4 / 104
第一章
プロローグ
しおりを挟む
私はいつものように職場に向かっていた。
住処からまっすぐ向かえばあっという間に到着する道のりなのだが、この日は寄り道をしたい気分だった。
職場の手前で進路を変えて少し進んでいると、前の方に人の姿が見えてきた。
近づいて確認したら、若い女性のようであった。知っている顔ではない。
女性までは十数メートルの距離なのだが、相手がこちらに気付く気配はない。
それも当然で、普通の人間には私が認識できないのだ。
実はこちらも似たようなもので、相手を見たり相手が発する音を聞いたりはできるが、相手にこちらの存在を知らせることはできない。また、これ以上彼女に近づくこともできない。
今は私がそのような存在だからとだけ説明しておく。
女性の恰好を見ると、タータンチェックのシャツに深緑のチノパン、靴は赤っぽいハイキングシューズだ。
ハイキング客なのか、うちの職場の客なのか迷う外見だ。
というのも、うちの職場は比較的マイナーなハイキングコースが設けられている山の中腹にある。
職場はハイキングコースを外れて森の中を数百メートル進んだ場所にあるのだ。
本来なら人が訪れるような施設を作ってよい場所ではない。
うちの職場に用のない者がこのあたりにいるとしたら、それは遭難者とほぼ同義だからだ。
女性には焦りはあるようだが、パニックにはなっていないように思われる。
こうした人間はうちの職場の客である可能性が高い。
敢えて引っかかるとするならば、うちの職場の客としては「若すぎる」ことくらいか。
ガサガサッ! パキパキッ!
遠くの方から草や木の枝をかき分ける音が聞こえると、女性がぴくっと身体を強張らせた。
この反応は客の可能性もあるが、これだけでは判断がつかない。単に音に驚いた可能性が考えられるからだ。
女性は音とは反対の方向にそろりそろりと進みだした。
今のところ私から手の出しようのない状況だが、少し考えて私は自分が通れる場所を通って女性の後を追った。
このあたりは目に見えても私が入り込むことができない領域が点在しているからだ。
「こっちだ! 音がしている!」
「確保しますっ!」
後ろから声が聞こえてきた。さっきより近くだ。
どうやら女性を探しているようだ。
「くっ!」
女性は唇を噛むと音がするのも構わず声の方から逃れようと走り出した。
この反応は十中八九うちの客だが、今の段階では決めつけることはできない。
それにそうだとしても今の自分には手出しをする手段がない。
「考え直すんだ! 今ならまだ間に合う!」
今度は右前方から声が聞こえてきた。これは彼女を捕まえにきたと考えて間違いなさそうだ。
私は声のした方に向かった。どうせ相手から私の姿は見えないし、手出しすることもできない。
声の主は警察官だった。ご丁寧に銃まで構えている。
女性が凶悪犯なのかと疑いたくなる。多分違うだろうけど。
ガサガサガサガサ……
今度は左前方から茂みをかき分ける音が聞こえてきた。
女性は完全に囲まれたようだ。このままでは捕まってしまうのも時間の問題だろう。
「や、やだ……ここまで来たのに……二度とここへ来られなくなっちゃう……」
女性が必死になって包囲の輪から逃れようと輪の綻びを探す。
しかし、抜け出せそうな綻びは見つからない。
せめて追手から姿を隠そうと、茂みの奥の方へと進んでいく。
「『相談所』までもうすぐのはずなのに……助けてよ……」
不意に女性の口から助けを求める声が漏れた。
しかし、私が気に留めたのは言葉の前半部の方だ。
そう、「相談所」は私の職場の名前なのだ。ということはうちの客だ。ならば彼女を職場まで無事な状態で連れていかなければならない。
幸い、今の彼女のいる場所なら私が立ち入ることができそうだ。
「何とか間に合ってくれよ!」
思わず言葉にしてしまったが、周囲に聞かれる心配はないはずだ。
私は急いで職場へと向かった。職場になら彼女を助ける手段があるかも知れないからだ。
私が彼女を助けるための道具を持って戻ってくるまで、時間にしたら二分かそこらだったはずだ。
その間に、彼女を包囲する輪はかなり小さくなっていた。
彼女が隠れた茂みは追手の手によって大半が切り開かれており、辛うじて学校の教室くらいの面積が残されているだけだった。
追手の数はいつの間にかニ〇名ほどに増えている。このままでは彼女が捕まってしまう。
私は職場の客であろうこの女性の安全を確保するため、茂みに突っ込んだ。
といっても、茂みの木や草が動くことはないので、音を立てることもない。私はそういう存在なのだ。
女性の姿はすぐに見つかった。
茂みの真ん中のあたりで腹ばいになって身を隠していた。
持ってきた道具の大きさも足りそうだ。
私は手にしていたカーテンのような布を広げ、私自身と女性の身体を覆った。
二人分の身体を覆うのに布の大きさは十分だった。
「えっ?! や、止めてください……」
女性が怯えた表情を浮かべている。私の姿が見えるようになったからだ。
「驚かせてすみません。信じてもらえるかどうかはわかりませんが『相談所』の者です。怖い思いをさせて申し訳ありませんが、これから貴女を『相談所』までご案内します」
「……」
女性は疑いと怯えが半々といった目つきでこちらを見ている。さすがに私でもいきなりこちらを信じろと言われたら疑いたくもなる。
「この布を被ったまま這って移動することになりますが……この布を被っている限りは追手に見つかることはありませんから、ご安心ください」
私自身、「これで信用しろと言ってもなぁ」という気分なのだが、他に手段がない。
私が匍匐前進の要領で布を被ったまま動き出すと、彼女も意を決したのか同じ要領で私の隣を進みだした。
私は時々停止して布の端を少しめくり、現在位置や追手の居場所を確認した。
私がやる分には相手から見つかることがないからだ。
「もうすぐ追手の足元を通り抜けますが、ぶつかったり見つかったりすることはないので、私に合わせて進んでください」
私の指示に女性はコクコクとうなずいた。声を出すと見つかると思ったのだろう。その身体が恐怖で震えているのが見えたが、今はとにかく職場に着くことが優先だ。
女性は恐る恐る私に合わせて進んでいったが、追手にぶつかることもないのに気付き、驚いた顔を見せた。
「ほら、大丈夫だったでしょう。このまま『相談所』まで進みましょう」
匍匐前進で進むこと十数分、私は布から這い出して周囲を見回した。近くに追手の姿はない。
「目の前の建物が見えますか?」
私は外から布の端を少しめくって女性に職場の建物を見せた。
彼女が職場の客なら、建物が見えるはずだ。
敢えて言えば、古びた小さな二階建ての洋館だ。
「はい……レトロな建物が見えます……」
女性はほっと胸をなで下ろしたが、私も同じ気分だった。
彼女が職場の客だということが明らかになったからだ。
客でもない人間に関わったとしたら、私の行動は職場から問題視されてしまうのだ。
「では、こちらへ」
私は女性を覆っていた布をどけて、建物の入口のドアを開けた。
女性が建物の中に入ったのを確認して扉を閉じた。
これで追手は彼女を見つけることができなくなったはずだ。
「ようこそ『相談所』へ。私は相談員のアーベルと申します。所長を呼んで参りますので、貴女のお名前を頂きたいのですが……」
私は女性の前で恭しく頭を下げた。
これは私のキャラではないし、既に色々ぶち壊している状況なのだが、ここへ相談に訪れる人のイメージは壊したくなかったからだ。
「ご丁寧にありがとうございます。ミツタ・ユーリと申します。今日は『相談』のために参りました……」
住処からまっすぐ向かえばあっという間に到着する道のりなのだが、この日は寄り道をしたい気分だった。
職場の手前で進路を変えて少し進んでいると、前の方に人の姿が見えてきた。
近づいて確認したら、若い女性のようであった。知っている顔ではない。
女性までは十数メートルの距離なのだが、相手がこちらに気付く気配はない。
それも当然で、普通の人間には私が認識できないのだ。
実はこちらも似たようなもので、相手を見たり相手が発する音を聞いたりはできるが、相手にこちらの存在を知らせることはできない。また、これ以上彼女に近づくこともできない。
今は私がそのような存在だからとだけ説明しておく。
女性の恰好を見ると、タータンチェックのシャツに深緑のチノパン、靴は赤っぽいハイキングシューズだ。
ハイキング客なのか、うちの職場の客なのか迷う外見だ。
というのも、うちの職場は比較的マイナーなハイキングコースが設けられている山の中腹にある。
職場はハイキングコースを外れて森の中を数百メートル進んだ場所にあるのだ。
本来なら人が訪れるような施設を作ってよい場所ではない。
うちの職場に用のない者がこのあたりにいるとしたら、それは遭難者とほぼ同義だからだ。
女性には焦りはあるようだが、パニックにはなっていないように思われる。
こうした人間はうちの職場の客である可能性が高い。
敢えて引っかかるとするならば、うちの職場の客としては「若すぎる」ことくらいか。
ガサガサッ! パキパキッ!
遠くの方から草や木の枝をかき分ける音が聞こえると、女性がぴくっと身体を強張らせた。
この反応は客の可能性もあるが、これだけでは判断がつかない。単に音に驚いた可能性が考えられるからだ。
女性は音とは反対の方向にそろりそろりと進みだした。
今のところ私から手の出しようのない状況だが、少し考えて私は自分が通れる場所を通って女性の後を追った。
このあたりは目に見えても私が入り込むことができない領域が点在しているからだ。
「こっちだ! 音がしている!」
「確保しますっ!」
後ろから声が聞こえてきた。さっきより近くだ。
どうやら女性を探しているようだ。
「くっ!」
女性は唇を噛むと音がするのも構わず声の方から逃れようと走り出した。
この反応は十中八九うちの客だが、今の段階では決めつけることはできない。
それにそうだとしても今の自分には手出しをする手段がない。
「考え直すんだ! 今ならまだ間に合う!」
今度は右前方から声が聞こえてきた。これは彼女を捕まえにきたと考えて間違いなさそうだ。
私は声のした方に向かった。どうせ相手から私の姿は見えないし、手出しすることもできない。
声の主は警察官だった。ご丁寧に銃まで構えている。
女性が凶悪犯なのかと疑いたくなる。多分違うだろうけど。
ガサガサガサガサ……
今度は左前方から茂みをかき分ける音が聞こえてきた。
女性は完全に囲まれたようだ。このままでは捕まってしまうのも時間の問題だろう。
「や、やだ……ここまで来たのに……二度とここへ来られなくなっちゃう……」
女性が必死になって包囲の輪から逃れようと輪の綻びを探す。
しかし、抜け出せそうな綻びは見つからない。
せめて追手から姿を隠そうと、茂みの奥の方へと進んでいく。
「『相談所』までもうすぐのはずなのに……助けてよ……」
不意に女性の口から助けを求める声が漏れた。
しかし、私が気に留めたのは言葉の前半部の方だ。
そう、「相談所」は私の職場の名前なのだ。ということはうちの客だ。ならば彼女を職場まで無事な状態で連れていかなければならない。
幸い、今の彼女のいる場所なら私が立ち入ることができそうだ。
「何とか間に合ってくれよ!」
思わず言葉にしてしまったが、周囲に聞かれる心配はないはずだ。
私は急いで職場へと向かった。職場になら彼女を助ける手段があるかも知れないからだ。
私が彼女を助けるための道具を持って戻ってくるまで、時間にしたら二分かそこらだったはずだ。
その間に、彼女を包囲する輪はかなり小さくなっていた。
彼女が隠れた茂みは追手の手によって大半が切り開かれており、辛うじて学校の教室くらいの面積が残されているだけだった。
追手の数はいつの間にかニ〇名ほどに増えている。このままでは彼女が捕まってしまう。
私は職場の客であろうこの女性の安全を確保するため、茂みに突っ込んだ。
といっても、茂みの木や草が動くことはないので、音を立てることもない。私はそういう存在なのだ。
女性の姿はすぐに見つかった。
茂みの真ん中のあたりで腹ばいになって身を隠していた。
持ってきた道具の大きさも足りそうだ。
私は手にしていたカーテンのような布を広げ、私自身と女性の身体を覆った。
二人分の身体を覆うのに布の大きさは十分だった。
「えっ?! や、止めてください……」
女性が怯えた表情を浮かべている。私の姿が見えるようになったからだ。
「驚かせてすみません。信じてもらえるかどうかはわかりませんが『相談所』の者です。怖い思いをさせて申し訳ありませんが、これから貴女を『相談所』までご案内します」
「……」
女性は疑いと怯えが半々といった目つきでこちらを見ている。さすがに私でもいきなりこちらを信じろと言われたら疑いたくもなる。
「この布を被ったまま這って移動することになりますが……この布を被っている限りは追手に見つかることはありませんから、ご安心ください」
私自身、「これで信用しろと言ってもなぁ」という気分なのだが、他に手段がない。
私が匍匐前進の要領で布を被ったまま動き出すと、彼女も意を決したのか同じ要領で私の隣を進みだした。
私は時々停止して布の端を少しめくり、現在位置や追手の居場所を確認した。
私がやる分には相手から見つかることがないからだ。
「もうすぐ追手の足元を通り抜けますが、ぶつかったり見つかったりすることはないので、私に合わせて進んでください」
私の指示に女性はコクコクとうなずいた。声を出すと見つかると思ったのだろう。その身体が恐怖で震えているのが見えたが、今はとにかく職場に着くことが優先だ。
女性は恐る恐る私に合わせて進んでいったが、追手にぶつかることもないのに気付き、驚いた顔を見せた。
「ほら、大丈夫だったでしょう。このまま『相談所』まで進みましょう」
匍匐前進で進むこと十数分、私は布から這い出して周囲を見回した。近くに追手の姿はない。
「目の前の建物が見えますか?」
私は外から布の端を少しめくって女性に職場の建物を見せた。
彼女が職場の客なら、建物が見えるはずだ。
敢えて言えば、古びた小さな二階建ての洋館だ。
「はい……レトロな建物が見えます……」
女性はほっと胸をなで下ろしたが、私も同じ気分だった。
彼女が職場の客だということが明らかになったからだ。
客でもない人間に関わったとしたら、私の行動は職場から問題視されてしまうのだ。
「では、こちらへ」
私は女性を覆っていた布をどけて、建物の入口のドアを開けた。
女性が建物の中に入ったのを確認して扉を閉じた。
これで追手は彼女を見つけることができなくなったはずだ。
「ようこそ『相談所』へ。私は相談員のアーベルと申します。所長を呼んで参りますので、貴女のお名前を頂きたいのですが……」
私は女性の前で恭しく頭を下げた。
これは私のキャラではないし、既に色々ぶち壊している状況なのだが、ここへ相談に訪れる人のイメージは壊したくなかったからだ。
「ご丁寧にありがとうございます。ミツタ・ユーリと申します。今日は『相談』のために参りました……」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
4
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる