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三途の河
しおりを挟む群馬で農民をしていたわたしの母方の兄、つまり叔父のOは、日中戦争の激化にともない赤紙をうけた。
召集令状である。赴任先は、満州。配属先は、関東軍の第23師団、日本人の男子で形成された当時満州駐留中で最強と目された部隊である。
叔父は、純朴な農民であった。身長は、150センチそこそこしかなかったが、洋服を脱いだ時の筋肉の発達が素晴らしく、俊敏性に優れブルースリーをふた回り小さくしたような小男であった。
関東軍というと、まるで関東の男子だけで編成されたように思われがちだが、そうではなく万里の長城より東、つまり満州の占領軍と言った意味で、そこには東北、関西、四国、九州の人までいた。
叔父は、野戦砲の部隊で伍長として現地に赴任して、とんでもない命令を上官から言い渡される。
「昼は、蒋介石の国民党軍と市街戦、夜は、毛沢東の八路軍と野戦の二正面作戦で頑張ってもらう」
「アーっ、それから最近市民に扮した共産分子が、手土産の餃子や果物の中に手榴弾を仕込んでわが皇軍の兵隊を傷つけるという事件もおきている」
「疑わしきは、憲兵隊に届けるように」
なんという面倒臭い戦場なのだろうか。目前の敵が二つある上に今でいう共産テロリストがあちこちに潜んでいるというのである。
それでも叔父は命令を遂行しようと、昼も夜も頑張り抜いた。
ただの楽しみは、なけなしの小銭をはたいて、酒保でたまに口にするアンパンと一杯の日本酒だけだった。
戦えば必勝の叔父の部隊も牡丹江郊外の野戦で、八路軍の猛反撃に遭い、叔父は背中に野戦砲の破片を受け大量に出血してしまい意識不明の状態になった。
それでも叔父の日頃の人徳なのか、周りの兵隊に助けられて、意識不明のまま野戦病院に運び込まれる。
その野戦病院で、叔父は不思議な体験をする。
叔父が目を覚ますと、前に川が流れている。
深さはそれ程深くはなく、膝下30センチほどの小川である。
川向こうを望んで見ると、兵隊仲間たちが桜の樹の下で楽しそうに宴会をしている。叔父が好きなアンパンや日本酒もありそうである。
叔父は、ヨロヨロと小川を渡りはじめ、ようやく向こう岸にたどり着いた。
「やあ、俺も仲間に入れてくれよ」
しかし、兵隊仲間たちは叔父を見ると一様に怪訝な顔をした。
「おまえが来る所じゃない」
「おまえは、まだ時期が早いから」
兵隊仲間たちは、叔父をこぞって後ろに突き飛ばした。
叔父は、ヨロヨロと後ろの小川にザブンと倒れ込んだ。
叔父が、再び意識を回復すると野戦病院に朝が来ていた。見回すと、手足がないもの、すでに顔面に白い布を被せられ息を引き取っているもの、重篤の患者ばかりであった。
軍医が叔父の傍らに立った。
「昨晩、君が運び込まれた際には既に重篤で、傷口は縫ったが、血圧と体温が下がっていくのをみて正直匙を投げたよ。それが夜中過ぎて急激に回復して驚いた。全く医学では説明がつかん」
軍医は、自嘲気味に去っていった。
「今思えば、あれが三途の河だったんじゃなかろうか。河を渡りきっていたら、あの時どうなってもおかしくない状態だった」
叔父は老齢にしてこの世を去ったが、わたしは所用があって九段下の靖國神社の前を通る時、生前彼が口にしていたこの話を思い出す。
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