秀才くんの憂鬱

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イチナとイリナ です。

幻術林 です。

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 濃い霧が発生していて、視界がかなり制約される。冬の朝ではよくあることなのだが、この日は一段と霧が濃くて、数メートル先も見えない。白馬の瑠璃がぼんやりと浮かび上がって、神秘的な影をつける。

「冷た!」
声をあげて、足を止めたサワ。
「どうした?」
サワが見上げる方を見ると、木の幹から、伸びていく枝にできた氷柱。どうやら、溶けかかった氷柱から落ちてきた水滴の真下にサワがいたらしい。
「なんか、こうやって氷柱のついた木を見てるとさ、お化けに見えてこない?」
サワがユウの方を振り向く。
「そうかもな」
残念ながら、ユウにはあまり共感できなかった。どちらかというならば、刹那的な物を閉じ込めた美しい挿絵のような景色に思える。まあ、サワの発想は子供っぽくて可愛いけど。
「絶対、思ってないでしょ。幼稚な発想とか、内心、馬鹿にしてない?」
「してないよ」
ブンブンと頭を振って否定する。
「さ、こんなところで、道草を食っている場合ではありませんよ」
「行くよー、二人とも」
瑠璃と翡翠のジャクジャクと枯れ葉と枯れ枝を踏む音が交互に冷たい空気に木霊する。置いていかれそうなことに気が付いて、サワと数歩、駆け出した。


道なき道というか、林の中に続く整備の入っていないであろう、道らしきものを歩き続ける。どれくらい経っただろう、少なくとも2時間は過ぎたはずだ。
「しかし、なかなか霧が晴れないな」
「あぁ、そうだな。気温は上がってきているから、もうじき晴れても良いはずなんだけど」
シキにそう言われて、薄くならない霧に疑問を持ちつつ、ユウは地面に目を落とした。小さな水溜まりに氷が張って、その氷に歪んで写るのはユウとその頭上の氷柱。
「ん?」
「なんだ?」
「僕ら、さっきもここを通った」
「何を言ってる、さっきっていつだ?」
「サワが氷柱見つけたときに通ったところと一緒だ」
「そんな、ユウくんの見間違いじゃない?」
「そんなはずないよ、だって、氷柱がついている木はこの一本しかなかった」
「ってことは、私たち、遭難?」
サワは辺りをキョロキョロ見る。
「まさか…」
ヘラッと笑ったシキ。
「霧が晴れるまで、ここで待機する」
真剣なユウの声。
「でも、動いて霧の薄い方にいけば」
「どこへ行けば霧が薄いか分からないうちに動くのは危険だよ。シキ」
小さい子に言い聞かせるように言ったサワ。



 強い風が吹いて、服の広がった袖がバタバタと音を立てて、ピューっと甲高い笛の音のような音が耳を刺す。辺りの枯れ葉が舞い上がって、思わず目をつぶった。
ユウはゆっくりと目を開ける。
「さっきの風…」
視界に飛び込んで来た信じられない光景に、息を飲んだ。
「なんで、王宮?」
辺りを見回しても、やっぱり王宮で、イチナもシキもいない。

何だよ、これ…



サワは乱れた前髪を整えてから、目を開ける。
「え…」
サワの目前に広がるのは、自宅までの一本道。そして、道の先には、死んだはずのお母さんと、笑顔で手を振るお父さん。
「サワ、こっちおいでー、もう、ご飯できてるよ」
お母さんの声に体が引き寄せられる。視界が涙で滲んで境界線を曖昧にしていく。




 シキの視界に飛び込んで来たのは、鍛冶屋の煙突。カンカンと鉄を叩く音と、その響く音の中で、木刀を振り、稽古に励む影。影の足を目で追うと、父の足に繋がっていた。
「父上…」
「ん?どうした?シェキナ」
何年ぶりだろう、私の捨てたはずの本名。それを呼ぶのは、父上…
夢ならば、この夢のままでいたいと願いたくなるようだ。



イチナは、左目、右目の順番に目を開ける。
なんだったの?あの風は
霧が少し晴れかかる。
クルッと周りを見て、異常さに気がついた。
「サワちゃん!シキ!ユウくん!」
岩にへばるようにして、深い眠りにある三人。死体みたいに、動かなくなっている。一体、何が?イチナはサワを揺する。
「起きて!」
サワは一向に起きる兆しを見せない。サワの閉じた目の眼尻から涙が滲んでいる。イチナは、サワを呼び掛けるがやっぱり、起きてはくれない。
パキッと後方で枝が折れる音がして、弓矢を持ってバッと振り返る。急速に心拍数は上昇していく。目を見開き、辺りをよく見る。しかし、再び濃くなり始めた霧が視界を遮る。

霧の奥、木の間にゆるりと浮かび上がる人影らしきもの。イチナは息を殺す。
影は徐々に近寄ってくる。イチナは指に矢を挟み、弓を構える。
「だ、誰ですか?」
影はもっと近づいて、霧の中でも朧気にだが顔が分かるくらいの距離になる。
イチナは、はっとして、膝から崩れる。
見覚えのある顔だ。目元を布で覆っているのは、光の刺激に目が弱いから。色白の肌に、赤くなった鼻先。細い杖で道に転がる障害物を見つける。やたらと、歌がうまくて、笑うと口元にえくぼ。
パタンと弓矢を気付けば落としていた。
「…イリナ…」
イチナはずっと離ればなれだった妹のイリナに駆け寄ると、イリナにハグをする。36度と少しの熱を帯びたイリナの体は、暖かくて、イリナのにおいが鼻をくすぐった。イリナは、イチナからのハグをただ棒立ちで受ける。
「ずっと、会いたかった…」
息をするようにそう言葉を漏らした。
目を瞑って、ただ再会の感動に心を浸す。

「イリナ」
イリナは声がした方を向いて、イチナの腕をほどいて行ってしまう。イチナは、イリナが向かった方向にいる人を見る。
ゾクッと背筋に冷たい水が通って、軽い頭痛がする。動物の毛皮を被り腰には刀。そして、人相書にあった目の下のほくろと、左頬の火傷。前に遭遇したときは、顔の下半分を隠していたから、素顔を見るのはこれが初めてだ。前は、もっと中性的な風格だったのに、今、目の前にいるのは、男性。いや、今、イトスギの格好などどうでも良い。

なんで、イトスギと一緒にいるの?

「確か、名をイチナと言ったか?」
イチナは小さく頷く。
「そうか、ならば話は早い」
「イリナを返してほしいです。彼女は私の妹だから」
「あぁ、そんなことは知っているさ。今、イリナにある記憶の全ては私と共にここまで旅をしたことだけだ」
「それは、どういう」
イチナはじりじりと下がって、弓矢に手を伸ばす。
「お前が姉であったことの記憶はない、と明言をした方がよかったか?」
大きく心臓が脈打つ。
「誰が、そんなことを信じるのですか?」
「信じなくても良い。でも、それは事実から目を背けているだけに過ぎない」
イチナは、弓矢を拾い上げて、脚を開いて、矢じりの先にイトスギの心臓をとらえる。イトスギは、手をあげて攻撃の意思がないことを示すが、イチナは決して構えを崩さない。
「取引だ。お前は、イリナが欲しい。私は、ある3つのものが欲しい」
「ある3つのもの?」
もしも、それでイリナがイトスギから離れて私の元に戻ってくるなら、何だってやる覚悟だ。
「まず、1つ、あの白い馬だ、いいか2頭ともだ。では、2つめ、ユウ王子が持つ刀だ。最後、3つめは、お前の構える弓矢だ」
そうか、私たちの足となり荷物を運んでいる馬を奪えば、私たちの旅は遅くなる。そうなれば、先にヤマタノオロチにたどり着けるという算段。それから、攻撃されないために武器を取り上げるということか。サワちゃんの武器を取り上げないのは、絶対的に勝てる自信があるんだ。イトスギは三人を相手にするなかでも、サワちゃんには致命傷を負わせたから。

「私は約束は守るたちだ。明朝、お前に会いに行く。お前は一人になれる場所で、取引に必要な物を持ってくる。そうすれば、晴れて姉妹二人になれる。馬2頭と何個か武器を持ってくるだけ簡単な取引じゃないか」
イトスギは武器を下げろとジェスチャーするが、そんなの信頼できっこない。
狐みたいな笑顔を付け足したイトスギ。ゾワッとして、イチナは顔をしかめた。
「あぁ、そうだ、この銅鏡」
イリナがお腹の前で大切そうに両手で持つ、直径およそ20センチのつるつるの銅鏡。イチナはそれに目をやる。
「この銅鏡が今、この林を支配している。故に、あとの三人は鏡に写る、最も望むものが夢に出ている頃だろう。どんな、屈強な男でも、どれだけ修行を積んだ巫女でもまず覚めることはない」
「それって…」
「夢を選ぶか、現実を選ぶか、真実を映し出す鏡というのは時に残酷なものだな」
どういうこと?
頭に大きなはてなが浮かぶ。
そう言い残すと、イトスギはイリナにイリナの胸元に下がる翡翠の勾玉を指で弾くように指示を出した。
直感的に逃げられると思って、矢を放つ。バリーンと矢の羽がある方が揺れて、矢じりは木の幹の中央部にめり込んでいる。鳥がバタバタと一斉に空高く舞い上がる。ただ、イトスギをとらえることはできなかった。イチナはどんな気持ちになったらそれが自分の感情として正解しているのか分からない。グッと歯を食い縛る。
イリナが視界に飛び込んだ一瞬で、どんな理想論も捨ててしまうほどに心を揺さぶられるのは、きっと、それだけ、私にとってイリナが大切なんだ。もう、これ以上、兄弟が離れてしまうのは嫌なんだ。


 イチナは、ユウの元へ歩く。ユウは、静かに寝息をたてて、無防備だった。目に入ったのは、ユウの腰にささる刀。



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