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第一章

自宅での私(アーベル)

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 「ケルークス」から私の家までは一〇分もかからない距離だ。
 ちなみに時間の単位は精霊界でも存在界でも変わらない。
 というのも時間の概念を人に紹介したのは精霊で、それから人間が時間の単位を作ったからだ。
 人間が作った時間の単位を精霊も受け入れている、というワケ。
 精霊は時間の感覚が曖昧なので、時間を守るということについては人間の方が優れている。

 私の家は泉のほとりにある西洋風の木組みの建物だ。高さは三階建て。
 建物の東側には一本のシイの木があるので、これが目印となる。
 ちなみに「ケルークス」の建物の脇には店名のもととなった大木があるが、こちらはウバメガシである。

 「あ、アーベルさん、おかえりなさい」
 建物の前の泉で水を汲んでいた女性が私に気付いた。
 水色のウェーブのかかった髪をショートボブにした彼女は、名をカーリンという。精霊の種類としては水の精霊ニンフになる。
 ちなみに行きがけにアンブロシア酒の樽を持たせてくれたのも彼女で、アンブロシア酒造りの名人? 名精霊? だ。

 「ただいま、カーリン。そっちの仕事は終わりかい?」
 「大丈夫です! これで最後でしたから」
 カーリンが桶を片手に私の後をついてきた。

 「ただいま」
 ドアを開けて中に入る。
 中に入ったらまず最初にやることは、タイマーをセットすることだ。
 魂霊になってから時間の感覚が曖昧になっているところがあるので、「ケルークス」に出勤するタイミングを忘れないようにするためだ。

 タイマーをセットした後、一階の奥の方へと進む。
 一階は半分がカーリンのための作業場、残りの半分はリビングと台所だ。
 また、リビングの奥にある細い通路を少し歩くと離れになった浴室がある。
 リビングの方からすーっと緑のロングヘアの女性が近づいてきた。髪はカーリン同様ウェーブがかかっている。
 緑髪の精霊が私の左腕を抱きかかえる。
 「アーベル、おかえり」
 「メラニー、それではアーベルさんが歩きにくくなってしまいますよ」
 「ただいま。まあいいさ、リビングでソファに座ってしまうのだし」
 私の左腕を抱きかかえた緑髪の精霊はメラニー。彼女は樹木の精霊のドライアドだ。
 ドライアドは契約した相手にべったりする性質の者が多いらしいのだが、メラニーもその例に漏れない。
 外見はカーリンよりメラニーの方が年上に見えるのだが、精神年齢はカーリンの方が大人かな、と思う。

 「……アーベルさま、おかえりなさい」
 少し離れたところから、遠慮がちに声をかけてきたのは、カーリンの妹のリーゼだ。
 当然リーゼもニンフである。
 顔や背格好は姉妹というだけあってよく似ているが、リーゼは水色のウェーブのかかった髪を束ねて右側に垂らしている。
 髪そのものもリーゼの方が長めだ。

 「アーベル様、おかえりなさいませ」
 リビングの入口で隙のない礼をしてみせたのは水の精霊ウンディーネのニーナだ。
 話し方や所作は執事っぽいように思うのだけど、服装は町娘風で何故かスカートの丈が短い。
 見事なプラチナブロンドの長い髪の持ち主で、四体の中では一番細身だ。
 精神年齢は一番高いというか、落ち着いていると思う。

 この四体が私が契約している精霊、すなわちパートナーだ。
 皆良い性格をしているし、お互い仲が良いので、彼女たちと一緒に過ごすのは楽しい。

 「アーベル様、お食事はとられますか?」
 ニーナが恭しく尋ねてきた。
 本来精霊や魂霊は飲食する必要がないのだけど、楽しみとして飲食することはできる。
 こちらに移住してきた直後は人間だったころの習慣が抜けなくて、一日三回決まった時間に食事をとっていた。
 今は気が向いたら、という感じで平均すると日に一回か二回といったところだ。

 「職場ではお茶を飲んだだけだし、軽く食べておこうかな」
 「承知しました。わたくしが準備いたします」
 「あ、ニーナ。私がやろうか?」
 「今朝はアーベル様、昨日のお昼がカーリンでしたから、今回はわたくしが担当いたします」
 ニーナが台所に向かった。

 私のところでは、食事を作るのは私とニーナとカーリンだ。
 カーリンと私は昔から食べることに興味があったからで、ニーナは私が食べることに興味があることを知って作り方を覚えたのだと思う。

 ほどなくしてニーナがマナと呼ばれる硬めのビスケットのようなものと、ジャムとディップソースを二種類ずつ運んできた。
 実に手際がいい。
 存在界の人からするとこれだけ? と思われるかもしれないが、食事に関しては存在界の方が圧倒的にバリエーションが多い。
 そもそも精霊や魂霊は食事不要なので、食文化があまり発達する理由がない。
 食事も娯楽の一種であり、どちらかというと会話を進めるための小道具、といった意味合いが強いような気がする。

 「アーベルはどれにする? 私は黒いジャムにしようかな? ニーナ、お願いします」
 私の左腕を両腕でがっしり抱いたままのメラニーがニーナに言った。
 「メラニー、アーベル様とくっつくのは良いですが、この前のような粗相のないよう十分に気を付けてください」
 ニーナが律義にジャムを塗ったマナをメラニーに手渡した。
 先日、メラニーは私にマナを食べさせようとしたのだけど、手元が狂って私の顔にマナを叩きつけるような恰好になってしまった。
 私の被害は鼻から目のあたりにかけてディップソースまみれになったくらいで実害はなかったのだけど、メラニーは後でこってりとニーナにしぼられたそうだ。
 私も食べ物を他人に食べさせてもらうのは落ち着かないので、それ以降はパートナーたちに食べさせてもらうことを遠慮してもらっている。

 「アーベルさん、アンブロシア酒ですけど次回から造る量を少し増やしてみようと思うのですが、『ケルークス』での評判はどうでしたでしょうか?」
 カーリンが私の右隣から声をかけてきた。
 「確かに評判がいいみたいでユーリが減りが早いのを気にかけていたから、それは願ってもないことだと思う。私にできることがあれば遠慮なく言って欲しい」
 カーリンの造るアンブロシア酒は『ケルークス』でも評判が良い。
 「ありがとうございますっ! やってみますっ!」
 カーリンが空いている私の右手を取って目を輝かせた。
 彼女は私のパートナーの中では一番感情が表に出やすいように思う。

 「リーゼにはそろそろ次の本が必要かい? 今日は『ケルークス』に入荷していなかったから持って帰ってこれなかったけど……」
 私は向かいに座っているリーゼに声をかけた。
 彼女は極端な引っ込み思案というわけではないようだが、他のパートナーと私が話していると遠慮して話に入ってこないことがある。
 なので、こうして声をかけることが必要になってくる。
 彼女は私と契約してからは存在界の本やゲームに興味を持つようになった。
 私が読んだ本や遊んだゲームを後で楽しむので、完全に私の影響だ。

 「アーベルさま、もう少しかかりそうなので大丈夫です。新しいのが入りそうになったら私に教えてほしいです……」
 「わかった。今度『ケルークス』に行ったときに聞いてみるよ」
 「はい、お願いします」

 しばらく私は四体のパートナーと食事や会話を楽しんだ。
 精霊や魂霊は睡眠の必要もないので、このまま話し続けることもできる、
 しかし、私は睡眠も好きという性質なので、適宜睡眠を取ることにしている。
 その際はパートナーのうちの誰か一体、または全員と一緒だ。
 これは皆で決めたことだ。特にパートナーたちにとって死活問題でもあるので、私も不公平にならないよう気を遣わなければならない。

 今日はメラニーと一緒に寝る番だ。
 パートナーの一体だけと一緒に寝るときは二階の小さい寝室を使う。
 二階には大きな寝室と小さな寝室、そしてシャワールームがあり、全員で一緒に寝るときは大きな寝室を使うのだ。
 ちなみに三階にはパートナーたちの個室が四つ、来客用の寝室がひとつある。

 私は普段、この家でパートナーたちと話をしたり、遊んだりして暮らしている。
 「ケルークス」に出勤するのは原則二、三日に一度だ。
 そのくらいのペースで行かないと、相談員が不足してしまう。
 また、私やパートナーたちの楽しみのためにもある程度相談員の仕事をしていた方が都合がよいという理由もある。
 
 特別な事情がない限り、どんなに間隔が開いたとしても「ケルークス」には八日に一度出勤する。
 これは私が使っているタイマーで設定できる最長時間が一九九時間五九分だからだ。
 タイマーが鳴る前には家を出て「ケルークス」に向かうのだ。
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