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第二章
嘆きの聖女
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「……………………」
少女は静かに、祈りを捧げていた。
手を組み、跪き、頭を垂れて。
しん、と静まり返る聖堂の中には、少女の姿だけ。
他には誰もいない。
大陸中央部からやや西に位置するファムール聖王国には一万人を超える『天使教』信徒が暮らしているが、人目を避けるように日付の変わる時間から礼拝を始めるのはこの少女────マリアベルだけだ。
マリアベルは、もうかれこれ一時間以上も同じ姿勢のまま、微動だにしていなかった。
「……………………」
まるで彫像のように固まっていたマリアベルが、無言のまま顔を上げる。
仄かな光を放ち続ける白輝石で作られた四方の壁が、その顔を照らした。
子供のように小さい顔。
艶のある水色の髪。
情けないほど細い眉。
そして左右対称な目鼻立ち。
醜悪を寄せ集めたような容姿だった。
聖堂の奥に安置されている、この世の美を象徴するかのような『天使ファナカ』の像とは、真逆だといっていい。
マリアベルは立ち上がると、額と胸に順に手を当て、天使への信仰を表す仕草をした。
「…………ファナカ様…………私は…………」
そしてか細い声で何かを言いかけ、また黙り込む。
この数日、毎日繰り返していることだった。
どれだけ祈りを捧げても心が晴れることはなく、それどころか日が経つごとにその苦しさは増しているように感じられた。
「…………〈伝達〉を確認」
マリアベルは、その苦しさの原因である仲間からのメッセージを開く。
もう内容は暗記してしまっているが、それでも読まずにはいられなかった。
────────────────────────
『はぐれ者達の全員に告ぐ。私は今日、ひとりの少年を手に入れた。黒い瞳と黒い髪を持つその少年は、私のような醜い容姿を持つ者を忌避しない…………いや、忌避しないどころか好意的な感情を向けてくれる奇跡のような存在だった。
人を愛し、人から愛されることなど諦めかけていた私のことを、彼は救ってくれた。
だから…………だから、皆にも少年に会って欲しい。
彼が皆のことを等しく受け入れてくれるかどうかは分からない。
しかし私は、彼の愛が皆にも与えられることを心から願っている。
怖いのは分かる。
信じられないのも分かる。
だが、信じてくれ。
セバルの家で待っている。
追伸:ちなみに、私はもうセックスした。
…………すごかった』
────────────────────────
マリアベルは頭の中に浮かんだ文字を読み終えると、閉じられたままの瞳から静かに涙を流し、胸元に置いた手をキュッと握り締めた。
その脳裏に浮かぶのは、まだ彼女が八歳だった十年前の光景。
光を失う前に見た、最後の光景だ。
◇
A級冒険者パーティー『はぐれ者達』の癒し手にして、高位回復術司祭でもあるマリアベル。
彼女の人生は、辛い生い立ちを持つ仲間たちとは違い、少なくとも八歳になるまでは幸せなものだった。
醜い容姿を持って生まれたが、マリアベルの両親は愛情深く、また裕福な商人であったからだ。
家の中から出ることはなく、両親以外の人間と会うこともなかったが、マリアベルはそれで満足していた。
優しく家庭的な父親と、精力的に仕事をこなす頼もしい母親。
その二人が自分を愛してくれるだけで十分だった。
マリアベルの世界は、狭いが完璧なものだったのだ。
だが彼女が八歳になった年、その完璧な世界は崩されることになる。
家に、強盗が入ったのだ。
しかも最悪なことに、ただの強盗ではなかった。
マリアベルの家に押し入ってきたのは、当時世間を賑わせていた『血頭のシルビア』という名の凶賊だった。
シルビアは金品を強奪するだけでなく、押し入った家の住人を皆殺しにし、その首を家の外に置いていくという残忍な犯行を繰り返す殺人鬼でもあった。
ティナーク王国の騎士団が、何人もの冒険者が、シルビアを捕らえようと必死に捜査をしていたが、それをあざ笑うかのように凶行が止まることはなかった。
そして、その日は訪れた。
マリアベルは今でも克明に覚えている。
家族三人で夕食をとり終えた後、母親が仕入れなどで訪れた遠くの国の話を面白おかしく語り聞かせてくれていた時のことだ。
朗らかな笑顔をマリアベルに向けていた父親が、突然うめき声を上げた。
正面に座っていたマリアベルには、何が起きたのかまるで分からなかった。
突然目の前に光が差したようにしか見えなかったのだ。
その光は、父親の胸を後ろから貫いた剣の切っ先だった。
剣がゆっくりと父親の中に引き戻されていき、食卓に崩れ落ちた父親の後ろから現れたのは、陰惨な笑みを浮かべながらマリアベルを見つめる女────シルビア。
恐怖に固まるマリアベルの横で、影が動いた。
母親だ。
ただの商人であるにも関わらず、母親はシルビアに掴みかかっていった。
実力差は歴然だったが、それでも必死にしがみつき、声を上げた。
『逃げろ』と。
マリアベルは弾かれたように立ち上がり、家の外に走り出た。
一人で外に出たことなど、一度もない。
それでもマリアベルは、見慣れぬ夜の街を大声で助けを求めながら走り続けた。
自分が助かりたかったのではない。
両親を助けたかった。
まだ生きて抵抗しているはずの母親を、治療すれば助かるかも知れない父親を、八歳のマリアベルは自分の命と引換にしても助けたかった。
闇雲に助けを求め続けながら走った先で、マリアベルは教会にたどり着く。
夜の闇の中で白く輝きを放つその建物は希望の光であるように思え、マリアベルは扉を開いた。
中にいた神官たちはマリアベルを見て顔を顰めたが、必死に助けを求める声に応えて騎士団を呼んでくれた。
焦りと恐怖から時間の感覚もなくなっていたが、実際には騎士団が現れるまで十分と掛からなかっただろう。
マリアベルは、騎士団が到着するなり家に向かって走り出した。
ずっと家に篭っていたマリアベルの心臓や肺は限界を超え、喉の奥からは血の味がこみ上げてきていたが、そんなことはどうでもよかった。
一刻も早く両親を助けなければという思いだけが、マリアベルの小さな体を動かしていた。
そして、息も絶え絶えになりながら家にたどり着いたマリアベルを待っていたのは────
────二つ並んで家の前に置かれた、両親の首だった。
耳元で大きな音が聞こえた。
それが自分の叫び声だと気づいたのは、喉が枯れ声が出なくなってからだった。
◇
それからのことは、朧げにしか覚えていない。
気づけば両親の遺体は神官によって埋葬されており。
気づけば両親とともに暮らした家や母親が稼いだ財産は、会ったこともない親族によって奪われていた。
そしてマリアベルの身柄は、天使教の修道院に引き渡されていた。
親族たちが財産を相続するためには、マリアベルの存在が邪魔だったのだろう。
皮肉なことに、預けられた修道院でマリアベルには回復術に対する天賦の才があることが発覚するが、それはかえってマリアベルを苦しめるだけだった。
もっと早くにこの才能に気づけていたなら、あの時両親を救えていたかもしれないのだ。
失ったものはあまりに大きく、そしてマリアベルに与えられた新しい世界は苦痛に満ちていた。
醜い外見は蔑みや嫌悪を、類稀な才能は嫉みや妬《ねた》みを生み、両親を失ったばかりの幼い少女に襲いかかっていった。
向けられるのは悪意ある視線ばかりで、優しい眼差しも慈しむような微笑みも、もはや記憶の中にしか存在しない。
だからマリアベルは絶望のあまり…………
自らの目を、閉ざしたのだった。
少女は静かに、祈りを捧げていた。
手を組み、跪き、頭を垂れて。
しん、と静まり返る聖堂の中には、少女の姿だけ。
他には誰もいない。
大陸中央部からやや西に位置するファムール聖王国には一万人を超える『天使教』信徒が暮らしているが、人目を避けるように日付の変わる時間から礼拝を始めるのはこの少女────マリアベルだけだ。
マリアベルは、もうかれこれ一時間以上も同じ姿勢のまま、微動だにしていなかった。
「……………………」
まるで彫像のように固まっていたマリアベルが、無言のまま顔を上げる。
仄かな光を放ち続ける白輝石で作られた四方の壁が、その顔を照らした。
子供のように小さい顔。
艶のある水色の髪。
情けないほど細い眉。
そして左右対称な目鼻立ち。
醜悪を寄せ集めたような容姿だった。
聖堂の奥に安置されている、この世の美を象徴するかのような『天使ファナカ』の像とは、真逆だといっていい。
マリアベルは立ち上がると、額と胸に順に手を当て、天使への信仰を表す仕草をした。
「…………ファナカ様…………私は…………」
そしてか細い声で何かを言いかけ、また黙り込む。
この数日、毎日繰り返していることだった。
どれだけ祈りを捧げても心が晴れることはなく、それどころか日が経つごとにその苦しさは増しているように感じられた。
「…………〈伝達〉を確認」
マリアベルは、その苦しさの原因である仲間からのメッセージを開く。
もう内容は暗記してしまっているが、それでも読まずにはいられなかった。
────────────────────────
『はぐれ者達の全員に告ぐ。私は今日、ひとりの少年を手に入れた。黒い瞳と黒い髪を持つその少年は、私のような醜い容姿を持つ者を忌避しない…………いや、忌避しないどころか好意的な感情を向けてくれる奇跡のような存在だった。
人を愛し、人から愛されることなど諦めかけていた私のことを、彼は救ってくれた。
だから…………だから、皆にも少年に会って欲しい。
彼が皆のことを等しく受け入れてくれるかどうかは分からない。
しかし私は、彼の愛が皆にも与えられることを心から願っている。
怖いのは分かる。
信じられないのも分かる。
だが、信じてくれ。
セバルの家で待っている。
追伸:ちなみに、私はもうセックスした。
…………すごかった』
────────────────────────
マリアベルは頭の中に浮かんだ文字を読み終えると、閉じられたままの瞳から静かに涙を流し、胸元に置いた手をキュッと握り締めた。
その脳裏に浮かぶのは、まだ彼女が八歳だった十年前の光景。
光を失う前に見た、最後の光景だ。
◇
A級冒険者パーティー『はぐれ者達』の癒し手にして、高位回復術司祭でもあるマリアベル。
彼女の人生は、辛い生い立ちを持つ仲間たちとは違い、少なくとも八歳になるまでは幸せなものだった。
醜い容姿を持って生まれたが、マリアベルの両親は愛情深く、また裕福な商人であったからだ。
家の中から出ることはなく、両親以外の人間と会うこともなかったが、マリアベルはそれで満足していた。
優しく家庭的な父親と、精力的に仕事をこなす頼もしい母親。
その二人が自分を愛してくれるだけで十分だった。
マリアベルの世界は、狭いが完璧なものだったのだ。
だが彼女が八歳になった年、その完璧な世界は崩されることになる。
家に、強盗が入ったのだ。
しかも最悪なことに、ただの強盗ではなかった。
マリアベルの家に押し入ってきたのは、当時世間を賑わせていた『血頭のシルビア』という名の凶賊だった。
シルビアは金品を強奪するだけでなく、押し入った家の住人を皆殺しにし、その首を家の外に置いていくという残忍な犯行を繰り返す殺人鬼でもあった。
ティナーク王国の騎士団が、何人もの冒険者が、シルビアを捕らえようと必死に捜査をしていたが、それをあざ笑うかのように凶行が止まることはなかった。
そして、その日は訪れた。
マリアベルは今でも克明に覚えている。
家族三人で夕食をとり終えた後、母親が仕入れなどで訪れた遠くの国の話を面白おかしく語り聞かせてくれていた時のことだ。
朗らかな笑顔をマリアベルに向けていた父親が、突然うめき声を上げた。
正面に座っていたマリアベルには、何が起きたのかまるで分からなかった。
突然目の前に光が差したようにしか見えなかったのだ。
その光は、父親の胸を後ろから貫いた剣の切っ先だった。
剣がゆっくりと父親の中に引き戻されていき、食卓に崩れ落ちた父親の後ろから現れたのは、陰惨な笑みを浮かべながらマリアベルを見つめる女────シルビア。
恐怖に固まるマリアベルの横で、影が動いた。
母親だ。
ただの商人であるにも関わらず、母親はシルビアに掴みかかっていった。
実力差は歴然だったが、それでも必死にしがみつき、声を上げた。
『逃げろ』と。
マリアベルは弾かれたように立ち上がり、家の外に走り出た。
一人で外に出たことなど、一度もない。
それでもマリアベルは、見慣れぬ夜の街を大声で助けを求めながら走り続けた。
自分が助かりたかったのではない。
両親を助けたかった。
まだ生きて抵抗しているはずの母親を、治療すれば助かるかも知れない父親を、八歳のマリアベルは自分の命と引換にしても助けたかった。
闇雲に助けを求め続けながら走った先で、マリアベルは教会にたどり着く。
夜の闇の中で白く輝きを放つその建物は希望の光であるように思え、マリアベルは扉を開いた。
中にいた神官たちはマリアベルを見て顔を顰めたが、必死に助けを求める声に応えて騎士団を呼んでくれた。
焦りと恐怖から時間の感覚もなくなっていたが、実際には騎士団が現れるまで十分と掛からなかっただろう。
マリアベルは、騎士団が到着するなり家に向かって走り出した。
ずっと家に篭っていたマリアベルの心臓や肺は限界を超え、喉の奥からは血の味がこみ上げてきていたが、そんなことはどうでもよかった。
一刻も早く両親を助けなければという思いだけが、マリアベルの小さな体を動かしていた。
そして、息も絶え絶えになりながら家にたどり着いたマリアベルを待っていたのは────
────二つ並んで家の前に置かれた、両親の首だった。
耳元で大きな音が聞こえた。
それが自分の叫び声だと気づいたのは、喉が枯れ声が出なくなってからだった。
◇
それからのことは、朧げにしか覚えていない。
気づけば両親の遺体は神官によって埋葬されており。
気づけば両親とともに暮らした家や母親が稼いだ財産は、会ったこともない親族によって奪われていた。
そしてマリアベルの身柄は、天使教の修道院に引き渡されていた。
親族たちが財産を相続するためには、マリアベルの存在が邪魔だったのだろう。
皮肉なことに、預けられた修道院でマリアベルには回復術に対する天賦の才があることが発覚するが、それはかえってマリアベルを苦しめるだけだった。
もっと早くにこの才能に気づけていたなら、あの時両親を救えていたかもしれないのだ。
失ったものはあまりに大きく、そしてマリアベルに与えられた新しい世界は苦痛に満ちていた。
醜い外見は蔑みや嫌悪を、類稀な才能は嫉みや妬《ねた》みを生み、両親を失ったばかりの幼い少女に襲いかかっていった。
向けられるのは悪意ある視線ばかりで、優しい眼差しも慈しむような微笑みも、もはや記憶の中にしか存在しない。
だからマリアベルは絶望のあまり…………
自らの目を、閉ざしたのだった。
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