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281・ドルフィンキック
しおりを挟む「そうだろうとも、そうだろうとも!」
川を舞う木の葉が小さな渦《うず》に飲み込まれるように、水底に向かってクルクルと沈んでいく男の様子を見たエレナは勝利を確信して両手を握る。
そもそもオルガとの水中戦で勝とうなど土台無理な話。こんな狭い場所でさえなければ勝負にもならない馬鹿げたものなのだ。
焦る必要など全く無かったのに「妙な老婆心が芽生ちまったよ」とエレナは苦笑する。
「久々に冷や汗かいたねぇ。しかしまぁ、よくビエルはこんな輩を抑えているもんだ」
このレベルの犯罪者が辺境のスタンダードだとは思いたくないが、第一王子の警護計画は見直した方が良いかもしれない。
特に男が使った阻害魔法は要注意だ。
エレナクラスの魔法士が阻害される魔法であるなら、ほぼ全ての魔法士に通用する。
こんなのが沢山居るとは思えないが、使い手が他にもいる可能性を考えた対策は必要だろう。
(厄介な魔法だけど、知っちまえばそれ程脅威じゃない。だけど其れなりの準備は必要だねぇ。そう考えると今ここで知れたのは大きいか……)
阻害魔法、その発動条件を朧げながら分かりかけているエレナの頭には、既に幾つかの対策が浮かんできている。だが、そのどれもが事前に準備と場所が必要な物である。
「それにイアマの犯罪者リストも確認しなきゃならないね。また変テコな魔法を使う奴が出てきちゃ目も当てられない」
これだから辺境はーー、とエレナは面倒臭そうに前髪をかき上げる。
総じて他国との境目に近い辺境には、その土地特有の文化や風習が生じると言う。
あらゆる情報の発信源である王都から離れてる事や、他国の影響を受けやすい立地の所為だと言われているが、魔法もまた然り。
独自の変化を遂げたオリジナル魔法が使われていたもしてもそう不思議は無い。
「此処へ来てやらなきゃいけない事が山積みだねぇ、私ゃ過労で倒れちまいそうだよ。警備計画の見直し案はロナルドに丸投げしてーー、おや? ちょっとアレはまずいね」
エレナが苦虫を潰したような顔で舌打ちする。
門の奥でオルガが男を潰しにかかっているのが見えたからだ。
「すっかり頭に血が昇ってるじゃないか! ーーオルガっ、殺すんじゃない、捕まえるんだよっ!」
調べれば余罪が出てきそうではあるが、現時点での男達の罪は死罪とは程遠い。それに凡その当たりがついているとはいえ、男には阻害魔法について聞きたい事が山ほどある。
多少の怪我は自業自得としても、半死半生の様な形で捕える事はエレナとしては望んではいなかった。
しかし、腹にしがみ付かれた事が余程頭にきているのか、オルガはエレナの声が聞こえていないかの様に振る舞い続ける。
「あぁもうっ、水魔法が使えないから助けてもやれ無いじゃないか! …………仕方ない」
意を決したエレナが門《ゲート》を解除しようとしたその時ーー。
「ーーなっ、なんだいっ!?」
壁とオルガの間を無理矢理擦り抜けた男が、一撃を背に受けながらも人とは思えぬ速度で泳ぎだしたのだ!
その速さはイルカの如く。水の抵抗を物ともしない全身を使った華麗なる泳法にエレナは目を見開いた。
「な、なんで人族《ヒューマン》が人魚《セイレーン》の泳ぎを知ってるんだい!?」
◇
(度肝抜かせてやる!)
俺への一撃を加えた後、そのまま潜水して行くオルガ。ここがチャンスと見た俺は、残る酸素の全てを使い人魚直伝ドルフィンキックで水面まで一気に駆け上る。
今まではバルボ回収の時間稼ぎの為に普通の泳ぎしか見せてないからな。こんな泳ぎが出来るだなんて向こうは予想すらしていないだろう。
(ーーとは言っても、流石に鯱並みのスピードは出せないからな。気付かれないウチにさっさと上がらせてもらうぜ!)
バタ足よりも遥かに洗練された力の移動は、水中での抵抗を微少に留める事で水の揺らぎを抑える。
つまりはバチャバチャとした荒々しい泳ぎでは無く、魚のように無音に近い泳ぎである筈なのだが、その微少な水の波動を感じ取れるのが鯱である。
ーーグォン!
バネ板のように太い尾鰭が弾け、水底に砂煙が上がる。凡そ水中とは思えぬ程の加速でオルガは水中を上昇、瞬く間に俺に迫るーーが、この距離なら俺の方が速い!
残りの距離を全力で泳ぎきった俺は、その勢いのまま水面から飛び上がって屋根の縁へとしがみ付く。
「おわっーーって兄さんかいっ! てっきり、またあのデカい魚が飛び出して来よったかと……」
ペタペタとピリルが此方へと近寄って来たその瞬間、俺の足下の水面が黒く迫り上がった。
ダッバーン!!
「ほぎゃぁ!? で、でたぁっ!!」
盛大な波飛沫を上げながら現れたオルガ、未だ屋根の縁にしがみ付いている俺に向かって顎を開く。
「食われてたまるかっ!」
追い迫る顎先を足で蹴り押さえ、その勢いを使って一気に屋根へと飛び上がる。そのまま屋根をゴロゴロと転がってオルガとの距離を取るのだがーー、
「ギュイッ!」
ーーメキ メキバキッ
なんとオルガは諦めるどころか俺を追ってその大きな頭を屋根にもたれ掛け始めた。痛々しく軋む建物が悲鳴を上げるが、オルガは更にその巨体をも屋根上に乗り上げようとする。
「そこまでだよっ!」
鋭く叱るようなエレナの怒声が響く。
その声に反応したオルガは硬直したようにビタリと動きを止めた。ーーいや違う、水面から伸びた沢山の水の触手がオルガに纏わりついている。これがオルガの巨体を止めているのだ。
「オルガ、もうこれ以上は勘弁しとくれ。流石に始末書だけじゃ済まなくなっちまうよ」
宥めるようなエレナの声を聞いたオルガは、拗ねたように白い腹を見せると、そのまま水中へと戻っていく。
「ーーなぁに、どうせ奴等はもう屋根からは逃げれないさ」
エレナの言葉通り、既に建物は衛兵達に取り囲まれていた。
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