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第2話 密室の取引
しおりを挟む午後二十一時五十分。
都心の夜景を一望できる五つ星ホテル「グラン・ミラージュ」。その最上階にあるスイートルームの前に、私は立っていた。
SPは巻いた。秘書には「偏頭痛が酷いので官邸の私邸で休む。誰の取り次ぎもするな」と厳命してある。
深めに被った帽子のつばと、大きなマスク。地味なパンツスーツ。鏡に映った自分の姿は、一国の総理大臣には到底見えなかっただろう。ただの、後ろめたい秘密を抱えた女だ。
カードキーを差し込む手が震える。
ガチャリ、と電子ロックが解除される乾いた音が、断頭台の音のように響いた。
「……遅いじゃないか」
重厚な扉を開けると、リビングのソファに加賀美瑛士が座っていた。
国会で見せるきっちりとしたスーツ姿ではない。シャワーを浴びた直後なのだろうか、白いシャツのボタンを胸元まで開け、濡れた前髪が無造作に額にかかっている。片手にはウィスキーのグラス。
そのリラックスした姿が、逆に私を萎縮させた。ここは彼のテリトリーなのだ。
私は帽子とマスクを外し、努めて冷静な声を作る。
「約束の時間前よ。……それで、話って何? スキャンダルのネタって」
瑛士はグラスをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がった。
長身の彼が近づいてくると、室内の空気が一気に薄くなるような圧迫感を覚える。彼は私の前で立ち止まると、面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
「相変わらずだな、凛。十年ぶりに二人きりになった元恋人に対して、挨拶もなしか」
「感傷に浸るつもりはないわ。私は総理として、危機管理のために来ただけ」
「総理として、か」
瑛士の手が伸び、私の顎を強引に上向かせた。
抵抗しようとしたが、その指の力は強く、逃げられない。
「十年前、俺を捨てて選んだ権力の味はどうだ? 孤独で、寒くて、誰にも頼れない場所だろう?」
「……離して」
「お前の党の幹事長、裏で動いてるぞ。次の選挙で凛を引きずり下ろして、自分が椅子に座るつもりだ。その証拠音声、俺の手元にある」
息を呑んだ。
党内の不穏な動きは察知していたが、まさかそこまで具体的になっていたとは。もしそれが野党党首である瑛士から暴露されれば、内閣不信任案の可決は免れない。
「……いくら欲しいの?」
「金?」
瑛士は呆れたように笑い、ふいに私の腰に腕を回して引き寄せた。
ドン、と胸板に顔が押し付けられる。彼の体温と、微かなムスクの香りが脳を痺れさせる。
「俺の実家が資産家なのを知ってるだろう。金なんて腐るほどある」
「じゃあ、ポスト? 連立政権でも組みたいの?」
「そんな面倒なものはいらない。俺が欲しいのは……」
彼の顔が近づき、唇が触れそうな距離で止まる。
熱っぽい瞳。獲物を完全に追い詰めた猛獣の目。
「お前だ、凛」
「……っ!」
「俺の女に戻れ。総理大臣としての権限も、プライドも、身体も。全部俺に預けろ」
あまりに不遜な要求に、頭が真っ白になる。
「馬鹿なこと言わないで! 私は一国の……」
「なら、帰っていいぞ。明日の朝刊が一面トップで報じるだけだ。『女性総理、党内に見捨てられ退陣へ』とな」
彼は拘束を緩めた。
逃げようと思えば逃げられる。けれど、足が動かない。
今、ここで帰れば、私は全てを失う。長年の夢も、積み上げてきた政策も、何もかも。
それを分かっていて、彼は私を試しているのだ。
「……卑怯よ、瑛士」
「知ってるさ。お前に捨てられたあの日から、俺は聖人君子であることをやめたんだ」
瑛士の手が、私のジャケットのボタンに掛かる。
拒絶しなければならない。けれど、身体の奥底が熱く疼くのを止められない。
十年前、愛し合った記憶。彼だけが私を「ただの凛」として見てくれた、あの日々。
孤独な頂点に立ち続けてきた私の心は、敵であるはずの彼の腕の中で、皮肉にも安らぎを求めていた。
「いい子だ」
抵抗しない私を見て、瑛士は満足げに囁く。
そして、私の唇を塞いだ。
国会論戦のような駆け引きのない、一方的で、深く、所有欲に満ちたキス。
私の思考はそこでプツリと途切れ、泥沼のような背徳の夜へと堕ちていった。
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