秀才くんの憂鬱

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イチナとイリナ です。

取り引き です。

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 霧が薄くなってくるのと同時に、ユウとサワも目を覚ます。
 瑠璃と翡翠に乗ったまま川の側までやって来た。森の中心からは離れて、少し視界が開けてきたところだ。
「やれやれ、やっと起きましたか」
安堵からか顔がほぐれたシキ。
「なんか、やたらと本物っぽい夢を見ていた気がする」
ユウはグーッと目頭を左手でおさえ、右手を突き上げて伸びをする。
「あ、私も」
「そうなんだ…」
サワちゃんは今、笑っている。寝ながらは泣いていたというのに。一体、どんな夢を見たんだろう。

「イチナ、言わなくて良いのか?」
「言わなくて良いって何を?」
大丈夫、二人なら、きっと…
イチナは、ユウとサワに二人が寝ていた間の出来事を話す。
「だから、イリナをイトスギから取り返すために、力を借りたいの」

サワはイチナの肩をポンと叩いた。
「貸すに決まってるじゃん!イリナちゃんが、イチナちゃんのところに帰ってきて欲しいし、イトスギ、あいつにはデカイ借りがあるから」
サワの腹部には未だ痛々しい傷跡がのこっっている。サワはと白い歯を見せて笑う。
「行こう!」
私は、独りじゃない。背中を預けて良いと思える仲間がいる。




 イトスギとの取り引に応じるような格好で、イチナ一人で夜明けを待つ。僅かに白みだした東の空。二頭の馬の手綱をガッチリと掴む。背中に林の暗闇。眼前には見晴らしが良い草原。ただ、冬の寒さから草はない。フーッと細く息を吐いて心を落ち着かせる。風が吹いて、葉を落とした枝が揺れて音をたてる。嫌な音だ。でも、大丈夫。木の影に潜み気配を消している3人。すぐに突撃可能な体制でイチナを包囲する。賛が急遽仕立てた落ち葉っぱがくっついた擬態服。完璧だ。こう、暗い時間であれば、場所を知っていても見つけることは不可能。不意を突かれれば、いくらイトスギと言えども3人とイチナを相手に戦うのは無理だろう。だが、一瞬の油断は一生の後悔。冷たい空気の僅かな震えにさえ、敏感に感じとる。
「大丈夫…」
大丈夫なわけないが、そう自分に言い聞かす。


 イチナの目の前に音もなく、瞬きの間に瞬間的に現れたイトスギとイリナ。砂も土も、二人が現れことに気がつかないのか、足跡はない。
「イリナ!」
木の影に隠れているユウ。次、一歩でもイチナにイトスギが寄れば問答無用で飛び出す。イチナの背中の奥に影っぽい男と隣の小柄な女子が見える。

「正面に一人、中肉中背の男。左ななめ後ろに一人、女。恐らく、やや細身。右ななめ後ろ、少し中央寄りに、正面よりもやや大きい男」

ユウは何を話したか聞き耳をたてるがわからない。まさか、完璧に位置を把握されたともしらない。

「ふむ、助かるよ、イリナ」

「イリナ、イトスギに何を言ったの?」
「やめてください、彼女に無断で話しかけないでください。それに、あなた、嘘をつきましたね。私がいつ仲間を護衛につけることを認めましたか?まるで、私が、武力を交渉に持ち込もうとしているみたいじゃないですか」
「…武力を持ち出さなければ、何も問題はないでしょう?まず、イリナを引き渡してください」
「あぁあ、私は命令する女が大嫌いだ、いいか、主導権は私にある。さっさと、馬と武器を渡せ」
イチナは強く強く拳を握りしめる。
「いやです!イリナが先です」
イトスギは、目を瞑り黙って考える。
「分かった。ならば、こっちに来い。お前にしっかり引き渡すから」
じわじわとイトスギに歩み寄るイチナ。
頼む、絶対に何もしないでくれ! シキはそう願った。

 「イリナ…」
イチナはイトスギの側に立つイリナの手を握った。昨日と違って、ごろんと大きな勾玉は持っていない。イリナは目をあわそうとも、手を握りかえそうともしない。
「じゃあ、約束のものを貰おうじゃないか」
イトスギから栗のような甘く香ばしい匂いがした。女性に人気の香りで、宮中でも一時期流行っていた。微かな違和感。だって、イトスギは、霖練の情報部隊からの情報では男性だったから、女ものの香りを身に纏うって変じゃない?前に、サワが傷つけられたときのイトスギは性別不明みたいな出で立ちだったのに、今回はハッキリと男性と認識できるような風貌。例え、服装や装備が違っているからって、そんな簡単に認識を変えられる?ダメだ、一つ気になると他も気になり出してしまう。
「早くしろ!」
イトスギに睨み付けられて、イチナはイリナの手を引いて、瑠璃と翡翠が待つ方へと走る。瑠璃と翡翠はさっきイチナが立っていた所にいる。

「伏せて!」
イリナがグッと下にイチナの手を引っ張った。
「え?」
ビュンと音を立てて飛んできたのは、棒手裏剣のような、細く尖っている投てき武器。それに、瑠璃と翡翠が驚いて逃げ出してしまう。
「待って!」
二頭の白馬はまだ日が差し込む前の、暗い林に逃げ込む。逃げ込んだ先にいるのはユウ。
 ユウは咄嗟に瑠璃の手綱を掴んで、逃げようとする方向と反対側にグッと引っ張る。当然、それには大きな音を伴った。瑠璃は前足を上げて、馬特有の高い声で鳴く。

馬の鳴き声と、バサバサとする音はイチナにだって聞こえるが、それが果たして瑠璃なのか翡翠なのか分からない。後方で起きる出来事を見ることは出来ない。

「右の馬(翡翠)は逃げた」
「え…」
「左の馬(瑠璃)は中肉中背の男に捕まった」
イリナがボソボソと話し始めた。見えていないはずなのにどうしてそこまで正確な情報が分かるのか。イリナは昔からそうだ。心音や呼吸の特徴からそれが何であるか、どんな性質か、割り出すことができる。
いわゆる、天才。だから、見えているかのように、いや、見えている以上に状況を判断し分析する能力がある。それに、一度、耳にした音は忘れない。


「なんで分かるの…?」
全ての情報を目でみていたサワにとって、魔法を見せられているような感覚になる。木の影に身を潜め、気配を消すのに徹底するべきなのに、サワは、ポロッと声を出してしまった。
イリナは顔をサワのいる方向へと向けた。

イチナはずっと気がそぞろで、なかなか自分の方に顔を向けてくれないイリナの手を握る。
「イリナ、どうしたの?」
「どうして、イトスギ様とのお約束を破られて、仲間と一緒に来たのですか?」
イトスギ様か…
「一緒に来ていない、私は、独りだ」
「違う!嘘をつくな、お前」
イリナは急に態度を変えてイチナの手を払った。払われた手に視線をやったイチナ。
(この子は、本当に私のことを忘れてしまったんだ。)手の痛みよりも、胸がズキッと痛んだ。でも、きっと、いつか、今じゃなくても、思い出してくれるはずだから。イチナはイリナの肩に手を置いて笑いかける。イリナがようやく私の方を見てくれた。
「…イリナ、私は、イリナを取り戻す為にならどんな犠牲も厭わない覚悟でここに立っているってこと知ってほしい」
肩から手を離して、視線をイリナからイトスギへ変える。

 イチナは背中にある弓矢と刀を、イトスギに渡しにいく。一歩一歩が鉛みたいに重たくて、膝に力は入らず、グッと歯を食い縛る。でも、イトスギに歩み寄る。

「馬はあとで捕まえて必ず渡す」
「まあ、私が逃がしたようなものだからな、仕方あるまい」
手のひらを伸ばしてきたイトスギ。イチナはイトスギの掌の上に弓矢とユウの刀。
ニヤッと薄気味の悪い笑みを浮かべたイトスギ。
イチナは、イトスギに両手を上げて背を向けたまま、元にいた場所へと向かう。もう、これで、私の役目は終わった。



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