辻雪隠と浅草紙

dragon49

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辻雪隠と浅草紙

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 江戸は後期、文政の頃の話。

 隅田川の両岸に桜の花びらがはらはらと散る春の日、八丁堀の同心由比庄三郎は月替わりの非番ともあって、小石川療養所詰めの同僚石川智左衛門と柳橋の居酒屋「ふく屋」で合流痛飲した。

  庄三郎は、同じく同心の家に生まれ、世襲同然に十手を授かった宿命を同僚の石川にも見て、友として敬愛していた。

 「おい、どうだ石川、診療所の方は?どんな病人が来てるんだ?」、由比が酌をしながら尋ねた。

 「全く酷いもんさ。貧乏人は薪も満足に買えねえ、布団を質にとられちまった奴もいて、風邪ひき患者の長蛇の列さ。それであの世にいっちまうのもいるんだから貧乏人の最期ほど惨めであっけないものはねえよ」、既に半刻ほど呑んでいる石川は酩酊していた。

  あまりの生々しさに話の腰を折られ、庄三郎はのっけから気が引けた。

 「そーれにだ。どこそこの武士の端くれの何某がだ、吉原みたいな大仰なものを作りやがって、お陰でやくざものがやってる岡場は大繁盛さ!」、石川が酔った眼で庄三郎を睨みつけた。

 「四角四面の世には、人は住めんぞ、石川!」、庄三郎がやんわりとなだめた。
 「うつけ者ー、それがしが言っておるのは、ひとの義理人情とか、政事ではなーい!ここの事よ!」、そう言うと石川は自らの股間を叩いてみせた。

 もしやしてこの男は花柳病の事を言っているのか、庄三郎が目を剥いて驚いた。
 「......事に横浜の飯盛りオンナが南蛮人から移されたとかいう話の梅毒という流行病はやっかいだ。なんたってクスリがねえ、それで最期は脳袋が腐って発狂して死ぬのさ‥哀れだね」、ここまで言うと石川は卓に突っ伏して寝てしまった。
  石川が深い寝息をたてて寝ているのをみとめると、庄三郎は溜息をひとつつき、勘定を済ませてから店を出ることにした。

 「勘定を頼む」
  「へえ、お二人様で締めて、八百八十文になります」、親父は揉み手して応えた。
 「ぼってるとまでは言わねえが、ちと高すぎねえか?」、少々勘定書きに合点がいかなかった。

 「旦那はご存知ないんですかい?この柳橋界隈の料亭にはね、最近はお城の老中や若年寄だっていらっしゃる。そんなとこでね、アサリの佃煮の茶漬けでも食おうもんなら、百文はとられまさあ」、親父のドヤ顔に嫌気がさした庄三郎は渋々勘定をすませると店を後にした。
 まだ夕の七つ、日は傾いていたがまだある。官舎のある八丁堀を目指して庄三郎はととと歩き始めた。

  暫くすると、大小便の用に駆られた。「ちと飲み食いが過ぎたか、何処かに雪隠はないものか?」、庄三郎があたりを見回すと、橋のたもとに辻雪隠を見つけた。

  京坂では聞いたことがあるがついに江戸まで、庄三郎はなんだか嬉しくなった。渡に舟と雪隠に急ぐ。

  「お侍さん、浅草紙はいかが?」
    「おお、かたじけない」

庄三郎は、手短に用を足した。
      「お、おまえは善七親分の所の太郎次郎じゃないか?で、代はいくらなんだ?」

 「お代は要らない。その代わり、溜まった汚穢を汲み取らせてもらう。それを農家に売るんだ」

庄三郎は、天を仰いだ。

 「このうつけもの。江戸の汚穢はな、葛西の親分さんが権利を持ってる筈だ。勝手にやると身があぶねーぜ」

「へっ、権利がなんだい。オラが先に見つけたんだから、オラのもんさ」

数日後、太郎次郎は隅田川に浮かんだ。

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