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第三章

監視者の目、存在界の社会の目

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「ただいま戻りました。所長はいますでしょうか?」
「ケルークス」の店内に大人しそうな男性の声が聞こえてきた。
 先ほどまで気弱そうなのに何故かやたら質問だけは厳しい女性客の相手をしていたためか、私は一瞬身構えてしまった。
 私だけでなく店内にいたドナートやアイリスまでビクッとしていたから、同じことを感じたのだろう。
 
 しかし、声の主は店内にいる皆がよく知る男性だ。
 一六〇センチくらいの身長で気弱そうだが、何故か目つきだけは鋭い青年である。
 背中には小型の冷蔵庫が入るのではないかと思えるくらいの大きなリュック? を背負っている。
 彼こそ存在界へ出張しているメンバーの一人、闇の精霊タナトスのザカリーであった。
 タナトスといえば存在界では、死を司る非情な性質で知られているが、実態はかなり異なる。
 タナトスが司るのは「時間と時間の境界」だ。
 生と死も時間的な境界であるので、タナトスが司るものの一つではあるのだが……

 性格については……これからの話を読んでいただければ存在界での評判とはかなり異なるのがわかると思う。

「あ、ザカリー、お疲れ様」
 椅子からずり落ちかかっていたアイリスが慌てて立ち上がった。
「依頼されていたものを運んできましたが、どちらに下ろせばよいでしょうか?」
「あ、ザカリー。カウンターの厨房側に置いておいて」
 厨房から顔を出した店長のユーリがザカリーを手招きして呼んだ。
 大きな荷物の正体は「ケルークス」で使われる食材や存在界の書籍、ディスク類などである。
 彼は小さな身体に似合わず力があるので、存在界からの荷物の輸送においては主力となっている。

「その……所長や相談員の皆さんに報告したいことがあるのですが……」
 荷物を下ろし終えたザカリーが、アイリスに向けて申し訳なさそう声で尋ねた。
 アイリスは店内を見回してから、
「三組お客がいるわね……応接室で聞こうかしら。ドナートとアーベルも同席して」
 と告げた。

「さっきここへ戻ってくる途中にこのあたりを見張っている人を見かけたのですよ。それに最近存在界のネット界隈では精霊界や移住を希望する人たちの評判がよろしくなくて……」
 二階の応接室に移動した後、ザカリーがそう切り出してきた。

 「ザカリー、見つかったり声をかけられたりはしていないかしら?」
 そう尋ねるアイリスの目は真剣だ。さすがに放っておけない事態と考えているようだ。
「声はかけられていませんね。見つからないよう気を遣いましたが、正直なところ見つかったかどうかまでは……」
「アイリス、そうは言っても人間は精霊界には入って来られないのだから、精霊たちを使って監視している連中を追っ払えばいいのではないか?」
「ドナート、それはダメよ。警察とかが入ってきたら、相談を希望する人たちがここに来られなくなっちゃうわ」
「む、なら相談客に精霊を同行させるのはどうか? 精霊がいれば対処できそうに思うのだが……」
「……難しいわ。妖精になっちゃうと、精霊としての力を発揮できなくなるからね」

 精霊は人間が住む存在界へ行くと、妖精と呼ばれる存在になる。
 多くの者は人間と大差ない姿になるし、身体能力も人間と変わらない。
 それに精霊界で使うことができる魔術も使えなくなるものが大半だ。
 警察などが介入して来たら、とてもではないが相談客を守りきれない。
 まあ、存在界に行ったとしてもジャック・オー・ランタンみたいにカボチャとかカブを繰り抜いた提灯の姿の者もいるのだが。

「いざとなればワルターのような妖精形態が屈強な精霊に相談客を守らせるのがいいと思いますが、数が少ないですよね」
 ザカリーの言う通り、妖精形態で屈強な精霊というのも存在する。
 それでも武器を持った人間の集団に対抗できるかというと厳しい。

「いっそのこと、幽霊騒ぎか何か起こして追っ払う?」
 アイリスがとんでもないことを提案してきた。
「確かにできないことはなさそうですね……見張りがいたのは、精霊界と存在界の境界あたりです。あの場所なら精霊の姿のまま近くに行くことができる者もいるはずです」
 ザカリーがそう言いながら地図を広げた。
 見張り役がいるのは、ハイキング道のすぐ脇らしい。
 そこに例えばデュラハンのような首無し騎士の姿の精霊が姿を見せれば、幽霊かコスプレかくらいには思ってくれるかもしれないが……

「ちょ、ちょっと待ってください。これ、幽霊騒ぎなんか起こしたら、それこそ相談客が来られなくなりますよ!」
 見張り役にデュラハンなどを見せたら、コスプレと勘違いされない限り不審者がいると判断されるだろう。
 相手が警察などに知らせれば調べに来るだろうし、その間は相談客が相談に来られなくなる。
 その後だって、監視が強化される可能性が十分ある。

「確かにアーベルの言う通りですね。今のところは相談所へ行くルートを変更して情報を流していますから、相談客もそう簡単に見つからないと思いますけど……」
 ザカリーが心配そうな顔をしている。
「なら、こちらで定期的に見張るというのはどうです? 入口のカーテンを上手く使えば、こちらの姿を見せることなく監視者を見張ることができると思うのですが」
 私の提案はこうだ。
 建物の入口に使われているカーテンは精霊界と存在界とを区切ることができる。
 アイリスによれば「区切る」というのは正しい表現ではないそうだ。
 正確には「裏面に疑似的な精霊界や存在界を作るカーテン」らしい。

 詳しい原理などはよくわからないが、カーテンの反対側にあるものを認識したり、カーテンそのものをすり抜けることができないことはわかっている。
 私は以前、この方法でユーリを追手から隠してここへ連れてきたことがある。

「カーテンの力を使っても魂霊が存在界に行くことはできないから、精霊を使って見張らせるしかないかな。いざとなったらアーベルがやったようにすればいいか」
 アイリスは私のアイデアを具体的な手順にして示してくれた。
 普段はともかく、やるときはやる精霊なので仕事では頼りになる。当面はこの方法で相談客を守ることになりそうだ。

「ところでザカリー、さっき精霊界や移住を希望する人の評判が良くない、って言っていたわよね? どんな感じかしら?」
 アイリスはザカリーの二番目の報告も聞き逃していなかった。

「その件ですか……正直口にするのも嫌なくらい反吐が出るような言葉ばかりなのですけどね……」
  ザカリーは気が進まないという様子で答えた。
 
 「まあ、覚悟はしているけどな」
  ドナートが苦々しげな顔をしながら言った。
  私も少しだけ見聞きした程度だが、精霊界への移住に良い印象を持っていない者たちの偏見には目に余るものがある。
  そうした連中に対して私は「偏見は構わないが、移住を希望する者や精霊界に興味を持っている者の邪魔だけはしないでくれ」と思う。
 
 「まずは、僕たちが移住の説明をしているサイトやアカウントへの攻撃だね。潰されては新しいのを作っての繰り返しだよ。今では一日に何度もやらないと情報提供もままならない」
  ネットを通じた宣伝活動は移住者確保の生命線であるから、今の状況はかなり厳しいだろう。

「それはまだいいが、問題は移住に興味を持った人たちへの罵詈雑言さ。これを見てくれ」
 ザカリーがテーブルの上にどさっと紙の束を放り投げた。
 アイリス、ドナート、私がそれぞれ手に取って中を読んでみる。

「移住は人間社会からの逃亡に過ぎない。移住者とは人間として生きる義務を放棄した者だ。本来社会が享受すべき利益を強奪した犯罪者を示す耳障りのよい言葉が『移住者』である。すなわち移住希望者とは犯罪予備軍である」
 最初からかなり過激な意見だなとげんなりしてしまった。
 社会が享受すべき利益を強奪って、人間が造られた目的を考えれば移住しないことこそ精霊界が享受すべき利益の強奪なのだが。
 まあ、精霊も私もそんなことを言うつもりはないけどね。

「精霊界への移住とは人間を止めることである。精霊界への移住希望者は人間を止めたがっている者に他ならない。であるならば人間を止めたがっている旨を明示して、人として保有している権利を返上しなければならない。移住希望者に人としての権利を認めないのが彼らのためであろう」
 二番目の最初の一文については苦笑するしかなかった。
 これは事実なのだよな。私も人間ではなく「魂霊」いう存在になったし。
 ただ、人としての権利云々は正直やりすぎだと思う。
 こうした意見に賛同して行動を起こす者はごく少数派だと思うが……

「アイリス、ドナート、これは非常にマズいと思う。相談したい人たちが攻撃されかねない」
 私は二番目の文言が書かれた紙を示した。
「……いつの時代にもこの手の輩は存在する。日本は武器を持つ者が少ないと聞いているし行動を起こす者は稀だと思うが……」
 ドナートの表情が険しい。
 公にはしていないが、彼は人間だった時代に軍務に就いていた経験があるらしい。前線に出たことはないと言っていたが。
 もしかするとこのような思想を持つ相手と対峙した経験があるのかもしれない。

「ドナート、相談に来る人や、移住を希望する人が危険にさらされる可能性は高そう?」
 アイリスが尋ねた。
「存在界の情報が少ないから何とも言えないが……移住を希望するような者は目立たないように行動するだろうから、事件のターゲットにはなりにくいとは思う。それにここにある書き込みも愉快犯の手によるものが多いのではないか? 当面は相談所の周囲の警戒で良いと思うが……」
 ドナートが答えたが歯切れが悪い。言葉の通り存在界側の情報が少なすぎて、判断に困っているのだろう。

「可能であれば、相談客には存在界に行っているメンバーを同行させた方が良くないですか?」
「アーベル、存在界に行っているメンバーが相談客の身を守れるのであればそれもいいが、妖精形態の精霊にそれを求めるのは酷だ」
 私の提案はドナートに一蹴されてしまったが、この場合は専門家である彼の意見を尊重すべきであろう。

「……わかったわ。当面は相談所とハイキングコースの間を見張ることにするわ。うってつけの連中がいるから」
 アイリスは光の精霊ポルターガイストを見張り役にするという。
 存在界では何もないのに家具が揺れたり、皿が割れたりする心霊現象とされているようだが、正確にはこれはポルターガイストが溢壊したときの現象だ。
 ポルターガイストは整頓を司る精霊で、頼めば家具や書類などをきちんと並べてくれたりするというズボラな者にはありがたい存在だ。
 異常を察知する能力も高いから見張り役にはうってつけだ。
 妖精形態が人間の子供というのがネックだが、見張り役だけなら問題ないだろう、ということだった。

「それにしても、ドナートのいう通り愉快犯が多いのでしょうけど、精霊界へ移住する人に対してこういう感情をぶつけてくるというのはすっきりしないですね……」
 ザカリーが持ってきた紙の束を読み終えて、私は思わずぼやいた。ぼやかずにはいられない気分だったのだ。

「ふん、そんな連中の言葉が何になる? 移住したい者の気持ちを折ることなどできんさ」
 ドナートがふんと鼻を鳴らした。

「突き詰めれば私たち精霊がこのように人間を造った、ということになるのだろうけど。正直そこまでは付き合っていられないわね」
 アイリスがやれやれと首を横に振りながら両手を広げた。

「そうですね、この件は当分状況を注視するということで」
 私は、
「口だけならいいですが、移住を望む人たちを力ずくで妨害するということにならないといいのですけど」
 と言いたかったのだが、何となく憚られるような気がして言葉を変えた。
 私の懸念が杞憂に終わることを祈るとしよう。
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