25 / 74
26.夜の薔薇園①
しおりを挟む
その晩は無性に喉が渇いて、当直の侍女を呼ぼうとベルを鳴らす夢を見た。もちろん、わたしの周りにいるのはさなぎのように布団にくるまったメイド仲間だけ。待っていても喉は潤わないので、同僚たちを踏まないように部屋を出る。何があるか分からないので、眼鏡は掛けていくことにした。
外へ出ると、月の光が庭を照らし出していた。夏の澄んだ空気に芳香を放つ、薔薇の花たち。わたしの庭の花たちはどうしているだろう。目的の水樽にコップを突っ込んで、のどを潤した後だった。
「グラシアン様?」
本館に向かう中庭のベンチに、いるはずのない人を見つけて声をあげる。いつものように入浴と晩酌の用意までして退室したはずなのに。どうして、あの男はシャツとトラウザーズ姿で帯剣し、ベンチで腕を組んでうたた寝しているのか? 訳が分からなかった。
「グラシアン様、起きてください。風邪を引きますよ」
何度か呼び掛けて揺すったけれど、それでも起きる気配はない。騎士がこんなに無防備で大丈夫なのだろうか? わたしはあきらめて彼の隣に座った。夜着に上着を羽織った態だが、寒くはない。
月明かりに照らされた横顔は、彫像のように美しかった。専属になってから、猫でもないのにわたしを膝のうえに乗せたがる、頭のおかしい男だ。あろうことか、浜辺ではわたしのファーストキスを奪った。
昨日のことを振り返るたび、わたしは無性に腹が立ってくる。グラシアンはその行為に至った説明もせず、アンバーが巣に帰るのと同時に帰邸した。わたしは、キスされて固まるしかなかったのに。それ以来グラシアンの顔を直視できずにいるわたしも悪いが、キスしたことなどなかったかのように平然とふるまう相手の方がさらに悪い。完全にわたしを揶揄って遊んでいるようにしか思えない。
――たまにはぎゃふんと言わせたい!
グラシアンはわたしより九歳年上で人生経験も豊富だ。だからといって、やられっぱなしは悔しい。なにより、わたしは王太女なのだ。
そうだ、とわたしはベンチに手を着いて、秀麗な顔を覗きこんだ。
滑らかで薄い唇。宮廷では嘘くさい笑みしか浮かべていなかったけれど、カニア侯爵邸では素の表情も見せる。わたしが口づけしたら、グラシアンはびっくりして本当の姿をさらすだろうか。少しはわたしの溜飲も下がるだろうか?
心臓が高鳴るのを感じながら、触れるか触れないか分からないぐらいに唇を合わせる。他人のさらっとした皮膚を唇に感じる不思議な感触。一瞬のことなのに、とても長く感じた。思いがけず訪れた夢のような甘美な時間に、わたしは目を閉じる。
と、そのときわたしの肩を、ガツと抱き寄せるものがいた。
「あっ」
「いけない人ですね。わたしの唇を盗むなんて」
気が付けば、グラシアンの膝のうえで横抱きにされている。彼はとても寝起きとは思えない、普段通りの爽やかな笑顔を浮かべていた。
「起きていたんですか? いつから?」
「最初からです。あなたが厨房から出てきたときから寝たふりをしました」
「どうして!? そもそも、何故こんなところにいるんですか!?」
声が大きくなるのは恥ずかしかったから。恥ずかしい、恥ずかしい。自分から、キスしたのを知られてしまった。ふしだらな女と思われる。
「キャロルこそ、どうして厨房に?」
「わたしはただ、喉が渇いて……っ、はっ、放してください」
今更だが、庭園とはいえ誰かが通らないとも限らない。グラシアンの筋肉質な胸板は熱くて、つい馬上で抱きしめられたことを思い出してしまった。わたしは逃れようと、唯一自由になる腰をもぞもぞとさせる。グラシアンは無造作に前髪をかきあげ、忌々しげに言った。
「あー、くそっ。ぶち犯してぇ」
*
「……はっ?」
わたしの頭は真っ白になった。『くそ』や『ぶち』など、品行方正で通っているグラシアンの言葉とは思えない。しかも、『犯す』? 女を犯す、の意味の?
――とんでもない、蛮族の行いよ!
完全にわたしの知っているグラシアンではなかった。
「だ、誰なの!?」
メイドの言葉遣いも忘れて必死に相手の胸をつっぱねるが、グラシアンもどきはいとも簡単にわたしの両手首をまとめる。特に強く掴まれているわけでもないのに、振り払うことができなかった。
彼は、吐息が混じりそうなほど近くに顔を寄せてくる。理想的なパーツと配置が美しい。こんなときなのに、わたしはまじまじと惹き付けられてしまった。
「面白いことを言う。俺以外にグラシアンという男がいるのか?」
「は、離してっ! グラシアンきょ……っ、あっ」
口調すら変えた彼は空いている右手で、わたしの顎をとらえる。ルビーの瞳が月光の下、妖しく光っていた。決して別人になったわけではない。ただ、彼を包む空気や雰囲気が一瞬にしてがらりと変わったのだ。
――これが隠していた本性!?
外へ出ると、月の光が庭を照らし出していた。夏の澄んだ空気に芳香を放つ、薔薇の花たち。わたしの庭の花たちはどうしているだろう。目的の水樽にコップを突っ込んで、のどを潤した後だった。
「グラシアン様?」
本館に向かう中庭のベンチに、いるはずのない人を見つけて声をあげる。いつものように入浴と晩酌の用意までして退室したはずなのに。どうして、あの男はシャツとトラウザーズ姿で帯剣し、ベンチで腕を組んでうたた寝しているのか? 訳が分からなかった。
「グラシアン様、起きてください。風邪を引きますよ」
何度か呼び掛けて揺すったけれど、それでも起きる気配はない。騎士がこんなに無防備で大丈夫なのだろうか? わたしはあきらめて彼の隣に座った。夜着に上着を羽織った態だが、寒くはない。
月明かりに照らされた横顔は、彫像のように美しかった。専属になってから、猫でもないのにわたしを膝のうえに乗せたがる、頭のおかしい男だ。あろうことか、浜辺ではわたしのファーストキスを奪った。
昨日のことを振り返るたび、わたしは無性に腹が立ってくる。グラシアンはその行為に至った説明もせず、アンバーが巣に帰るのと同時に帰邸した。わたしは、キスされて固まるしかなかったのに。それ以来グラシアンの顔を直視できずにいるわたしも悪いが、キスしたことなどなかったかのように平然とふるまう相手の方がさらに悪い。完全にわたしを揶揄って遊んでいるようにしか思えない。
――たまにはぎゃふんと言わせたい!
グラシアンはわたしより九歳年上で人生経験も豊富だ。だからといって、やられっぱなしは悔しい。なにより、わたしは王太女なのだ。
そうだ、とわたしはベンチに手を着いて、秀麗な顔を覗きこんだ。
滑らかで薄い唇。宮廷では嘘くさい笑みしか浮かべていなかったけれど、カニア侯爵邸では素の表情も見せる。わたしが口づけしたら、グラシアンはびっくりして本当の姿をさらすだろうか。少しはわたしの溜飲も下がるだろうか?
心臓が高鳴るのを感じながら、触れるか触れないか分からないぐらいに唇を合わせる。他人のさらっとした皮膚を唇に感じる不思議な感触。一瞬のことなのに、とても長く感じた。思いがけず訪れた夢のような甘美な時間に、わたしは目を閉じる。
と、そのときわたしの肩を、ガツと抱き寄せるものがいた。
「あっ」
「いけない人ですね。わたしの唇を盗むなんて」
気が付けば、グラシアンの膝のうえで横抱きにされている。彼はとても寝起きとは思えない、普段通りの爽やかな笑顔を浮かべていた。
「起きていたんですか? いつから?」
「最初からです。あなたが厨房から出てきたときから寝たふりをしました」
「どうして!? そもそも、何故こんなところにいるんですか!?」
声が大きくなるのは恥ずかしかったから。恥ずかしい、恥ずかしい。自分から、キスしたのを知られてしまった。ふしだらな女と思われる。
「キャロルこそ、どうして厨房に?」
「わたしはただ、喉が渇いて……っ、はっ、放してください」
今更だが、庭園とはいえ誰かが通らないとも限らない。グラシアンの筋肉質な胸板は熱くて、つい馬上で抱きしめられたことを思い出してしまった。わたしは逃れようと、唯一自由になる腰をもぞもぞとさせる。グラシアンは無造作に前髪をかきあげ、忌々しげに言った。
「あー、くそっ。ぶち犯してぇ」
*
「……はっ?」
わたしの頭は真っ白になった。『くそ』や『ぶち』など、品行方正で通っているグラシアンの言葉とは思えない。しかも、『犯す』? 女を犯す、の意味の?
――とんでもない、蛮族の行いよ!
完全にわたしの知っているグラシアンではなかった。
「だ、誰なの!?」
メイドの言葉遣いも忘れて必死に相手の胸をつっぱねるが、グラシアンもどきはいとも簡単にわたしの両手首をまとめる。特に強く掴まれているわけでもないのに、振り払うことができなかった。
彼は、吐息が混じりそうなほど近くに顔を寄せてくる。理想的なパーツと配置が美しい。こんなときなのに、わたしはまじまじと惹き付けられてしまった。
「面白いことを言う。俺以外にグラシアンという男がいるのか?」
「は、離してっ! グラシアンきょ……っ、あっ」
口調すら変えた彼は空いている右手で、わたしの顎をとらえる。ルビーの瞳が月光の下、妖しく光っていた。決して別人になったわけではない。ただ、彼を包む空気や雰囲気が一瞬にしてがらりと変わったのだ。
――これが隠していた本性!?
2
あなたにおすすめの小説
「俺、殿下は女だと思うんだ」
夏八木アオ
恋愛
近衛騎士チャールズは、ある日自分の仕える王太子殿下の秘密に気付いてしまう。一人で抱えきれない秘密をルームメイトに話してしまい……から始まる、惚れっぽくてちょっとアホなヒーローx男装ヒロインのゆるふわ設定のラブストーリーです。
【R18】熱い夜の相手は王太子!? ~婚約者だと告げられましたが、記憶がございません~
世界のボボブラ汁(エロル)
恋愛
激しい夜を過ごしたあと、私は気づいてしまった。
──え……この方、誰?
相手は王太子で、しかも私の婚約者だという。
けれど私は、自分の名前すら思い出せない。
訳も分からず散った純潔、家族や自分の姿への違和感──混乱する私に追い打ちをかけるように、親友(?)が告げた。
「あなた、わたくしのお兄様と恋人同士だったのよ」
……え、私、恋人がいたのに王太子とベッドを共に!?
しかも王太子も恋人も、社交界を騒がすモテ男子。
もしかして、そのせいで私は命を狙われている?
公爵令嬢ベアトリス(?)が記憶を取り戻した先に待つのは── 愛か、陰謀か、それとも破滅か。
全米がハラハラする宮廷恋愛ストーリー……になっていてほしいですね!
※本作品はR18表現があります、ご注意ください。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
私は5歳で4人の許嫁になりました【完結】
Lynx🐈⬛
恋愛
ナターシャは公爵家の令嬢として産まれ、5歳の誕生日に、顔も名前も知らない、爵位も不明な男の許嫁にさせられた。
それからというものの、公爵令嬢として恥ずかしくないように育てられる。
14歳になった頃、お行儀見習いと称し、王宮に上がる事になったナターシャは、そこで4人の皇子と出会う。
皇太子リュカリオン【リュカ】、第二皇子トーマス、第三皇子タイタス、第四皇子コリン。
この4人の誰かと結婚をする事になったナターシャは誰と結婚するのか………。
※Hシーンは終盤しかありません。
※この話は4部作で予定しています。
【私が欲しいのはこの皇子】
【誰が叔父様の側室になんてなるもんか!】
【放浪の花嫁】
本編は99話迄です。
番外編1話アリ。
※全ての話を公開後、【私を奪いに来るんじゃない!】を一気公開する予定です。
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
毎日19時に更新予定です。
借金まみれで高級娼館で働くことになった子爵令嬢、密かに好きだった幼馴染に買われる
しおの
恋愛
乙女ゲームの世界に転生した主人公。しかしゲームにはほぼ登場しないモブだった。
いつの間にか父がこさえた借金を返すため、高級娼館で働くことに……
しかしそこに現れたのは幼馴染で……?
【短編】淫紋を付けられたただのモブです~なぜか魔王に溺愛されて~
双真満月
恋愛
不憫なメイドと、彼女を溺愛する魔王の話(短編)。
なんちゃってファンタジー、タイトルに反してシリアスです。
※小説家になろうでも掲載中。
※一万文字ちょっとの短編、メイド視点と魔王視点両方あり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる