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214・鉄梯子
しおりを挟む「グガッ グゥラァアア」
必死の挑発の甲斐あってか、魔獣人の興味は完全にヘイズ達から外れた。魔獣人は身体の向きを変え、正面にしっかりシェリーを見据えると、再び暴風を纏って周囲に水飛沫を飛ばし始めた。大量の水飛沫を上げるのは先程ヘイズに向かって行った時と同じ行動である。
「ーーこっちに来るっ!」
そうシェリーが思った途端、湖から物凄い突風が吹き付けた。息を吐き出せぬ程の突風に思わず細めた視界の先で、荒々しくも向かって来る魔獣人と、その背後で川へと流れ出すイカダが見えた。
(兄貴達は……ちゃんと乗ってる。ーー良かった)
徐々に遠ざかるヘイズの声を聞きながら、シェリーはホッと胸を撫で下ろす。
一先ず魔獣人をイカダから引き離す事には成功したーーが、相手は水の上を走る様な奴なのだ。何かの拍子で逃げたイカダへと向かう可能性だってある、まだまだ安心は出来ない。
(もっと、もっと、離さなきゃ)
そう考えたシェリーは、更にイカダと魔獣人の距離を離すべく、川とは反対側ーー魔獣人の「巣穴」がある滝を目掛けて走り出した。
「そう簡単に捕まってやらないよ!」
さっきまで萎縮していた身体が吹っ切れた様に軽い。それもその筈、シェリーは日常的に衛兵や大人達に追いかけられては、壁を登り、屋根を飛び越え、狭い道を駆け回るカーポレギアの一員だ。逃走劇は一八番である。
その中でも、仲間を逃す為に敵対心を集め、相手との距離を適度に保ちながら逃げる「殿」という役目。
逃走劇において花形とも言えるそれは、最早一つの「技術」と言っても良いだろう。
カーポレギアの幼年組と年小組を束ねるシェリーはその「技術」の使い手であり、背を向けて逃げる獲物を追い掛けずにはいられないという獣の性が抜けずに真っ直ぐ向かって来る魔獣人は、正に格好の餌食であった。
「ほらほら、こっちだぞ!」
風を使って水上を走る魔獣人の速度は圧倒的ではあるが、それはあくまで水上での話。水を滑る様に走る魔獣人と、しっかりと足爪で大地を蹴り陸を駆けるシェリーでは断然シェリーの方が速い。
草を掻き分け、石を飛び越え、泥を後ろに飛ばしながらシェリーは駆ける。
目指す先にある滝は、流水が長い時を経て岩壁を削り取り、滝の両端が前面に迫り出すV字の様な構造を形成していた。
その迫り出した岩壁の内側には、岩壁に段々と鉄棒を突き刺す事で出来た、アスレチック遊具みたいな階段がある。これがヘイズが滝裏にある魔獣人の巣穴へと潜入した時に使った階段であり、恐らく過去の聖職者達が作った物だ。
その粗末で不安定な階段を公園にある雲梯の上を得意げに歩く子供の様に、何ら危なげなく駆け上がったシェリーだったが、巣穴がある中腹まで来ると急に失速し、遂には崖上を見上げて立ち止まってしまった。
頂上に近付く程に手前に傾いた壁ーークライミング用語で言えばオーバーハングした岩壁には流石に設置出来なかったのか、階段は長い鉄梯子へと変わっていた。
鉄梯子と言っても真っ直ぐな支柱の有る梯子では無く、鎖で出来た縄梯子の様な物だ。硬い岩壁へしっかりと固定されているので、グラグラ揺れる心配は無いが、オーバーハングした頂上付近では、やや仰け反りながら登る事になりそうだ。
「…………チッ、梯子かよ」
大きめな自分の手を見つめてシェリーは舌打ちする。人族とは違う、しっかりと物を握る事が苦手な獣人の手では、垂直に伸びた梯子を掴み、登るのは難しい。
それでもシェリーは梯子に手を掛けると、グイっと腕に力を込めて一歩一歩慎重に登り始めた。
◇
細かな水の粒子が多く飛散する滝の側は、大量に発生した冷たい霧が立ち込めていて、シェリーの身体を包み込んで毛皮を湿らせた。そこに吹き付ける高所特有の強い風は、シェリーの体温を容赦なく奪っていく。
霧も濃く、見下ろした鉄梯子の始まりはもう霞んで見える。崖上もまた霧がかかって先が見えず、まるで無限に続く雲の中を登っているかの様な気分だ。
(兄貴達は無事逃げれたかな……)
ヘイズ達が乗ったイカダが川へ出てから10分は経っただろうか……いくら魔獣人でも追いつけぬ程に距離は稼げた筈だ。
魔獣人を引き離す「殿」の役目を無事終えたシェリーだったが、滝の方へと逃げたのは妙案があっての事では無く、責任に突き動かされての咄嗟の行動であった為、実はその後のプランが一切無い。
(これから、どうしよう……)
結局どう悩んだ所で逃げる事しか出来ないのではあるが、同じ陸を走るなら速度もスタミナも魔獣人が上だ、とても勝てそうに無い。
唯一逃げ切れるとすれば、魔獣人がこの滝を登ってこれない場合だ。迂回するにもかなりの時間が掛かり、シェリーが逃げ切れる可能性はグンと上がる。
「うわっ!?」
注意が散漫になったのか、ズルリと片足が滑り落ちた。慌てて梯子に縋り付いたシェリーは、眼下に広がる絶景に肝を冷やす。
彼方此方にゴツゴツとした岩が飛び出している岩壁だ、この高さから落ちれば一溜りも無い。運良く滝壺に落ちたとしても、絶え間なく落ちる水流が身体を湖底へと縛り付けるだろう。
更に言うならば、鉄梯子のすぐ右後方には滝水が叩く様に落ちていて、誤って腕でも伸ばそうものならば大量の水圧に殴られ遥か下まで叩き落とされるーー正に危険と隣り合わせな道である。
濡れた鎖は滑り易く、シェリーの爪も上手く引っ掛からない。せめて木製の梯子ならばとも思ったが、この湿気ではすぐに腐り落ちてしまうのだろう。
元々が聖職者達が自分達人族用に掛けた梯子である、獣人が登り易い様には作られてはいないのだ。
「グルォオン!」
そうこうしている内に足下から大きな唸り声が聞こえてきた。魔獣人《マレフィクス》が滝下へと到着したのだ。
「大丈夫……梯子は登ってこれない。大丈夫」
シェリーはそう祈る様に呟きながら、少しだけ登る速度を速めるのだった。
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