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序章

1話 悪夢

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 【佐藤陽向さとうひなた】どこにでも居る普通のサラリーマン。普通の大学を卒業して、特にこれといった理由もなく今の会社に入社した。そのわりには待遇も良く、仕事に追われる日々ではあったが同期の仲間や上司もいい人達ばかりで結構気に入っていた。

「ひどい雨だな」

 今度の会議に使う資料の作成で、帰りが遅くなってしまった佐藤は愛車のエンジンをかける。それと同時にお気に入りのラジオチャンネルからは、雨の日のドライブに合う曲というテーマで音楽が流れ始める。ハンドルを切りながら流れる音楽を口ずさみながら帰路についた。

「ただいまーっと」

 玄関の鍵を開けて家の中に入るが誰の返事もない。まぁ、一人暮らしなのだから当たり前だ。部屋の電気をつけると綺麗とも汚いとも言えない半端な散らかり具合の部屋が現れる。佐藤は着ていたスーツの上着をソファの上に投げ置き、キッチンの方へと歩く。

「何あったっけな?」

 冷蔵庫の中を確認すると、缶ビールに適当に買った食材が入っている。料理は少しできるが時間もないからビールだけ取り出し、非常食用に取っているカップ麺を食べることにした。

 お湯が沸くまでの間テレビの電源を付けると、そこには画面いっぱいに犬の顔のアップ映像が映された。

「うわっ!!」

 慌ててチャンネルを切り替える佐藤。チャンネルを切り替えた先はニュース番組で、今日起きた事件を報道している。

「あー、びっくりした。この時間は動物番組だったの忘れてた」

 いまだにドキドキしている胸を押さえながら深呼吸をして呼吸を整える。実は佐藤は極度の動物嫌いで、小さい頃は動物に愛された子供と呼ばれ動物に好かれていた。当時はローカル番組で特集が組まれるくらい有名で、佐藤本人も動物の事が大好きだった。

 しかし、幼稚園の頃にある事件が起きた。幼稚園の遠足で山に来た佐藤は大きな鷲によって空高く連れらされてしまったのだ。鷲からしてみれば遊んでいたのだろうが、上空何十mもの高さに連れ去られた佐藤は驚き、恐怖し、泣き喚いた。

 暴れる佐藤にびっくりした鷲は、思わず掴んでいた足の力を緩めてしまいその高さから落としてしまった。落ちたらまず間違いなく死んでいただろうが、落ちた場所のすぐ近くに大きな木があり、奇跡的にそこに引っかかり助かった。

 その出来事があってから佐藤は動物恐怖症と高所恐怖症になってしまい。動物はどれも苦手だが、特にトラウマの原因となった鳥が一番恐怖の対象になってしまっていた。それからはなるべく動物との接触を控えるような生活を続けてきた。

「はぁ」

 ため息をつきながらポットから湧いたお湯をカップ麺に注ぎ、食べられるまでの少しの間に明日行うプレゼンの資料に不備はないか再確認した。特に問題がないことを確認してから、さっさとご飯を食べ終えてシャワーで汗を流して布団へ入った。 





「あれ?ここって会社?」

 気がつくと佐藤は自分が勤めている会社の目の前に立っていた。周りを見ると自分の横を通り過ぎて会社に入っていく人が大勢居る。

「あぁ、これは夢か」

 特に理由はないがなんとなくこれが夢だと確信した佐藤。ただ、いくら夢とはいえ、ここで立ったままもどうかと思い会社の中へと入っていくと、玄関ホールから突然場面が切り替わった。

「おお、いきなり場所が変わった...って!ここ社長室じゃん!!おいおい、勘弁してくれよー」

 会社の入口をまたいだ瞬間、会社の玄関ホールから社長室にまで飛ばされていた。この部屋に来たのは入社した時の1度のみだったけれど、部屋の壁一面に飾られている大きな鳥の絵画が印象的で覚えていた。正直二度とここには来たくないと思っていたのに、まさか夢で来るハメになってしまうとは。これは悪夢確定だろう。すぐに出ようと後ろのドアに手をかけるがびくともしない。

「あ、開かない。マジかよ、なんでよりによって社長室に来たんだ?」
「それは私が呼んだからだよ。佐藤陽向くん」
「え?だれ?社長?」

 佐藤の目の前にある社長デスクから声が聞こえたが、椅子は背もたれを子たらに向けているので姿は見えない。

「えーっと...自分に一体何の用なのでしょうか?」
「単刀直入に言おう。君にはこれから転勤してもらおうかと思っている」
「はい?転勤ですか?一体どこに?」
「まぁ、夢なんだからそんなこと気にしなくてもいいじゃないか。とりあえずこの契約書にサインをしてくれるかな?でないとここから出さないよ?ふふふ」
「自分で夢って言っちゃってるし、ここから出さないとか本当に勘弁して欲しいんで、さっさと書きますよ」

 変な夢だと思いながらも、書かないと部屋を出れないと言われれば書くしかあるまい。佐藤が契約書にサインを書き終わると、社長はにやりと笑う。

「これで契約完了ね」
「え?」

突然社長の声色が女性の声に変わったと思った時には、佐藤は目が覚めていた。





「何だったんだあの夢は?」

 目を覚ますとさっき見た夢を思い出していた。時刻はまだ目覚ましが鳴る30分前。いつもなら起きたら見た夢のことは忘れているのだが、今回は何故かはっきりと覚えていた。

「ま、たかが夢だし気にすることないか。それに今日は大事なプレゼンがあんだから、そんなこと気にする暇ないだろ」

 気持ちを切り替えて、早めに出社する準備をしてから会社へ向かった。プレゼンは早朝からだったので、出社してからプレゼン仲間と準備に追われ、あっという間に時間が過ぎた。





「はぁー、おわったぁー。大変だったけど手応えはあったかな?」

 プレゼンしてみていい反応を感じたので、いい結果が聞けそうだ。自販機で缶コーヒーを買って一口飲む。ふと時計を見ると時間はもう既にお昼をすぎていた。朝もそんなに食べていなかったせいか、急にお腹がすいてくる。

「昼飯何食べようかな?あ、社長!お疲れ様です」
「うむ、お疲れ。先ほどのプレゼンはなかなか面白かったよ」
「ありがとうございます」

 実はさっきのプレゼンに社長も参加していた。本来参加する予定はなかったのだが、当日になって急に出席すると聞いたもんだからちょっとしたパニックだ。今朝の夢の件もあったので佐藤は他の人に比べ変に緊張してしまい大変だった。

「そうだ佐藤くん。お昼はまだかね?」
「はい。これから何か食べに行こうかと思っていたところです」
「そうか、それならば丁度いいな。佐藤くんには話しておきたいことがあるので一緒に食事に行こうか?」
「え?あ、はい。分かりました」

 急な食事の誘いに少し驚いたが、ちょうどお腹もすいていたし、話があるということなので社長について行くことにした。

 会社を出て、社長の立派な高級車で向かった先は明らかに自分には敷居が高く感じてしまうような料亭だった。その店構えに呆気に取られていると社長は「そんなに固くなることは無い。さぁ、中に入るぞ」と言って店の中に入っていく。仕方なく佐藤も若干挙動不審になりながら社長の後をついて店に入っていった。

「どうだね、ここの料理は美味いだろう佐藤くん?」
「は、はい。こんなに美味しい料理を食べたのは初めてです」
「そうかそうか、遠慮はいらん。どんどん食べてくれ」
「は、はい。ありがとうございます」

 正直、高級料亭で社長とふたりっきりで食事とか緊張で味がわからない。きっと本当に美味しいんだろうけれど、今はそれどころじゃなかった。社長は佐藤に用事があると言っていたが、プレゼンの事だろうか?一応プレゼンで使った資料は持ってきているからある程度対応はできるはず。そう思っていたら社長から話を切り出してきた。

「今回、佐藤くんを食事に誘ったのはね、これの件なんだよ」

 そう言って社長は一枚の紙を佐藤へ渡した。そこには大きな文字で契約書と書かれており、佐藤の名前がサインしてあった。おかしい。最近こんな契約書を書いた覚えなど無い。いや、確かに書いた覚えはあった。だが、あれは夢の中での話だ、そんなはずはない。

「この契約書は何ですか?確かに自分の名前が書いてありますが、サインした記憶が無いのですが」
「何を言っておるのかね?間違いなく佐藤くんが書いたものだよでね」
「え!?」

 驚く佐藤をよそに、社長は面白そうににやにやしながら佐藤の様子を窺っている。佐藤は心臓が早鐘を打つのを手で抑えながら声を絞り出す。

「ゆ、夢の中でですか?突然何を言うんですか社長。からかわないで下さい」
「からかってなどいないさ、この転勤先は私の生まれ故郷でね。とても素晴らしい場所だよ。まぁ、佐藤くんからしたらそうでは無いかもしれないがね」
「ちょ、ちょっと待ってください!転勤って、え?本当なんですか?」
「まだ疑っているのかね、覚えているだろう?
「!?」

 夢の最後に社長が発した女の人の声。すると世界が突如暗転した。停電というレベルではない。自分の姿ははっきり見えるのにその他は何も見えない完全な闇だ。一体何が起きているのか分からず、佐藤は呆然とするしかなかった。

「何が起きてるんだよ...うっ!」

 佐藤が呟くと、急に辺りが光り輝き、あまりの眩しさに目を開けられない。すると、社長の声が聞こえてきて、女性の声で話し方も変わっていた。

「今回あなたをこの世界に呼び出したのは、ある者達からの懇願からです。本来であればこんなことは前例がないのですが、あなたは特別な存在ですからね。ただ、そのまま送り出したところで路頭に迷うのは目に見えていますのでいくつかサービスしてあげましょう」
「は!?ちょ、まってください社長!何のことかちゃんと説明してください!!」
「今の私は社長ではありません。あの姿はあなたの世界での仮の姿」
「え?」

ようやく光が収まってきたので目をあけてみると、佐藤の目の前には見上げるほどの大きな鳥が見下ろしていた。その姿は社長室に飾ってあった大鳳の絵画と瓜二つ、それを見た佐藤は声を上げることもなくそのまま気を失って倒れた。

「あらあら、やっぱりこの姿は刺激が強かった様ですね。仕方ありません。このまま送ってしまいましょう」

そう言うと社長が大きく羽ばたくと、佐藤の周りに光が生まれた。その光は次第に大きくなり佐藤の全身を包み込む。そうして佐藤の姿が見えなくなった途端、光が散り散りになりそこにあったはずの佐藤の姿はどこにも無かった。
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