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第1章
第30話:二つの工房と迫る時
しおりを挟む王都の一月(ひとつき)はアルトマールのそれとは比較にならないほど速く過ぎる。
俺はルクスブルク公爵邸の一室に半ば軟禁され、ただひたすら分析に没頭していた。屋敷の外にはオルデンブルク侯爵の放った間者たちが俺の動向を監視している。彼らにとって俺は籠の中の鳥。レースまでの時間を無為に過ごすだけの、敗北が決定した駒だった。
彼らの油断こそが俺の最大の武器だった。
書斎に運び込まれた王国海軍の機密資料。それを読み解くうちに、俺は勝利への細く、しかし確実な一本の糸を見出していた。
「……これか」
俺は王国海軍最新鋭艦『ヴィクトワール号』の設計図を睨みつけ呟いた。
アウグスト公爵の言う通り、あの船は怪物だ。マストの高さ、帆の総面積、全てがテンペストを上回る。特に追い風を受けた時の最高速度は理論上テンペストに匹敵、あるいは凌駕する。
だが、その強さこそが奴の弱点だった。
「重すぎる」
威信を保つため、船体は必要以上に装飾され、重厚な木材が使われている。そして、海軍の定石通り、多数の大砲を搭載するための頑丈すぎる構造。
レース当日の風が弱ければ、あの巨体は加速すらままならない。逆に、風が強すぎれば、その重さゆえに小回りが利かず、複雑な航路(コース)では致命的な遅れを生む。
俺の勝機はそこにしかなかった。
テンペストの『軽量化』と『運動性能』を極限まで高めること。
そして、ゲオルグとマーサが俺の要求した『部品』を間に合わせること。
俺はレース海域の過去の気象データから、ある一つのパターンを導き出していた。
「レース当日、午後の特定の時間。必ず風が止む時間(・・・・・)がある」
その『凪(なぎ)』こそが俺が仕掛ける罠だった。
その頃、俺の密命を帯びたテンペストはアルトマール港に帰還していた。
ダリオが俺の親書をセラフィーナに手渡す。王都での出来事、そして国王の裁定を読んだ彼女の顔は氷のように冷たくなった。
「……御前レース。オルデンブルク侯も随分と悪趣味な舞台を用意してくれたものだわ」
彼女はすぐにゲオルグとマーサを召集した。
造船所に集まった三人の前で、俺がダリオに託したもう一つの設計図が広げられる。
それを見たゲオルグは絶句した。
「……若様は気でも狂ったか」
そこに描かれていたのは船の部品ではなかった。
それはゲオルグの技術でしか作れない、極薄の木材を積層して作り上げる巨大な『翼』のようなパーツ。そして、マーサの絹を特殊な樹脂で塗り固めた、まるで昆虫の羽のような軽量な『外板』だった。
「若様はテンペストを改造するんじゃねえ」
ゲオルグは震える声で言った。
「船の上にもう一つの『翼』を載せるつもりだ。風が止んだ時、人力(・・)で船を進ませるための巨大な『推進器(プロペラ)』……いや、『櫂(かい)』だ。これは……」
「『回転式広翼推進器(ロータリー・ウィング)』とミナトは呼んでいるわ」
セラフィーナが俺の設計図の片隅に書かれた文字を読み上げた。
「風が止んだ時、あの重いヴィクトワール号は海の上で立ち往生する。その隙に、我々はこの『人力の翼』で彼らを抜き去る。……これがミナトの描いた勝利の筋書きよ」
「馬鹿げてる!」
ダリオが叫んだ。「あんなものを船に積んだら重さで速度が落ちる!第一、そんなものを動かす動力がどこに!」
「動力はここにある」
セラフィーナは港で強制労働に従事する、元海賊たちを指差した。
「ザラードたちよ。彼らの有り余る筋力をこの推進器の動力源とする。ミナトはあの海賊たちすら、レースの駒として計算に入れていたのよ」
ゲオルグとダリオはもはや言葉を失っていた。あの若き代官の思考は常人の遥か先を行っている。
「ゲオルグ。マーサ」
セラフィーナが命令を下す。
「残された時間は三週間。アルトマール特区の、いえ、ルクスブルク家の総力を挙げて、この『翼』を完成させなさい。アルトマールの存亡はあなたたちのその手にかかっているわ」
「……ハッ。やってやろうじゃねえか!」
ゲオルグが工房に火を入れた。「王都の連中に、俺たちの本当の技術(チカラ)を見せつけてやる!」
アルトマール港は王都の政治闘争の最前線として、再び不眠不休の工房と化した。
一方、王都では、オルデンブルク侯爵がキルヒハイムからの報告を受けていた。
「……ミナト・アークライトは屋敷に閉じこもり、資料を読んでいるだけ、か。つまらん男よ。てっきり脱走でも企(くわだ)てるかと思ったが」
「はっ。もはやレースでの敗北を待つだけの様子」
「油断はするな。だが、念には念を入れよ」
オルデンブルク侯爵は冷たい笑みを浮かべた。
「アルトマールから戻ってくるという、あの黒い船。……それがレース当日までに、王都に無事、着かなければ(・・・・・・)、それで勝負は決まるな?」
「御意に」
キルヒハイムは深々と頭を下げた。
王都の政敵たちは俺の切り札が、今まさにアルトマールの海で産声を上げようとしていることなど、知る由もなかった。
彼らはすでに次の妨害工作を秘密裏に開始していた。
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