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【二】
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ハル君から返事がない。
冷たいスマホを放り出す。ぐちゃぐちゃなシーツのしわは貝殻の波模様に似ていて、オレの心にも似ている。ベッドでごろりと寝返りを打つ。腹が減ったとお腹が抗議して音を立てる。台所にカップ麺はあったかな。ぼんやりして窓のほうを見る。
梅雨の雨ももう三日連続で、オレの心は水たまりに沈んでいる。窓に筋をつける雨粒が斜め下へ向かう。まるでオレの気持ちのグラフみたいだ。部屋に漂う湿気がオレに絡みつく。
大学ではそろそろ前期の試験が始まる。だが、オレは受ける気がなかった。そもそも受けられる試験がない。履修届を出していない。だから、前期中、一度も大学に通っていない。オレの時間割は空っぽだ。休学という名目で家にいると、自分もどんどん空っぽになっていく。枕に突っ伏して「あー」と叫ぶ声さえ、雨音に呑み込まれる。
オレは四月から二年生になるはずだった。だが、去年の暮れから大学には行っていない。大学の合格を喜んだのが遠い昔のようだ。
こんなはずじゃなかったのにな。目を瞑るとベッドに体が沈んでいく。瞼の裏に浮かぶのはあの日のサークルの部室だ。
高校三年生の冬、息の白い二月。念願の第一志望校に合格し、家族で小さなショートケーキを食べた。
近所では一番人数の多い大学だ。学部別にキャンパスが分かれていて、敷地はあまり広くない。十年前に建て替えられた校舎は背が高く、ガラス張りの近代的な建物で心もきれいに透き通る。校門から校舎の前に広がる広場は、学生たちの集いの場所。テラス席のある食堂では、コーヒーを優雅に飲む学生もいた。
シラバスには戸惑った。履修する講義も迷った。でも、それなりに楽しい授業が始まり、それなりに友だちもできた。
大学は高校よりもずっと自由で、いろんな学生がいる。写真が趣味でと言ってもみんなはへえと感心する程度。暗いだの地味だの悪口は言われない。その解放感がオレのキャンパスライフを明るく照らしてくれた。
意気揚々と入った写真サークルは二十人程度。だが、貸し出し用のフィルムカメラや自由に使える三脚、照明器具には胸が躍った。いろんなカメラやレンズを試し、元々好きだった風景写真を撮るようになった。
影の落ちる石畳の路地裏。高台からの透き通る夜景。田んぼの中を音を立てて走る電車。
勲章みたいにカメラを首から提げてあちこちを回る。
長期休みには新幹線に乗って遠くまで出かけよう。スマホで旅行計画を立て、お土産もチェックする。多分、オレが一番生き生きとしていたのはこの頃だ。
写真サークルでは年間を通して三回写真展を開催する。その前に品評会を行い、写真のどこがいいか話し合う。賞を取ったことは口にしなかった。だが、写真に熱心な学生は高校生がどんな写真を撮ったかもチェックしている。名前を覚えられていて、「あの賞を取ったんだ?」と先輩たちにも言われるようになった。
少しだけ、プレッシャーだった。あのときはハル君がいたが、今はひとりで勝負する風景写真。それでも必死にシャッターを切る。一回目の写真展では、色とりどりのぶどうやスイカの並ぶ果物屋の店先の写真を展示した。
問題は一年生の後期、秋の写真展のときのこと。品評会に木漏れ日の落ちる街路樹の写真を持っていった。円になってプロジェクターから映し出された写真を眺めるみんなが「うーん」と腕を組む。
「やわらかい日差しが秋を表現できると思うんです」
自信を持って解説する。
だが、部室を切り裂いた言葉は「平凡だな」だった。眼鏡をかけた男の先輩がばっさりと切り捨てる。その足がタンタンと床で乾いた音を鳴らす。
「魂がない。ただ撮っただけって感じだな」
平凡。
その言葉がオレの心を貫いた。平凡でもオレのレンズはあの眩しいハル君を捉えられていた。それなのに、今回は駄目らしい。
右隣にいた同学年の女子がくすっと笑う。
「もうちょっとパンチがある写真を撮らないと。他に埋もれちゃうよ? 高校で賞を取ったんでしょ?」
嫌味っぽく付け加えられた言葉に顔がカッと熱くなった。
急に部員たちの冷たい眼差しが自分の体を刺してくる。プロジェクターの機械音が無神経にカタカタ鳴る。誰か助けて。そう思って目をやった斜め向かいの先輩はスマホをいじりだす。
初めて理解した。自分が歓迎されていなかったことに。同志だと思っていた仲間はライバル。賞を狙う者たちはまずはオレを蹴落としたい。オレは風景からきれいなところを切り取って満足していた。サークルはオレが思い描いていた世界とは違ったのだ。
冷たいスマホを放り出す。ぐちゃぐちゃなシーツのしわは貝殻の波模様に似ていて、オレの心にも似ている。ベッドでごろりと寝返りを打つ。腹が減ったとお腹が抗議して音を立てる。台所にカップ麺はあったかな。ぼんやりして窓のほうを見る。
梅雨の雨ももう三日連続で、オレの心は水たまりに沈んでいる。窓に筋をつける雨粒が斜め下へ向かう。まるでオレの気持ちのグラフみたいだ。部屋に漂う湿気がオレに絡みつく。
大学ではそろそろ前期の試験が始まる。だが、オレは受ける気がなかった。そもそも受けられる試験がない。履修届を出していない。だから、前期中、一度も大学に通っていない。オレの時間割は空っぽだ。休学という名目で家にいると、自分もどんどん空っぽになっていく。枕に突っ伏して「あー」と叫ぶ声さえ、雨音に呑み込まれる。
オレは四月から二年生になるはずだった。だが、去年の暮れから大学には行っていない。大学の合格を喜んだのが遠い昔のようだ。
こんなはずじゃなかったのにな。目を瞑るとベッドに体が沈んでいく。瞼の裏に浮かぶのはあの日のサークルの部室だ。
高校三年生の冬、息の白い二月。念願の第一志望校に合格し、家族で小さなショートケーキを食べた。
近所では一番人数の多い大学だ。学部別にキャンパスが分かれていて、敷地はあまり広くない。十年前に建て替えられた校舎は背が高く、ガラス張りの近代的な建物で心もきれいに透き通る。校門から校舎の前に広がる広場は、学生たちの集いの場所。テラス席のある食堂では、コーヒーを優雅に飲む学生もいた。
シラバスには戸惑った。履修する講義も迷った。でも、それなりに楽しい授業が始まり、それなりに友だちもできた。
大学は高校よりもずっと自由で、いろんな学生がいる。写真が趣味でと言ってもみんなはへえと感心する程度。暗いだの地味だの悪口は言われない。その解放感がオレのキャンパスライフを明るく照らしてくれた。
意気揚々と入った写真サークルは二十人程度。だが、貸し出し用のフィルムカメラや自由に使える三脚、照明器具には胸が躍った。いろんなカメラやレンズを試し、元々好きだった風景写真を撮るようになった。
影の落ちる石畳の路地裏。高台からの透き通る夜景。田んぼの中を音を立てて走る電車。
勲章みたいにカメラを首から提げてあちこちを回る。
長期休みには新幹線に乗って遠くまで出かけよう。スマホで旅行計画を立て、お土産もチェックする。多分、オレが一番生き生きとしていたのはこの頃だ。
写真サークルでは年間を通して三回写真展を開催する。その前に品評会を行い、写真のどこがいいか話し合う。賞を取ったことは口にしなかった。だが、写真に熱心な学生は高校生がどんな写真を撮ったかもチェックしている。名前を覚えられていて、「あの賞を取ったんだ?」と先輩たちにも言われるようになった。
少しだけ、プレッシャーだった。あのときはハル君がいたが、今はひとりで勝負する風景写真。それでも必死にシャッターを切る。一回目の写真展では、色とりどりのぶどうやスイカの並ぶ果物屋の店先の写真を展示した。
問題は一年生の後期、秋の写真展のときのこと。品評会に木漏れ日の落ちる街路樹の写真を持っていった。円になってプロジェクターから映し出された写真を眺めるみんなが「うーん」と腕を組む。
「やわらかい日差しが秋を表現できると思うんです」
自信を持って解説する。
だが、部室を切り裂いた言葉は「平凡だな」だった。眼鏡をかけた男の先輩がばっさりと切り捨てる。その足がタンタンと床で乾いた音を鳴らす。
「魂がない。ただ撮っただけって感じだな」
平凡。
その言葉がオレの心を貫いた。平凡でもオレのレンズはあの眩しいハル君を捉えられていた。それなのに、今回は駄目らしい。
右隣にいた同学年の女子がくすっと笑う。
「もうちょっとパンチがある写真を撮らないと。他に埋もれちゃうよ? 高校で賞を取ったんでしょ?」
嫌味っぽく付け加えられた言葉に顔がカッと熱くなった。
急に部員たちの冷たい眼差しが自分の体を刺してくる。プロジェクターの機械音が無神経にカタカタ鳴る。誰か助けて。そう思って目をやった斜め向かいの先輩はスマホをいじりだす。
初めて理解した。自分が歓迎されていなかったことに。同志だと思っていた仲間はライバル。賞を狙う者たちはまずはオレを蹴落としたい。オレは風景からきれいなところを切り取って満足していた。サークルはオレが思い描いていた世界とは違ったのだ。
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