一輪の花

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あの夜

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 ナハン無しで、この店に来るのは、何気に初めてだ。俺一人。懐には、銭と米。返事をもらってから2週間。その間、ニナから一通だけ催促の文が届いている。

「空いているのが、外の席しか無いのですが」
「それで、大丈夫です」

テラス席に案内されて、一人席につく。一杯の米酒と梅干しと季節の鱠と鯨肉を注文する。
「誰をご注文いたしますか?」
「それは、8番のニナさんで」
「はい、少々、お待ちください」
気持ちの良い春風が、頬を撫でる。切りそろえた髪が、風でフワッと靡いて、手ぐしで整える。


「8番のニナです」
料理よりも先にカフウの元へやって来たのは、前よりも少し髪が伸びたニナ。小走りで、二階の厨房からやって来たのだろう、ハーッと息を吐く。薄めの化粧に、映えるのは彼女の笑顔。
ガタッと席から立ち上がる。
「そんな、驚いたような顔をなさらないで。呼んだのは、カフウさんですよ」
「そ、そうでしたね。お久しぶりです」
やっぱり、あの手紙に書いたこと、思い返せばダメだろ。あんなことを書いてしまって、ニナさんを困らせてしまったに違いない。だって、ニナさんは仕事的に、絶対に良いお返事くれるじゃん。俺ってやつは。
「お久しぶりです。あの、お手紙」
「あー、あ、あれですね」
「あのお手紙、本当に嬉しかったです」
微かに顔を赤らめたニナ。
「良かった~」
肩の力がふっと抜け、背もたれに体重を預ける。
「もしも、あのお手紙が、私の気を引かせるための物なら、大成功ですよ」
「え?」
「あのお手紙を頂いてから、毎日のように、カフウさんのことを思い出してしまうのですから」
少し、椅子を近づけたニナ。
「ニナさんからのお返事もとても嬉しかったです。私が出した手紙は、ある意味で賭けのようなものでしたから」
「カフウさんからのお手紙にお返事をしない理由なんてありません」

料理と飲み物が運ばれる。
「お酒はいつもは飲まないのに」
「あれは、嫌な飲みを断るときの嘘です。でも、今日は二人だから、少し酔っても良いかなって」
「私は、嘘じゃなくて、本当に飲めないので、果実水で」
「じゃあ、乾杯しましょうか」
「はい」
軽く、杯を当ててから、少しずつ口に含む。

二人はそれから、この2ヶ月半の出来事を話す。
ニナの村の水道事業を外されてから、激務がを乗り越え、隣村の堤防事業に携わることになった話。
ナハンが王宮で採用された話。
その時に、ここに勤めるルクエに金製の首飾りをあげていたこと。

話が盛り上がり、追加での注文を待っている間に、2ヶ月半前の夜のことを聞いた。

「ニナさん、2ヶ月半前の夜、ほら、雨が酷かった日、あの時、何かありましたか?トンさんと」
俺の聞き方下手くそだな。
「あの夜ですか…」
「何もなかったら、それで良いんですけど」
ニナは頭を横に振り、明らかに顔が曇った。
「聞いても構いませんか?」
「はい。あの夜、トンさんが押し掛けてきて、執拗に途中上がりに推薦されるためには金がいると言うので、私は、そもそも推薦を出すことができるのは王宮で勤めている人からだけだと言い、渡す金はないとハッキリ伝えたんです。そうしたら、それはカフウから聞いたのかと詰め寄られたので、そうだ と言ったら、それは違うと言われて、向こうは酔っていましたし、店の売り上げを入れている箱を探し始めたんです」
「それが、見つかったんですか?」
「いえ、絶対に見つからないところに置いているのでそれはなかったのですが、金がないのなら、それ相応の対価を出せと言われて、推薦も出せないのに、意味がわからないと言ったところ、推薦は俺から出せると言い張り、だから金かそれ相応の対価がいると、その堂々巡りでした。で、ついに、怒り初めて、色々な物を私に投げつけてきて、私は店の隅に逃げ隠れたんですけど、見つかって、それからは」
ニナの手はギュット固く握られて小刻みに震えている。
「無理しなくても…」
「いえ、一人の心では耐えられそうに無いので話したいんです!いいですか?」
「…分かりました」
俺があの時、もっと早くに駆けつけることができていれば。
「それで、見つかってから、その時は、いつもの貫頭衣を着ていたんですけど、裾から手を入れられて。でも、ちょうど、その時に外から、すごい勢いで誰かが扉を叩いて、扉がガタガタ揺れていたので、さすがにまずいと思ったのか、トンは、厨房の方の裏口から出ていきました」
想像を絶するようなニナの体験に吐き気を催す。本当に、絶対に、俺は無理をしてでも、ニナの近くに居なければならなかった。
「すまない」
「なんで、カフウさんが謝るんですか?」
「あの夜、俺はニナさんとトンが二人きりになる状況を避けるために、同席しようとしていたんだが、仕事道具が汚れたことで、支部に戻っていたから」
「そんなの、仕方がないですよ。私こそ、自分の身は自分で守らないと じゃないですか」
「それは違うと思います。相手は、大人の男性、その状況で自分の身を守るなんて。俺です、俺が、もっともっと、深刻に考えていれば」
「カフウさんは何も悪くないです、何にも、少しも悪くない。むしろ、話を聞いてくださりありがとうございます」
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