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【後日談・三章】ニャルラトホテプの嘲笑篇(十二話構成)
二話「節分の嘲笑」
「節分でしゅか?」
サタンちゃんは、リボンが巻かれた愛らしい魔竜の尻尾をクルクルと回します。
部屋のおばけ達は、まるで猫じゃらしに釣られる子猫のように、
尻尾の動きに合わせてふよふよと宙を泳ぎ、捕まえようとしては――ペチン、
と尻尾に叩かれ、それが面白いのか、おばけ達は取っ替え引っ替えで遊んでいます。
「鬼を払って、今年一年の幸せを願う日ですよ」
ピピは前かがみの姿勢で、サタンちゃんに目線を合わせながら優しく説明します。
「鬼とはなんでしゅか?」
(んー……どう説明すればいいのでしょう)
「んー……悪いものです!」
「なら、妾の世界征服の邪魔をしゅる悪いやちゅりゃをやっちゅけりゅでしゅ!」
「世界征服も悪じゃろがい!」
「ふん! おまえには聞いてないじょ!」
「ほげぇ!!」
サタンちゃんは尻尾をムチのように打ち付けると、
じゃれていたおばけ達が、勢い余ってあゆむへ突進!
顔面に綺麗に直撃、追突し、痛みと冷たさと、ナス臭さが伝わります。
「わざとじゃないでゲスー」「でもちょっと面白かったザマスー」「てやんでーい」
あゆむはハンカチでナス臭い顔を拭くと、ふとトリエルを眺めます。
彼女はアンポンタンを指で回し、暇を潰しているように見えます。
アンポンタンはジャグリングをしたり、ベロベロバーでトリエルを笑わせようとしますが、
トリエルは薄い笑みを浮かべるのみです。
(やはり気にしているのか……だが不味いな)
あゆむは危機感を覚えていました。
(トリエルは笑うのが『怖く』なってきている)
これまでトリエルは、生前の少女『桜井恵美』の魂の願いに従い、
笑顔を絶対の救いと信じ、どんなことがあっても笑顔を届けようとしました。
トリエルにとって『笑顔』とは、単なる概念を超えたアイデンティティと言えるものであり、
存在意義にも等しいものです。
しかし、トリエルの笑顔はその『魂の願い』により魔力を持ちます。
桜井恵美は白血病が進行し、全身に激しい痛みが走っても『笑み』を浮かべ、『笑顔』を作り、
大好きな母親にすぐに良くなる、痛くなんてないと、悲しい嘘を最後まで突き通しました。
笑わなきゃ、笑わなきゃと、笑うことに一種の強迫観念を作り出し、
自らに笑顔を『強制』していました。
その笑顔に対するただならぬ思いが『魂の願い』となり、
笑顔の天使エミエルへと桜井恵美が転生し、
そのエミエルの強い意志を、表裏一体のトリエルがイタズラとして実行しているのです。
それは言うなれば笑顔の強制です。
トリエルは桜井恵美の生者の苦しみ、悲しみを『彼女』の願いに従って、
それを救いと信じ、ひたむきに実行し続けていたのです。
(皮肉だな……)
トリエルの薄い笑顔。心からではない、明らかに作られたそれ……
権能を、強制された笑顔を恐れたそれを見て、あゆむは『皮肉』と捉えます。
あゆむは鼻を押さえながら、顔に残るナス臭さを拭き取ります。
おばけ達はクスクスと無邪気に笑いながら、再びサタンちゃんの尻尾に集まってきます。
「じょっじょっじょー わらわっじょー しっぽが欲しいかそらやるじょー」
サタンちゃんは『はとぽっぽ』の替え歌を即興で作ると、尻尾を振り回し続け笑顔を振りまく一方、
ピピが困った顔であゆむに視線を向けます。
あゆむはピピの視線を追い、トリエルの方を再びチラリと見ます。
彼女はまだアンポンタンを指で回しているものの、その笑顔はますます薄く、まるで仮面のように見えます。
心の中で、あゆむは思います。
(このままでは、トリエルが壊れてしまうかもしれない)
それは直感です。
(笑顔の権能……それが今、トリエルを苦しめている。生前の願いが、心を縛っているんだ。
どうにかしなければ)
あゆむは深呼吸をし、天井を睨みつけます。
そこにあるのは黒い染み。
去年のクリスマスイブに、あゆむの部屋を訪れた邪神――ニャルラトホテプがつけたものです。
それは薄くなってきてはいるものの、あゆむ達を嘲笑う目のように、鈍く不気味な輝きを放っています。
『君達は考えなかったかい? 彼女の権能で救われた者達は、本当に幸せなのか……ってね』
かの邪神の声が、あゆむの脳裏に何度もリピートされます。
這いよる混沌は自らは直接手を下しません。
人の心の弱み、足掻こうとする意思、そうしたものを揺さぶり、
そして――嗤うのです。
結果……最後には自滅する。
けれど、邪神は心を痛めたりなどはしません。決して。
『僕は何もしてないよ? 君達が勝手に壊れたんだ。そうだろう?』
心の闇を揺さぶり、闇への抵抗を嘲笑い、自滅に導く者。
それがニャルラトホテプという邪神です。
そしてそれは、確実にじわじわと、トリエルを中心とした7畳の部屋を侵食していきます。
あゆむは天井の黒い染みを尚も睨みつけながら、拳を握りしめます。
ニャルラトホテプの嘲笑が耳に残る中、部屋の空気が重く淀んでいるのを感じます。
おばけ達の無邪気な笑い声が、逆に不気味に響きます。
(このままじゃダメだ。トリエルを救わないと……でも、どうやって?
天使の権能は魂の願いそのもの。剥ぎ取るなんてことができるか?)
ピピがそっと近づいてきます。彼女の手が、あゆむの袖を引きます。
「あゆむ様、わたくし……怖いです……」
あゆむはピピに視線を移し、ピピが指差す先を見ます。
「トリエルさん、あれ以来おかしいです。最近、笑顔がすごく固くて……」
サタンちゃんは尻尾を振り回すのを止め、部屋の空気を察知したのか、珍しく真剣な顔になります。
「じょー? なんか空気が悪いでしゅ……鬼の話じゃないでしゅ?」
あゆむは立ち上がり、トリエルに近づきます。
アンポンタンは、宙返りして明るく「べー」と舌を出しますが、
トリエルは反応しません。ただ、薄い笑みを貼り付けたまま、虚空を見つめています。
その様子を、部屋の隅でガブリエルママとミカエルさんが静かに見守ります。
「ガブリエル、手を貸さないのですか?」
「これはトリエル以上に、彼ら人間の問題です。
彼らで答えを見つけ、立ち向かわねばなりません」
「確かに……そうですね」
ガブリエルママは「安心しなさい。ミカエル」と確信しているようにささやき、微笑みます。
「彼らは負けませんよ。バアル」
「はい」
「紅茶の準備を。とっておきで」
「かしこまりました」
バアルゼブルはそう言うと、にこやかな笑みを浮かべ、ガブリエルママに敬礼します。
ミカエルさんは口角を上げて、そっと小説を開きます。
文章は読まず、フリだけして見守っているようです。
「トリエル……お前、笑うのが怖いのか?」
あゆむの問いに、トリエルはビクッと肩を震わせます。笑顔が一瞬、歪みます。
「え……? そんなこと、ないよ? ほら、トリエルはいつも通り……」
でも、その声は震えています。あゆむは彼女の肩に手を置き、優しく言います。
「無理しなくていい。権能の願いは、お前のものじゃない。お前はトリエルだ。
笑いたくない時は、笑わなくていいんだ」
トリエルの目から、ぽろりと涙が落ちます。笑顔が崩れ、初めて見るような苦痛の表情が浮かびます。
「でも……笑わなきゃ、みんなが悲しんじゃうよ……トリエルが生まれた意味が……」
部屋のおばけ達が、静かに集まってきます。サタンちゃんは尻尾を巻きつけ、ピピはワンピースの裾を握ります。
あゆむは深く息を吸い、決意します。
(ニャルラトホテプの罠だ。心の闇を揺さぶってる。でも、俺達は壊れない。トリエルを救うんだ)
「トリエル! お前の本当の願いはなんだ? 心から笑える世界だろ! それを信じろ!」
トリエルの瞳が赤と茶色にそれぞれ輝き始めます。権能の光が部屋を照らし、天井の染みが薄れていきます。
「辛い時は泣け! 本当の笑顔は、沢山の涙の裏にあるんだ!」
「……泣いていいの……? トリエルは、笑顔の天使だよ?」
トリエルの目からポロポロと涙がこぼれ落ちます。
おばけ達がトリエルに擦り寄り、サタンちゃんは尻尾を振り回し、
ピピがそっとトリエルの肩に手を置きます。
「笑顔の天使である以前に、お前はトリエルだ……そうだろ?」
トリエルは、あゆむの胸に飛び込むと、シャツをぎゅうっと掴み、
ひたすら泣きました。
背中の翼は小さく折りたたまれ、その姿は人間の少女のようです。
(これで、少しは前進したか……でも、邪神の影はまだ残ってる)
…………
ちーーーー!
「おいコラ! 俺のシャツで鼻かむな!」
「えへへっ……トリエルはイタズラの天使だもん」
「……そうだったな」
トリエルの目は、涙で赤く充血していましたが、
その表情は眩しく輝いているように見えました。
「皆さん、お茶にしませんか? ちょうど今、淹れたところです」
バアルゼブルが、ここで見計らったようにキッチンから現れ、
あゆむは口角を上げ、彼を見ると、彼もまた微かに微笑みます。
「どうせ俺の金で買ったやつだろうからな。俺の奢りだ」
「よくご存知で……フフフ」
あゆむが苦笑いを浮かべ、バアルゼブルを軽く睨みつける裏で、
ガブリエルママとミカエルさんは、互いに笑いを堪えながらそっと立ち上がります。
「わたくし達も行きましょう、ミカエル。人のお金で買ったものは全て美味しいですよ」
「本当に貴女は天使ですか……? まあいいですけど……」
部屋の中に、ダージリンのマスカットのような芳醇な香りが、ふわりと立ち込め、
皆が紅茶を口に含みます。
「うまいな」
あゆむはカップから上る湯気を眺め、薄くなった染みを確認すると、
部屋に視線を戻します。
そこには微かですが、確実に自然な、そして『本当の笑顔』がありました。
(見ていろ邪神野郎、お前のその嘲笑を、俺らは必ず跳ね返す)
あゆむの心に新たな決意と闘志が確かに生まれ、
薄くなった天井の黒い染み――邪神の残滓を改めて睨みつけ、再戦を決心します。
「そうです」
ここでピピが思い出したかのように、手を叩きます。
「どうした?」
あゆむの問に、ピピはいつもより明るい表情を作ります。
「今日は町内の節分豆まき祭りがあるんです! サタンちゃんのソロモン幼稚園主催なんですよ!」
「ほう……? サタンは知っておったのか?」
「そういうことはピピママに任せてるから、知らないじょー」
「まあ、お前はそういう奴だな」
(これはチャンスかもしれんな)
「折角だ、みんなで行こうぜ。トリエルも来るだろ?」
「……うん!」
トリエルは少しだけ考えたようですが、
そこには笑顔が戻っていました。
部屋の中が穏やかな空気に包まれたところで、あゆむは立ち上がります。
紅茶のカップを置くと、皆の視線が集まってきます。
「よし、決まりだ。みんなで節分豆まき祭りに行くぞ」
サタンちゃんは目を輝かせ、尻尾をブンブン振り回します。
「じょー! 妾の幼稚園が主催でしゅ! みんな、悪魔の仮面被って豆ぶつけりゅでしゅよ!」
ピピが慌てて手を振ります。
「サタンちゃん、豆は鬼に投げるんですよ? 悪魔にでもないです」
おばけ達は興奮した様子で、部屋中をふよふよと飛び回ります。
「豆まきだー!」「拾い食いだー!」「食べ放題よー!」
「楽しみでゲスー」「やってやるザマスー」「てやんでーい」
それぞれの意気込みを口にしながら、まるで祭りの予行演習のように、互いに豆を投げ合う真似を始めます。
あ、今霊気を丸めて、あゆむに飛ばしましたよ!
「痛てーぞ! あと拾い食いすんなよ!?」
トリエルは少し照れた様子で立ち上がり、アンポンタンをシルクハット、ゲザイトリオをポケットに、それぞれしまいます。
彼女の笑顔は、先ほどまでの仮面のようなものではなく、柔らかく自然です。
涙の跡が残る目元が、逆に彼女をより人間らしく見せます。
「みんなと一緒なら、きっと楽しいよね! えへへっ!」
ガブリエルママとミカエルさんが、静かにうなずきます。
バアルゼブルはカップを片付けながら、優雅に言います。
「私もお供しますよ。節分とは面白い風習です。悪魔の私には少々皮肉ですが、そこがまたいい」
あゆむは苦笑いを浮かべながら、コートを羽織ります。
外はまだまだ寒い2月。
しかし、祭りの賑わいが暖かさを運んでくる予感がします。
――――
町内の大きな公園に着くと、そこはすでに大勢の人で賑わっていました。
ソロモン幼稚園の主催だけあって、子供達が中心ですが、大人も混じって楽しげです。
ステージでは鬼の仮面を被った先生らが、参加者全員に豆を配っています。
空には紙吹雪が舞い、笑い声が響きます。
「わー、すごいでしゅ! 妾の幼稚園、がんばってるじょー!」
サタンちゃんは飛び跳ねて大喜びです。
彼女のブンブンという尻尾がうるさいので、ピピがリボンを解けないように巻き直します。
おばけ達は風船のフリをしてふよふよと浮いています。
あ、今一匹、子供に連れて行かれましたね。
「てやんでーい」
「……まあ、ほっときゃ戻ってくるじゃろ」
あゆむ達はステージ近くのベンチに座り、豆の入った袋を受け取ります。
祭りが本格的に始まると、鬼役の先生らがステージに登場します。
赤鬼、青鬼、それぞれの鬼のお面がコミカルで、子供達が一斉に豆を投げ始めます。
「鬼は外ー!」「福は内ー!」の掛け声が、会場中に広がります。
その時、ガブリエルママとバアルゼブルの視線はある一人の女性に向けられます。
その視線を追ったミカエルさんは、そっとガブリエルママに囁きます。
「彼女が七井 瑠亜ですか?」
「いえ、彼女は飛鳥 露都……アスタロトですよ。今はカタギのようですが」
そう言って、ガブリエルママはあすか先生を手招きで呼びます。
あすか先生は、苦虫を3ダースほど噛み潰したような表情で舌打ちをすると、
他の先生に一礼し、小走りで向かってきます。
「天使が何しに来やがった……!!」
「安心なさい。貴女に用はありませんよ、アスタロト」
「あん!?」
「単刀直入に言います。七井 瑠亜なる先生は誰ですか?」
『七井 瑠亜』
その名が出た途端、あすか先生は全てを察したように、強ばった表情に変化します。
それは人間、あすか先生ではなく、大悪魔アスタロトのものです。
「……一体ヤツは何もんだ。ガブリエル」
「訊いているのはわたくしですが」
「知ってることを話せっつってんだよ!」
ガブリエルママは深くため息を吐くと、
メガネを押し上げ、刃のように鋭い目つきで静かに語り始めます。
「異世界の邪神――這いよる混沌、ニャルラトホテプですよ」
「はあ……!? 馬鹿にしてんのか? あれは創作神話だぞ?」
「いいえ、本当ですよ。わたし、ミカエルが保証します」
ミカエルさんのその一言で、あすか先生……いえ、アスタロトの表情がさらに強ばります。
天界序列一位、最高の天使がそう言うのです。
その意味を、アスタロトは元大悪魔としてよく知っています。
「改めてわたしが伺いましょう……どこですか?」
「……奴だ」
アスタロトは会場の奥、段幕で囲まれた休憩室で佇む、赤い髪を後ろで束ねた若い女性を指さします。
瞬間、ガブリエルママとミカエルの表情が殺気立ち、
バアルゼブルは羅刹のような殺気を隠しもせずに放ちます。
すると、それに気が付いたのか、なない先生が微かに微笑みました。
それは――『嘲笑』でした。
「……殺るか?」
アスタロトはこの時本気でしたが、元同僚のバアルゼブルが止めました。
「よしなさい。無駄ですよ」
「あたしが負けるって言いてえのか! ハエ公!」
「そうではありません。あれは間違いなく人間ですよ。一瞬で殺せます」
「だったら!」
足を前に出すアスタロトに対し、バアルゼブルは彼女の肩に手を置き、
その動きを制します。
「あれは人形です。殺したところで本体は無傷ですよ」
「……クソ……!」
アスタロトが地団駄を踏むと、なない先生は静かに近づきます。
「皆さん、顔が怖いです。どうかしましたか?」
なない先生の表情はとても甘く、一見魅力的です。
しかし、そこに感情はないように、バアルゼブルは感じました。
「失礼。貴女の表情があまりに醜かったものでして」
「まあ……蝿でも止まっていましたか?」
(私に蝿という言葉を使うか、やはりこの女……邪神だな)
「随分失礼なことを仰る女性だ」
「それはお互い様ではなくて? 蝿の王様」
「あいにくと、蝿は卒業したのですよ。混沌のお嬢さん」
なない先生……いえ、ナナイ・ルアは「ふふふ」と笑みを浮かべると、
まるで舞台女優のように、段幕の中を回ります。
そこに、異変を察したトリエルと、そしてあゆむが駆けつけます。
「あの人……」
「間違いない……」
ナナイ・ルアを見た途端、あゆむとトリエルの顔が強ばります。
彼女の動きは――クリスマスイブで見せたものと、寸分たがわず同じものでした。
「何が目的だ! ニャルラトホテプ!」
「私は七井 瑠亜ですよ?」
「下手な芝居はやめろ。もうわかってるんだ」
「ふふふ……私はただ、『笑顔』が好きなだけですよ」
あゆむは怒りで拳を強く握りしめますが、グッと堪えます。
ここで手を出したら、邪神の思うツボです。
「お前の言う『笑顔』ってなんだ?」
「『楽しい空間』こう言えばわかりますか?」
「人の心につけ込んで、自滅に追い込むのが楽しいのか!」
「ならば、『強制の笑顔』は良いと?」
「クッ……」
あゆむはナナイ・ルアのペースに呑まれ、押し黙ってしまいます。
トリエルは下を向き、その目には涙が溜まっているようにも見えました。
邪神の『嘲笑』が強まる……その時でした。
「楽しいじょ!」
サタンちゃんが声を張り上げ、豆を投げつけます。
「鬼は外でしゅ! 出てけでしゅー!」
ピピがすぐに駆けつけ、サタンちゃんを止めようとしますが、
サタンちゃんは止まりません。
「お前が人の幸せを決めつけるんじゃないじょ! 幸せは自由だじょ!」
「それが作られたものでも……? サタン“ちゃん”」
「妾思う、故に妾ありだじょ!」
サタンちゃんのその言葉に、あゆむとトリエルは目を見開きます。
(我思う故に我あり……か、たとえ『作られた存在』であっても、本物だと思う『心』は確かにある)
それは、作り変えられた存在である、サタンちゃんだからこそ言える言葉です。
たとえ自分が作られた存在でも、『笑顔』が強制的に与えられたものでも、
それが『本物』だと思う心は、確かに存在し、それをどうこうと、外から他人が決めることではない。
サタンちゃんはそう言い放ったのです。
パンパン――ナナイ・ルアは二回拍手を送ると、静かに両手を広げます。
「難しい言葉をよく知ってるのね。かっこいいわ」
「うるさいでしゅ! 鬼は外でしゅ!」
サタンちゃんは尚も豆を投げつけ、ナナイ・ルアを豆で追い払おうとします。
「豆は邪気を払うんでしゅ! 悪いやちゅは退散するんでしゅ! 出てけでしゅー!」
サタンちゃんの行動に、トリエルは大粒の涙を流し、あゆむはある決断を下します。
「トリエル、表の力を使え」
あゆむの言葉に、トリエルは一瞬、怯えたような表情を見せますが、
あゆむはトリエルの肩を掴み、再度言います。
「力を使え」
トリエルは静かにうなずくと、シルクハットを放り投げます。
彼女の頭上でハローが桜色に光り輝き、「Hello」とダジャレを言います。
するとどうでしょう。
会場から小さな鬼のおばけ達が次々と出現し、
アトラクションだと思った子供達は、大喜びで豆を次々と投げつけます。
「鬼は外ー!」「鬼は外ー!」
という無邪気な声と共に、会場では『笑顔』が溢れます。
その笑顔の『切っ掛け』は、確かにトリエルが作ったものかもしれません。
しかし、今無邪気に笑っている子供達の『笑顔』は、紛れもなく『本物』なのです。
ナナイ・ルアは「ククク」と笑うと、下を向き、手を叩きます。
「これは愉快愉快……」
彼女は顔をあげると甘い『嘲笑』を見せて、スカートを軽く広げます。
「豆を投げつけられたし、先生はこれで帰るわね? いずれ『また』」
そう言って、ナナイ・ルア……なない先生は立ち去り、
会場には笑い声だけがいつまでも残っていました。
あゆむは天を仰ぎます。空は青く、雲一つない。
部屋の天井にあった黒い染みのようなものは、ここにはありません。
でも、心の中で、ニャルラトホテプの嘲笑が微かに聞こえる気がします。
(お前の影は、俺達の笑顔で払うんだ)
あゆむも豆を投げます。トリエルが作った鬼に向かって、力強く。
祭りが終わると、皆で福豆を分け合います。トリエルは豆を一口かじり、満足げに言います。
「トリエル、今日はたくさん笑ったよ。本当に……ありがとう」
サタンちゃんは尻尾を振り回し、ピピは穏やかに微笑み、おばけ達は満足げに飛んでいきます。
ガブリエルママとミカエルさんは遠くから見守り、
バアルゼブルは紅茶の代わりに、お祭りの屋台で買ったお汁粉を振る舞います。
「あゆむのお金で買ったものです。どうぞ」
「次はお前の金で買えよ?」
お汁粉は甘く、温かくて、体に染み込むような味でした。
あゆむは拳を握り、思います。
(ニャルラトホテプ、何度だって俺達は笑顔でお前の薄ら笑いを跳ね除ける)
そこに迷いはありませんでした。
――――
次回 落ちてきた天使と同居することになった件。
「七井 瑠亜の嘲笑」にご期待ください。
サタンちゃんは、リボンが巻かれた愛らしい魔竜の尻尾をクルクルと回します。
部屋のおばけ達は、まるで猫じゃらしに釣られる子猫のように、
尻尾の動きに合わせてふよふよと宙を泳ぎ、捕まえようとしては――ペチン、
と尻尾に叩かれ、それが面白いのか、おばけ達は取っ替え引っ替えで遊んでいます。
「鬼を払って、今年一年の幸せを願う日ですよ」
ピピは前かがみの姿勢で、サタンちゃんに目線を合わせながら優しく説明します。
「鬼とはなんでしゅか?」
(んー……どう説明すればいいのでしょう)
「んー……悪いものです!」
「なら、妾の世界征服の邪魔をしゅる悪いやちゅりゃをやっちゅけりゅでしゅ!」
「世界征服も悪じゃろがい!」
「ふん! おまえには聞いてないじょ!」
「ほげぇ!!」
サタンちゃんは尻尾をムチのように打ち付けると、
じゃれていたおばけ達が、勢い余ってあゆむへ突進!
顔面に綺麗に直撃、追突し、痛みと冷たさと、ナス臭さが伝わります。
「わざとじゃないでゲスー」「でもちょっと面白かったザマスー」「てやんでーい」
あゆむはハンカチでナス臭い顔を拭くと、ふとトリエルを眺めます。
彼女はアンポンタンを指で回し、暇を潰しているように見えます。
アンポンタンはジャグリングをしたり、ベロベロバーでトリエルを笑わせようとしますが、
トリエルは薄い笑みを浮かべるのみです。
(やはり気にしているのか……だが不味いな)
あゆむは危機感を覚えていました。
(トリエルは笑うのが『怖く』なってきている)
これまでトリエルは、生前の少女『桜井恵美』の魂の願いに従い、
笑顔を絶対の救いと信じ、どんなことがあっても笑顔を届けようとしました。
トリエルにとって『笑顔』とは、単なる概念を超えたアイデンティティと言えるものであり、
存在意義にも等しいものです。
しかし、トリエルの笑顔はその『魂の願い』により魔力を持ちます。
桜井恵美は白血病が進行し、全身に激しい痛みが走っても『笑み』を浮かべ、『笑顔』を作り、
大好きな母親にすぐに良くなる、痛くなんてないと、悲しい嘘を最後まで突き通しました。
笑わなきゃ、笑わなきゃと、笑うことに一種の強迫観念を作り出し、
自らに笑顔を『強制』していました。
その笑顔に対するただならぬ思いが『魂の願い』となり、
笑顔の天使エミエルへと桜井恵美が転生し、
そのエミエルの強い意志を、表裏一体のトリエルがイタズラとして実行しているのです。
それは言うなれば笑顔の強制です。
トリエルは桜井恵美の生者の苦しみ、悲しみを『彼女』の願いに従って、
それを救いと信じ、ひたむきに実行し続けていたのです。
(皮肉だな……)
トリエルの薄い笑顔。心からではない、明らかに作られたそれ……
権能を、強制された笑顔を恐れたそれを見て、あゆむは『皮肉』と捉えます。
あゆむは鼻を押さえながら、顔に残るナス臭さを拭き取ります。
おばけ達はクスクスと無邪気に笑いながら、再びサタンちゃんの尻尾に集まってきます。
「じょっじょっじょー わらわっじょー しっぽが欲しいかそらやるじょー」
サタンちゃんは『はとぽっぽ』の替え歌を即興で作ると、尻尾を振り回し続け笑顔を振りまく一方、
ピピが困った顔であゆむに視線を向けます。
あゆむはピピの視線を追い、トリエルの方を再びチラリと見ます。
彼女はまだアンポンタンを指で回しているものの、その笑顔はますます薄く、まるで仮面のように見えます。
心の中で、あゆむは思います。
(このままでは、トリエルが壊れてしまうかもしれない)
それは直感です。
(笑顔の権能……それが今、トリエルを苦しめている。生前の願いが、心を縛っているんだ。
どうにかしなければ)
あゆむは深呼吸をし、天井を睨みつけます。
そこにあるのは黒い染み。
去年のクリスマスイブに、あゆむの部屋を訪れた邪神――ニャルラトホテプがつけたものです。
それは薄くなってきてはいるものの、あゆむ達を嘲笑う目のように、鈍く不気味な輝きを放っています。
『君達は考えなかったかい? 彼女の権能で救われた者達は、本当に幸せなのか……ってね』
かの邪神の声が、あゆむの脳裏に何度もリピートされます。
這いよる混沌は自らは直接手を下しません。
人の心の弱み、足掻こうとする意思、そうしたものを揺さぶり、
そして――嗤うのです。
結果……最後には自滅する。
けれど、邪神は心を痛めたりなどはしません。決して。
『僕は何もしてないよ? 君達が勝手に壊れたんだ。そうだろう?』
心の闇を揺さぶり、闇への抵抗を嘲笑い、自滅に導く者。
それがニャルラトホテプという邪神です。
そしてそれは、確実にじわじわと、トリエルを中心とした7畳の部屋を侵食していきます。
あゆむは天井の黒い染みを尚も睨みつけながら、拳を握りしめます。
ニャルラトホテプの嘲笑が耳に残る中、部屋の空気が重く淀んでいるのを感じます。
おばけ達の無邪気な笑い声が、逆に不気味に響きます。
(このままじゃダメだ。トリエルを救わないと……でも、どうやって?
天使の権能は魂の願いそのもの。剥ぎ取るなんてことができるか?)
ピピがそっと近づいてきます。彼女の手が、あゆむの袖を引きます。
「あゆむ様、わたくし……怖いです……」
あゆむはピピに視線を移し、ピピが指差す先を見ます。
「トリエルさん、あれ以来おかしいです。最近、笑顔がすごく固くて……」
サタンちゃんは尻尾を振り回すのを止め、部屋の空気を察知したのか、珍しく真剣な顔になります。
「じょー? なんか空気が悪いでしゅ……鬼の話じゃないでしゅ?」
あゆむは立ち上がり、トリエルに近づきます。
アンポンタンは、宙返りして明るく「べー」と舌を出しますが、
トリエルは反応しません。ただ、薄い笑みを貼り付けたまま、虚空を見つめています。
その様子を、部屋の隅でガブリエルママとミカエルさんが静かに見守ります。
「ガブリエル、手を貸さないのですか?」
「これはトリエル以上に、彼ら人間の問題です。
彼らで答えを見つけ、立ち向かわねばなりません」
「確かに……そうですね」
ガブリエルママは「安心しなさい。ミカエル」と確信しているようにささやき、微笑みます。
「彼らは負けませんよ。バアル」
「はい」
「紅茶の準備を。とっておきで」
「かしこまりました」
バアルゼブルはそう言うと、にこやかな笑みを浮かべ、ガブリエルママに敬礼します。
ミカエルさんは口角を上げて、そっと小説を開きます。
文章は読まず、フリだけして見守っているようです。
「トリエル……お前、笑うのが怖いのか?」
あゆむの問いに、トリエルはビクッと肩を震わせます。笑顔が一瞬、歪みます。
「え……? そんなこと、ないよ? ほら、トリエルはいつも通り……」
でも、その声は震えています。あゆむは彼女の肩に手を置き、優しく言います。
「無理しなくていい。権能の願いは、お前のものじゃない。お前はトリエルだ。
笑いたくない時は、笑わなくていいんだ」
トリエルの目から、ぽろりと涙が落ちます。笑顔が崩れ、初めて見るような苦痛の表情が浮かびます。
「でも……笑わなきゃ、みんなが悲しんじゃうよ……トリエルが生まれた意味が……」
部屋のおばけ達が、静かに集まってきます。サタンちゃんは尻尾を巻きつけ、ピピはワンピースの裾を握ります。
あゆむは深く息を吸い、決意します。
(ニャルラトホテプの罠だ。心の闇を揺さぶってる。でも、俺達は壊れない。トリエルを救うんだ)
「トリエル! お前の本当の願いはなんだ? 心から笑える世界だろ! それを信じろ!」
トリエルの瞳が赤と茶色にそれぞれ輝き始めます。権能の光が部屋を照らし、天井の染みが薄れていきます。
「辛い時は泣け! 本当の笑顔は、沢山の涙の裏にあるんだ!」
「……泣いていいの……? トリエルは、笑顔の天使だよ?」
トリエルの目からポロポロと涙がこぼれ落ちます。
おばけ達がトリエルに擦り寄り、サタンちゃんは尻尾を振り回し、
ピピがそっとトリエルの肩に手を置きます。
「笑顔の天使である以前に、お前はトリエルだ……そうだろ?」
トリエルは、あゆむの胸に飛び込むと、シャツをぎゅうっと掴み、
ひたすら泣きました。
背中の翼は小さく折りたたまれ、その姿は人間の少女のようです。
(これで、少しは前進したか……でも、邪神の影はまだ残ってる)
…………
ちーーーー!
「おいコラ! 俺のシャツで鼻かむな!」
「えへへっ……トリエルはイタズラの天使だもん」
「……そうだったな」
トリエルの目は、涙で赤く充血していましたが、
その表情は眩しく輝いているように見えました。
「皆さん、お茶にしませんか? ちょうど今、淹れたところです」
バアルゼブルが、ここで見計らったようにキッチンから現れ、
あゆむは口角を上げ、彼を見ると、彼もまた微かに微笑みます。
「どうせ俺の金で買ったやつだろうからな。俺の奢りだ」
「よくご存知で……フフフ」
あゆむが苦笑いを浮かべ、バアルゼブルを軽く睨みつける裏で、
ガブリエルママとミカエルさんは、互いに笑いを堪えながらそっと立ち上がります。
「わたくし達も行きましょう、ミカエル。人のお金で買ったものは全て美味しいですよ」
「本当に貴女は天使ですか……? まあいいですけど……」
部屋の中に、ダージリンのマスカットのような芳醇な香りが、ふわりと立ち込め、
皆が紅茶を口に含みます。
「うまいな」
あゆむはカップから上る湯気を眺め、薄くなった染みを確認すると、
部屋に視線を戻します。
そこには微かですが、確実に自然な、そして『本当の笑顔』がありました。
(見ていろ邪神野郎、お前のその嘲笑を、俺らは必ず跳ね返す)
あゆむの心に新たな決意と闘志が確かに生まれ、
薄くなった天井の黒い染み――邪神の残滓を改めて睨みつけ、再戦を決心します。
「そうです」
ここでピピが思い出したかのように、手を叩きます。
「どうした?」
あゆむの問に、ピピはいつもより明るい表情を作ります。
「今日は町内の節分豆まき祭りがあるんです! サタンちゃんのソロモン幼稚園主催なんですよ!」
「ほう……? サタンは知っておったのか?」
「そういうことはピピママに任せてるから、知らないじょー」
「まあ、お前はそういう奴だな」
(これはチャンスかもしれんな)
「折角だ、みんなで行こうぜ。トリエルも来るだろ?」
「……うん!」
トリエルは少しだけ考えたようですが、
そこには笑顔が戻っていました。
部屋の中が穏やかな空気に包まれたところで、あゆむは立ち上がります。
紅茶のカップを置くと、皆の視線が集まってきます。
「よし、決まりだ。みんなで節分豆まき祭りに行くぞ」
サタンちゃんは目を輝かせ、尻尾をブンブン振り回します。
「じょー! 妾の幼稚園が主催でしゅ! みんな、悪魔の仮面被って豆ぶつけりゅでしゅよ!」
ピピが慌てて手を振ります。
「サタンちゃん、豆は鬼に投げるんですよ? 悪魔にでもないです」
おばけ達は興奮した様子で、部屋中をふよふよと飛び回ります。
「豆まきだー!」「拾い食いだー!」「食べ放題よー!」
「楽しみでゲスー」「やってやるザマスー」「てやんでーい」
それぞれの意気込みを口にしながら、まるで祭りの予行演習のように、互いに豆を投げ合う真似を始めます。
あ、今霊気を丸めて、あゆむに飛ばしましたよ!
「痛てーぞ! あと拾い食いすんなよ!?」
トリエルは少し照れた様子で立ち上がり、アンポンタンをシルクハット、ゲザイトリオをポケットに、それぞれしまいます。
彼女の笑顔は、先ほどまでの仮面のようなものではなく、柔らかく自然です。
涙の跡が残る目元が、逆に彼女をより人間らしく見せます。
「みんなと一緒なら、きっと楽しいよね! えへへっ!」
ガブリエルママとミカエルさんが、静かにうなずきます。
バアルゼブルはカップを片付けながら、優雅に言います。
「私もお供しますよ。節分とは面白い風習です。悪魔の私には少々皮肉ですが、そこがまたいい」
あゆむは苦笑いを浮かべながら、コートを羽織ります。
外はまだまだ寒い2月。
しかし、祭りの賑わいが暖かさを運んでくる予感がします。
――――
町内の大きな公園に着くと、そこはすでに大勢の人で賑わっていました。
ソロモン幼稚園の主催だけあって、子供達が中心ですが、大人も混じって楽しげです。
ステージでは鬼の仮面を被った先生らが、参加者全員に豆を配っています。
空には紙吹雪が舞い、笑い声が響きます。
「わー、すごいでしゅ! 妾の幼稚園、がんばってるじょー!」
サタンちゃんは飛び跳ねて大喜びです。
彼女のブンブンという尻尾がうるさいので、ピピがリボンを解けないように巻き直します。
おばけ達は風船のフリをしてふよふよと浮いています。
あ、今一匹、子供に連れて行かれましたね。
「てやんでーい」
「……まあ、ほっときゃ戻ってくるじゃろ」
あゆむ達はステージ近くのベンチに座り、豆の入った袋を受け取ります。
祭りが本格的に始まると、鬼役の先生らがステージに登場します。
赤鬼、青鬼、それぞれの鬼のお面がコミカルで、子供達が一斉に豆を投げ始めます。
「鬼は外ー!」「福は内ー!」の掛け声が、会場中に広がります。
その時、ガブリエルママとバアルゼブルの視線はある一人の女性に向けられます。
その視線を追ったミカエルさんは、そっとガブリエルママに囁きます。
「彼女が七井 瑠亜ですか?」
「いえ、彼女は飛鳥 露都……アスタロトですよ。今はカタギのようですが」
そう言って、ガブリエルママはあすか先生を手招きで呼びます。
あすか先生は、苦虫を3ダースほど噛み潰したような表情で舌打ちをすると、
他の先生に一礼し、小走りで向かってきます。
「天使が何しに来やがった……!!」
「安心なさい。貴女に用はありませんよ、アスタロト」
「あん!?」
「単刀直入に言います。七井 瑠亜なる先生は誰ですか?」
『七井 瑠亜』
その名が出た途端、あすか先生は全てを察したように、強ばった表情に変化します。
それは人間、あすか先生ではなく、大悪魔アスタロトのものです。
「……一体ヤツは何もんだ。ガブリエル」
「訊いているのはわたくしですが」
「知ってることを話せっつってんだよ!」
ガブリエルママは深くため息を吐くと、
メガネを押し上げ、刃のように鋭い目つきで静かに語り始めます。
「異世界の邪神――這いよる混沌、ニャルラトホテプですよ」
「はあ……!? 馬鹿にしてんのか? あれは創作神話だぞ?」
「いいえ、本当ですよ。わたし、ミカエルが保証します」
ミカエルさんのその一言で、あすか先生……いえ、アスタロトの表情がさらに強ばります。
天界序列一位、最高の天使がそう言うのです。
その意味を、アスタロトは元大悪魔としてよく知っています。
「改めてわたしが伺いましょう……どこですか?」
「……奴だ」
アスタロトは会場の奥、段幕で囲まれた休憩室で佇む、赤い髪を後ろで束ねた若い女性を指さします。
瞬間、ガブリエルママとミカエルの表情が殺気立ち、
バアルゼブルは羅刹のような殺気を隠しもせずに放ちます。
すると、それに気が付いたのか、なない先生が微かに微笑みました。
それは――『嘲笑』でした。
「……殺るか?」
アスタロトはこの時本気でしたが、元同僚のバアルゼブルが止めました。
「よしなさい。無駄ですよ」
「あたしが負けるって言いてえのか! ハエ公!」
「そうではありません。あれは間違いなく人間ですよ。一瞬で殺せます」
「だったら!」
足を前に出すアスタロトに対し、バアルゼブルは彼女の肩に手を置き、
その動きを制します。
「あれは人形です。殺したところで本体は無傷ですよ」
「……クソ……!」
アスタロトが地団駄を踏むと、なない先生は静かに近づきます。
「皆さん、顔が怖いです。どうかしましたか?」
なない先生の表情はとても甘く、一見魅力的です。
しかし、そこに感情はないように、バアルゼブルは感じました。
「失礼。貴女の表情があまりに醜かったものでして」
「まあ……蝿でも止まっていましたか?」
(私に蝿という言葉を使うか、やはりこの女……邪神だな)
「随分失礼なことを仰る女性だ」
「それはお互い様ではなくて? 蝿の王様」
「あいにくと、蝿は卒業したのですよ。混沌のお嬢さん」
なない先生……いえ、ナナイ・ルアは「ふふふ」と笑みを浮かべると、
まるで舞台女優のように、段幕の中を回ります。
そこに、異変を察したトリエルと、そしてあゆむが駆けつけます。
「あの人……」
「間違いない……」
ナナイ・ルアを見た途端、あゆむとトリエルの顔が強ばります。
彼女の動きは――クリスマスイブで見せたものと、寸分たがわず同じものでした。
「何が目的だ! ニャルラトホテプ!」
「私は七井 瑠亜ですよ?」
「下手な芝居はやめろ。もうわかってるんだ」
「ふふふ……私はただ、『笑顔』が好きなだけですよ」
あゆむは怒りで拳を強く握りしめますが、グッと堪えます。
ここで手を出したら、邪神の思うツボです。
「お前の言う『笑顔』ってなんだ?」
「『楽しい空間』こう言えばわかりますか?」
「人の心につけ込んで、自滅に追い込むのが楽しいのか!」
「ならば、『強制の笑顔』は良いと?」
「クッ……」
あゆむはナナイ・ルアのペースに呑まれ、押し黙ってしまいます。
トリエルは下を向き、その目には涙が溜まっているようにも見えました。
邪神の『嘲笑』が強まる……その時でした。
「楽しいじょ!」
サタンちゃんが声を張り上げ、豆を投げつけます。
「鬼は外でしゅ! 出てけでしゅー!」
ピピがすぐに駆けつけ、サタンちゃんを止めようとしますが、
サタンちゃんは止まりません。
「お前が人の幸せを決めつけるんじゃないじょ! 幸せは自由だじょ!」
「それが作られたものでも……? サタン“ちゃん”」
「妾思う、故に妾ありだじょ!」
サタンちゃんのその言葉に、あゆむとトリエルは目を見開きます。
(我思う故に我あり……か、たとえ『作られた存在』であっても、本物だと思う『心』は確かにある)
それは、作り変えられた存在である、サタンちゃんだからこそ言える言葉です。
たとえ自分が作られた存在でも、『笑顔』が強制的に与えられたものでも、
それが『本物』だと思う心は、確かに存在し、それをどうこうと、外から他人が決めることではない。
サタンちゃんはそう言い放ったのです。
パンパン――ナナイ・ルアは二回拍手を送ると、静かに両手を広げます。
「難しい言葉をよく知ってるのね。かっこいいわ」
「うるさいでしゅ! 鬼は外でしゅ!」
サタンちゃんは尚も豆を投げつけ、ナナイ・ルアを豆で追い払おうとします。
「豆は邪気を払うんでしゅ! 悪いやちゅは退散するんでしゅ! 出てけでしゅー!」
サタンちゃんの行動に、トリエルは大粒の涙を流し、あゆむはある決断を下します。
「トリエル、表の力を使え」
あゆむの言葉に、トリエルは一瞬、怯えたような表情を見せますが、
あゆむはトリエルの肩を掴み、再度言います。
「力を使え」
トリエルは静かにうなずくと、シルクハットを放り投げます。
彼女の頭上でハローが桜色に光り輝き、「Hello」とダジャレを言います。
するとどうでしょう。
会場から小さな鬼のおばけ達が次々と出現し、
アトラクションだと思った子供達は、大喜びで豆を次々と投げつけます。
「鬼は外ー!」「鬼は外ー!」
という無邪気な声と共に、会場では『笑顔』が溢れます。
その笑顔の『切っ掛け』は、確かにトリエルが作ったものかもしれません。
しかし、今無邪気に笑っている子供達の『笑顔』は、紛れもなく『本物』なのです。
ナナイ・ルアは「ククク」と笑うと、下を向き、手を叩きます。
「これは愉快愉快……」
彼女は顔をあげると甘い『嘲笑』を見せて、スカートを軽く広げます。
「豆を投げつけられたし、先生はこれで帰るわね? いずれ『また』」
そう言って、ナナイ・ルア……なない先生は立ち去り、
会場には笑い声だけがいつまでも残っていました。
あゆむは天を仰ぎます。空は青く、雲一つない。
部屋の天井にあった黒い染みのようなものは、ここにはありません。
でも、心の中で、ニャルラトホテプの嘲笑が微かに聞こえる気がします。
(お前の影は、俺達の笑顔で払うんだ)
あゆむも豆を投げます。トリエルが作った鬼に向かって、力強く。
祭りが終わると、皆で福豆を分け合います。トリエルは豆を一口かじり、満足げに言います。
「トリエル、今日はたくさん笑ったよ。本当に……ありがとう」
サタンちゃんは尻尾を振り回し、ピピは穏やかに微笑み、おばけ達は満足げに飛んでいきます。
ガブリエルママとミカエルさんは遠くから見守り、
バアルゼブルは紅茶の代わりに、お祭りの屋台で買ったお汁粉を振る舞います。
「あゆむのお金で買ったものです。どうぞ」
「次はお前の金で買えよ?」
お汁粉は甘く、温かくて、体に染み込むような味でした。
あゆむは拳を握り、思います。
(ニャルラトホテプ、何度だって俺達は笑顔でお前の薄ら笑いを跳ね除ける)
そこに迷いはありませんでした。
――――
次回 落ちてきた天使と同居することになった件。
「七井 瑠亜の嘲笑」にご期待ください。
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