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【四】
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八月のカレンダーがクーラーの風に揺れ、破り取る日が近づいた。
その日、午前中は大ぶりの雨だった。嫌だなと思ったら午後からからりと晴れる。途端に部屋が温度を増して、クーラーの温度を二度下げる。二階の自室は屋根に近くて暑い。一階のリビングで麦茶を入れた。ガラスのコップでカランと鳴る氷。夏の音だ。今年は風鈴を出し忘れた。
昔から夏は好きだ。花火の思い出もあるし、蝉しぐれの中で撮る昼の青空や入道雲は好きなモチーフの一つ。扇風機のスイッチを入れると、壊れかけなのか、ブーンという羽の回転する音が不規則に揺れる。
理久とセックスするようになって、動画で抜くのはやめた。最近は純粋に配信を楽しんでいる。気になったゲームを一本だけ買った。シャワーを浴びるときに鏡を見る。こけていた頬が少しふっくらしてきた。
理久はオレになにも求めない。オレから好きだと言ったこともないし、自分から手を握ったこともない。理久は「結論を出さなくていいよ」と微笑する。そのときの黒いピアスの揺れは重く、棘のように鋭い。オレを捕まえる理久の目つきは熱を帯びている。
今、ハル君が陽炎の立つ夏の駅に降り立って「綾斗」と手をあげれば、きっと「ハル君!」と手を振り返してしまう。理久は穏やかで優しいが、ハル君は眩しく力強い。理久とセックスをしてから、自分とは違うハル君の潔癖なまでの眩しさは加速した。
ハル君は掴めない陽炎。ハル君は彼氏でもセックスはしてくれないだろうし、求めているものはくれない。
「暑いね!」
夕方にやってきた理久は、黒と紫のロックなTシャツを着ていた。相変わらずのハーフアップでやってくる。玄関を開けると、蝉の大合唱とともに雨上がりのペトリコールのにおいがした。湿気がオレの喉に絡みつく。
「綾斗さん、今日のキーマカレーの材料とぬれせんべい。好きでしょ」
スーパーのビニール袋にあるオレの好きなメーカーの菓子。覚えててくれたんだ。小さな幸せが胸を温める。
「綾斗さん、リビングにいたの? 部屋が涼しいね」
「あ、えっと、でも、部屋にもクーラーはつけてる……」
このあとのことを想像すると、笑った理久が「もう」とこちらの頬をつついた。
「そういう意味じゃないって。それより、ゲームはどこまで進んだ?」
理久が階段をのぼる。念のため扇風機を持っていく。部屋のクーラーの冷気が首筋を撫でる。心地よくて夏の日差しが遠のく。パチッとスイッチを押すと明かりが部屋を照らす。デスクに置かれたノートパソコン。黒のマニキュアの指がマウスを動かす。
「ああ、ここか。メモを拾ったでしょ? トリックに気づいた?」
オレが首を振ると配信と同じ低めのハスキーボイスが笑う。
「あれを読み解くのが重要だよ」
ちらと理久がこちらに視線をやった。十字架のピアスが冷たくオレを見る。オレの罪を胸に刻むように鋭利だ。
「綾斗さん、最近ハルと連絡とってる?」
さっと体が冷たくなり、クーラーの風の冷たさに肌が粟立つ。忘れていた足元の蔦がオレを動けなくする。でも、元々陽炎には手を伸ばしても触れられない。
「え、えっと」
口ごもると、理久はすぐに優しい声色で「嫌なこと聞いてごめんね」と頭をぽんぽんと撫でた。ぽろり。胸を刺す棘が落ちる。
ちらっとベッドを見る。理久との行為はオレに自己肯定感をくれる。刹那的なものだけでなく、それでいいんだよと慰められる。でも、オレは理久に対してなにもできていない。自分だけ満足している。
オレの罪悪感がなにか理久にできないかと囁く。理久の顔を見上げた。
「これをクリアして、理久のお勧めのゲームをおもしろかったよって言いたい」
思い切って本音を口にする。
「理久はオレの写真のファンだって言ってくれたけど、オレだって理久のファンだし」
せめて、それくらいは理久に誠実になりたい。オレの発言に理久が「今日は穏やかだね」と目を細める。
「雨が晴れて気分も明るくなったのかも」
「え、そう? 今日ちょっと嫌な天気じゃない?」
まだ少し明るい窓の外を見る。陽炎が見えた気がしたが、瞬き一つで消えてしまう。
スッと理久が屈み込んでくる。伝わってくる体温に心臓が跳ねる。背後でベッドそばに置いた扇風機が耳障りな音を立てる。
「……外が明るいのに、そういうことをするのってすっごく背徳的じゃない?」
低めのハスキーボイスの囁き声が耳に絡む。この声を聞くとオレの体に熱が灯る。
「ベッドに行こ。ね?」
理久に手を引かれ、「うん」と下を向いた。
その日、午前中は大ぶりの雨だった。嫌だなと思ったら午後からからりと晴れる。途端に部屋が温度を増して、クーラーの温度を二度下げる。二階の自室は屋根に近くて暑い。一階のリビングで麦茶を入れた。ガラスのコップでカランと鳴る氷。夏の音だ。今年は風鈴を出し忘れた。
昔から夏は好きだ。花火の思い出もあるし、蝉しぐれの中で撮る昼の青空や入道雲は好きなモチーフの一つ。扇風機のスイッチを入れると、壊れかけなのか、ブーンという羽の回転する音が不規則に揺れる。
理久とセックスするようになって、動画で抜くのはやめた。最近は純粋に配信を楽しんでいる。気になったゲームを一本だけ買った。シャワーを浴びるときに鏡を見る。こけていた頬が少しふっくらしてきた。
理久はオレになにも求めない。オレから好きだと言ったこともないし、自分から手を握ったこともない。理久は「結論を出さなくていいよ」と微笑する。そのときの黒いピアスの揺れは重く、棘のように鋭い。オレを捕まえる理久の目つきは熱を帯びている。
今、ハル君が陽炎の立つ夏の駅に降り立って「綾斗」と手をあげれば、きっと「ハル君!」と手を振り返してしまう。理久は穏やかで優しいが、ハル君は眩しく力強い。理久とセックスをしてから、自分とは違うハル君の潔癖なまでの眩しさは加速した。
ハル君は掴めない陽炎。ハル君は彼氏でもセックスはしてくれないだろうし、求めているものはくれない。
「暑いね!」
夕方にやってきた理久は、黒と紫のロックなTシャツを着ていた。相変わらずのハーフアップでやってくる。玄関を開けると、蝉の大合唱とともに雨上がりのペトリコールのにおいがした。湿気がオレの喉に絡みつく。
「綾斗さん、今日のキーマカレーの材料とぬれせんべい。好きでしょ」
スーパーのビニール袋にあるオレの好きなメーカーの菓子。覚えててくれたんだ。小さな幸せが胸を温める。
「綾斗さん、リビングにいたの? 部屋が涼しいね」
「あ、えっと、でも、部屋にもクーラーはつけてる……」
このあとのことを想像すると、笑った理久が「もう」とこちらの頬をつついた。
「そういう意味じゃないって。それより、ゲームはどこまで進んだ?」
理久が階段をのぼる。念のため扇風機を持っていく。部屋のクーラーの冷気が首筋を撫でる。心地よくて夏の日差しが遠のく。パチッとスイッチを押すと明かりが部屋を照らす。デスクに置かれたノートパソコン。黒のマニキュアの指がマウスを動かす。
「ああ、ここか。メモを拾ったでしょ? トリックに気づいた?」
オレが首を振ると配信と同じ低めのハスキーボイスが笑う。
「あれを読み解くのが重要だよ」
ちらと理久がこちらに視線をやった。十字架のピアスが冷たくオレを見る。オレの罪を胸に刻むように鋭利だ。
「綾斗さん、最近ハルと連絡とってる?」
さっと体が冷たくなり、クーラーの風の冷たさに肌が粟立つ。忘れていた足元の蔦がオレを動けなくする。でも、元々陽炎には手を伸ばしても触れられない。
「え、えっと」
口ごもると、理久はすぐに優しい声色で「嫌なこと聞いてごめんね」と頭をぽんぽんと撫でた。ぽろり。胸を刺す棘が落ちる。
ちらっとベッドを見る。理久との行為はオレに自己肯定感をくれる。刹那的なものだけでなく、それでいいんだよと慰められる。でも、オレは理久に対してなにもできていない。自分だけ満足している。
オレの罪悪感がなにか理久にできないかと囁く。理久の顔を見上げた。
「これをクリアして、理久のお勧めのゲームをおもしろかったよって言いたい」
思い切って本音を口にする。
「理久はオレの写真のファンだって言ってくれたけど、オレだって理久のファンだし」
せめて、それくらいは理久に誠実になりたい。オレの発言に理久が「今日は穏やかだね」と目を細める。
「雨が晴れて気分も明るくなったのかも」
「え、そう? 今日ちょっと嫌な天気じゃない?」
まだ少し明るい窓の外を見る。陽炎が見えた気がしたが、瞬き一つで消えてしまう。
スッと理久が屈み込んでくる。伝わってくる体温に心臓が跳ねる。背後でベッドそばに置いた扇風機が耳障りな音を立てる。
「……外が明るいのに、そういうことをするのってすっごく背徳的じゃない?」
低めのハスキーボイスの囁き声が耳に絡む。この声を聞くとオレの体に熱が灯る。
「ベッドに行こ。ね?」
理久に手を引かれ、「うん」と下を向いた。
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