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221・雄叫び
しおりを挟む「ーーうおおぉぉおお!!」
突如、響き渡たる雄叫び。
反響に反響を重ね厚みを増したその野太い声は、まるで巨大な猛獣が獲物へ飛び掛かる直前に上げる哮りの様にも聞こえた。
「ーーグァガ!?」
驚いた魔獣人は悪戯を叱られた子供の様にビクリと肩を震わせ、シェリーへと伸ばした腕を慌てて引っ込める。そして声の主を探す様にキョロキョロと辺りを見回し始めた。
しかし風を止めた所為で付近は再び霧に覆われ始めており、彼方此方からの反響を重ねた声の出所はその方向すら分からない。
視界と聴覚に頼れぬならばと、魔獣人は出来るだけ多くの情報を得ようと鼻から大きく息を吸い込んだ。
犬系獣人程では無いが、人族よりは数十万倍は優れているといわれる魔獣人の嗅覚、その嗅覚が水気を含んだあらゆる匂いの中から一つの臭いに辿り着く。
…………微かに、あの男の匂いがする。
無理矢理自分を押さえ付け、肩骨を砕く原因となったーーあの男の匂いだ!
途端、魔獣人の頭の中からシェリーの存在が消えた。
尊厳、地位、財産、友人、恋人、家族、そして国ーー何かを守る為に自分よりも遥かな格上へと戦いを挑む事、それを美徳と捉えるのは人間の様な高度な知性を持った生物だけであろう。
力の差を感じた時、直ぐ逃げに徹するのは野生で長く生きる為の常識。その常識を覆してまで格上に立ち向かうのは、死ぬ程追い詰められた時か、子を取られた母親くらいのものである。
野生に生きて来た魔獣人も例に漏れず、相手が誰であるか分かった途端に逃げ出そうとしたのは至極当然の事であった。
何せつい先程、圧倒的な力の差を見せつけられたばかりの相手なのだから。
急に痛みが増してきた左肩を縮こませ、焦りながらも逃げ道を模索する。何方へ逃げようと下を見れば立ち込める霧の中に大きな影が不気味に蠢くのが見えた。
自分よりも遥かに大きい影、それが威嚇するように両手を振り上げているのだ!
そう、これは「ブロッケンの妖怪」であり、拡大され霧に映った只の影なのだが、そんな事とは露とも知らない魔獣人は大いに驚懼する事になる。
先程の相手はこれ程に大きかったのか! ーーと、
突然背後から押さえ付けられた所為で碌に相手を見る事が出来なかった魔獣人。恐怖によって想像力を増長させる知性が残っていたのが災いし、その影の大きさをそのまま受け入れてしまった。
これは、例えるならーー肝試しの最中に聞いた鳥の鳴き声を人の叫びと思い込んだ人が、その後に見るもの全てが心霊現象だと勝手に恐怖を感じてしまう様なものであり、恐怖心がパニックを引き起こす典型的な事案であるーー過度な恐怖は心を乱すのだ。
そして、自然界において身体の大きさと力は直結している。
熊は自分がいかに大きく強いかを示すかの様に木の高い場所へと爪痕を残し、雄犬は片足を上げ高い場所に小便を引っ掛ける。これらは全て周りへの牽制であり、力の誇示だ。
自分よりも大きく強い存在、それは野生に生きてきた魔獣人を脅かすには十分過ぎる程の効果をもたらした。
「マッスルルゥぅうう!!」
追撃する様に再び響く雄叫び!
影の両腕が魔獣人を掴まえようと大きく伸びてくる!
「ハァ、ハァガッ!?」
「う、うわぁ!!?」
焦りと恐怖から、魔獣人は掴んだ鉄梯子を一心不乱に駆け上がる!
反響する声、濃い霧、そして滅多に無い恐れの感情が魔獣人の判断を狂わせた。
過去の山男達と同じ様にブロッケンの妖怪に騙された魔獣人は、下に降りるのでは無く、なんと男が居る崖上へと向かって逃げ出したのだ。
鋭く大きな爪を大きく伸ばし、踏ざんに引っ掛かけては風を使って自分を押し上げる。ピリルの様に飛ぶ事は出来ないが、物凄い追い風を補助にして、シェリーの腹側を擦り抜ける様に鉄梯子を駆け上がって行った。
◇
まさか、こっちに向かって来るとは思ってなかった。
シェリーそっちのけで梯子を駆け上がって来る魔獣人を眺めながら、俺は少し困惑して首を傾げる。
(ブロッケン現象を使って魔獣人を追っ払う作戦だったんだけど……)
脱兎の如く逃げ出してくれた所までは良かったが、いかんせん影が映った場所が悪かった。もう少し上側に映れば間違い無く魔獣人は下へと逃げて行った筈なのに。
予想とは違う展開だが、向かって来るなら対応しなくてはならない。
俺は崖下から魔獣人が丁度飛び上がって来る場所に立ち塞がると、タイミングを見定めて大きく両手を打ち付けた。
パーーンッ!!
まるでバネ仕掛けの玩具みたいに崖下から飛び上がる魔獣人のその顔の真ん前で、前触れ無く激しく打ち鳴らされる二つの掌。
「ーーハガッァ!!?」
やっと安全な場所へと辿り着いたーーそんな安堵感を一瞬で蹴落とすかの様な所業に、魔獣人の思考は完全に停止する。
ーー「猫騙し」ーー
相撲の技の一つであるこの「猫騙し」。
本来は立ち上い始めに相手を怯ませ、戦局を有利に進める為の技である。しかし、心の隙間を狙ったこの容赦無い攻撃は、魔獣人を怯ませるどころか、その纏った風をも消し去った。
魔獣人の纏う風は常時効果では無い。オートでは無く、あくまで自分の意思で出している物である。
故に魔獣人が気絶、もしくは動揺した場合などは否応無しに解除されるのだ。
つまりーー、
「アッ……グガアァアアァァーーーー」
一瞬、硬直した様に宙に留まっていた魔獣人だったが、突然重力を思い出したのか、断末魔みたいな叫びを上げながら俺の目の前から再び崖下へと消えて行った。
「ーーあ、危ねぇっ!」
予想外だったのは、落ちて行く魔獣人を救おうとシェリーが手を伸ばした事だった。
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