルナに促されて立ち上がると、少しだけ身体が四足歩行に慣れたのを感じた。
慣れってすごいな……。
「……させるか……謀反人共……」
両手を背中に回されて掴まれ、左右を朱雀と青龍に固められた帝が怒りで赤黒く変色した顔で俺とルナを見た。
「どうせ桜も湧き水も月が介入したのじゃろうが。その麒麟も……儂を蹴落としたい輩が集まって作り上げた幻覚じゃろうがっ! 退位じゃと? ふざけるなよ、童共。騙されると思うなよ!? 穢れの郷入りに麒麟が出てくるなぞあるものかっ! 儂こそがこの郷の王じゃ! 皆の者っ、こやつら謀反人共に騙されるでないぞっ」
水を打ったように静まり返った部屋に帝の怒りに任せた荒い呼吸音だけが響く。
この部屋の中にいる人達が帝に賛同することはなかった。
「どうして? 帝……貴方はそんな人じゃなかったよ? 俺が小さい頃はよく一緒に遊んでくれたよ? 力の使い方を教えてくれたのも帝だった。貴方、優しかったよ……なのに何故?」
哀しみを含んだルナの声が帝に届くこともなかった。
「お前の力が強かったからだ! お前が欲しかったからだ! 新月に産まれ、月光鳥が祝福に現れた時に儂は思った。月に愛された……月の申し子と言っても過言ではないお前の力と儂の力を利用すればこの世の神にすらなれる、と」
「なんと畏れ多いことを……」
「そうかの? だから可愛がってやったのに。儂に懐いて、何でも言うことを聞くようになれば、と思うたが。頑固というかバカ正直というかバカというか。その強大な力を無駄にしおるわい。儂ならば使う。使ってこの郷をもっと良い物にする。格下の者共とへらへらとしおって。挙句に穢れを伴侶じゃと? 可愛がり方が足りんかったか? 愛してやったろうに……儂を畏怖し服従すれば良いと思うて声も脚も奪ったが……手緩かったか……こんな穢れに郷ごと奪われるくらいなら、いっそ身も心も蹂躙してその腹の中に儂のをぶちまけてやれば良かったわい!」
「……ひどい……」
ルナの頬をぽろりと涙が落ちる。
もし俺がじいちゃんに同じことを言われたら、と思うと胸が張り裂けそうになる。
優しく可愛がってくれた爺さんの目的がルナの持って生まれた力で、挙句に邪な想いまで抱いていたなんて。
「ルナ……今の俺じゃ抱きしめてやれない」
舌の先で涙を掬って、頬を擦り付けて顔を拭いてやる。今の俺ができる最大限がコレだ。
「俺達は、裏切ってねぇよ。謀反人はあんただろ?」
怒り過ぎて氷のような朱雀の声が微かに震えていた。
「郷を、俺達を裏切ってんのは、あんたじゃねぇか。郷をより良い物にするだと? ふざけんな! 花は咲かず泉は枯れかけた。大地がヒビ割れて、生き物達は皆生きることを諦め始めてた! なあ!? あんたには悲鳴が聞こえなかったか? それとも聞こうともしなかったか?」
「それもこれも月が穢れたからよ! 離せクソガキッ」
最後の悪足搔き、のつもりか。とても老人とは思えない激しい動きで朱雀と青龍の戒めを緩めた帝の目が昏い。
全身の毛が逆立つ感触にルナを突き飛ばしたのと、帝の歪んだ口が開くのは一瞬の差だった。
「炎蛇」
辺りを熱風が包もうとじわりと広がる。俺には、コマ送りのようにゆっくりと帝の指先からのたうつ蛇のような真っ赤な炎が吐き出されるのが見えた。
俺達の背後には、郷の人達もいるのに。
失うなら殺してしまえって?
それは認められない。許さない。傷付けることすら許さない。
突然胸を占めた俺だけの物じゃない怒りに戸惑う間もなく、気付けば。
「封縛」
口から勝手に出た言葉に、帝は舌打ちして床に這いつくばった。指一本動かすこともままならないようで、その様に少し安心した。
「み、皆は!?」
目の端にルナの無事を確認して、慌てて振り返った。
本当の俺はルナに駆け寄りたいのに、おそらく郷の意志がそれを許さない。
「深海さんが打ち消してくれたので、おかげさまで大丈夫ですよ」
白虎が両手を広げて皆を守るように立っていた。玄武も片手を床についていて、今の俺の目には二人を取り巻く気の動きが見えて、何か術を発動したのが解った。
皆、怯えている。
守ってくれていたはずの、郷を治めていた頂点が自分達を殺そうとしたことに言葉を失っていた。
「……すげぇな、あんた。俺の中にまだわずかに残ってた……解ってもらえるんじゃねぇかって希望も見事に消えたよ……」
がっくりと肩を落とした朱雀の声音が疲れたと嘆いている。
あり得ない、と郷の人達が騒ぎ出す。あまりの恐怖に泣き出している女性も何人かいた。
そんな人達の間をルナは歩いて、一人一人に大丈夫、落ち着いてと声をかけている。
俺の脚は床に転がっている帝に向いた。
「あんたの力は俺には届かない。だから声は奪わない。言い分もあるだろうし。そんなに帝と呼ばれることは特別か? デカい屋敷に住んで、着飾って、ふんぞり返って、四方守護を手足のように使うのはそんなに心地良いか? そんなにこの世の神になりたいか?」
ベッと唾が飛んで来るのが見えたので脚を上げて避けた。
見えるんだよ、今の俺には。
郷は見てるんだよ、俺の目を通して。
「……力ある者が支配して何が悪いか!」
「俺が生きてた人間の世界にはあんたみたいな人がたくさんいる。あんたが穢れと呼び忌み嫌う人間に、あんたはとてもよく似てる……あんたが誇るその力、与えられたモノだろ?」
「いきなり現れて知った風な口をきく……」
また唾が飛んで来る。またひょいと躱す。
「クソ……滅んでしまえ! 今までさんざん助けてやったのに儂を崇めも認めもしないこの世など、儂の物にならん月もこの世もさっさと滅んでしまえっ! 貴様など呪われてしまえっ!」
「この期に及んで呪詛を吐くの!?」
信じられない、と青龍と白虎の悲鳴のような声が重なった。玄武は嫌悪に目を細めて
「……不様」
と呟いた。
この目は見た。この耳は聞いた。
ざわり、ざわり。
……郷が動く……
「ルナ!」
泣いている女性の手を取って宥めているルナの元へ駆け寄って、身体に覆い被さった。
「深海?」
「目を閉じろ。何も見るな」
ルナは見なくて良い。見なくてもきっと解ってしまうだろうけど、見てしまえば記憶に焼き付いてしまう。
「見たくない者は目を閉じろ!」
桜の香が一瞬で消えた。
開け放たれた窓から真っ黒な靄が怒涛の勢いで雪崩れ込み、あっという間に帝に絡みついた。
呪詛を吐いた口から、話を聞こうともしなかった耳から、欲に濁った目から靄が体内に浸入していく。
体内を靄が移動する度に肌の色や輪郭がボコボコと変わる帝の姿を俺はじっと見ていた。
ぎゅうっとルナが俺の胸に顔を押し当て、髪を……鬣を掴む。小さく震える身体を抱いてやれないことがもどかしい。
「あ、がっおっごぉ……つ、つき……儂の月っゔえお…」
「ひっ!」
「和子、そのまま目を閉じていてくださいね」
帝に月と呼ばれる度にビクつくルナの耳を白虎がそっと塞いだ。
俺がシンクに吐いたのと同じようなヘドロが帝を眼球の隙間から溢れ出て、固唾を呑んで見守っていた人達もついには悲鳴をあげて目を閉じてしまった。
靄に覆い尽くされ、身体中から墨色のヘドロを垂れ流し徐々にヒトの形を失くしていく。
帝の最期を見たのは俺の他は守護の四人だけだった。
「もう良いよ。目を開けても良いよ」
何一つ残さず、靄は入って来た時と同様、嵐のように去って行った。
部屋の中は再び桜の香が満ち始め、人々からは安堵の溜め息が零れる。
「……俺のせい……?」
顔色を失くしたルナが弱々しく呟いて、金眼が涙でぼやけている。
「……月の和子……朔だったか、ルナだったか……お前のせいではないよ。長い長い時間の中、在るべき形を忘れ権力に驕り溺れ狂ったのは全てはアレの心の歪み。そして消したのは我等郷の意志。役目も果たしたことだし、そろそろ我は帰らせてもらおう」
口が勝手に動く。これは完全に俺の意志じゃない。
固まるルナの前で勝手に身体が動いて跪く。
「おぉ! 伴侶には伝えたが、祝福がまだであったな。我等郷からは加護を。伴侶と末永く寄り添って生きるが良い。お前達ならば、まぁ間違えることはあるまいて。ならば深海の身体を返そう」
「か、神様……?」
麒麟が満足しているのが解った。
その認識で文句はないようだ、と思った瞬間身体から全ての力が抜けた。
がくりと崩れる身体を支えてくれた白虎にルナが慌てて何か言っている。
「早く着物を!」
「とりあえず俺のを」
ばさりと朱雀が羽織っていた着物を掛けられて、衆人環視の中で全裸を晒してモジモジするという恐怖からは解放された。
「すざく、ありがと……あれ?」
「あー。喋んな。郷からの祝福を受けた後は少しの間身体がいうことを利かない。それに……深海の場合は特に、な。悪い。ちっとも素敵なことにならなかったな。和子も許してくれ」
「……うん」
「みんな! 聞いて! それぞれ思うところがあるかも知れないけど和子と伴侶殿を休ませてあげたいんだよ! だから今日のところはこんなカタチになったけど解散してほしい。お願いっ!」
顔の前で手を合わせて必死の様子の青龍に誰も異議を申し立てることなく、動ける者から立ち上がる。
「……朱雀……行け」
「おう、頼む」
朱雀に抱えられてルナの館に連れて行ってもらう途中、瑠璃の桜の木の側を通った。
待ってて! と桜に駆け寄ったルナは桜に向かって
「ありがとう。おはよう。すごく綺麗」
と幹に手を当てて話しかけていた。
心配そうに俺をチラリと見て
「そうだよ。うん、聞こえたって! 明日また会いに来るね。本当にありがとう」
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