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第一章
ステファニー嬢
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結局、バスルームとその後ベッドの上でも散々に貪られて、わたしは翌朝、起き上ることもできなかった。
殿下が元気に出勤していかれるのを、ベッドの上で見送り、ようやく昼近くになって起きることができた。ノーラの用意したブランチをベッドの上でいただき、何とか昼過ぎに司令部に出勤した。――二日連続でおやすみするのはわたしのプライドが許さなかった。わたしはあくまで、殿下の秘書官であって、秘書官に偽装した愛人ではないのだから。
殿下のサイン済みの書類をいくつかまとめて、本部の事務室に持っていく。そちらの事務官に渡して事務室を出たところで、背後から呼び止められた。
「……ハートネル中尉……」
「話が、あるんだ」
「今は職務中で――」
「長くはならない」
何となく逆らえない雰囲気を感じて、わたしは本部の建物の中庭に出た。四角い中庭の周囲はテラス状の回廊が囲んでいて、中央に四角い池があり、ベンチもある。ただ日差しの強い時間帯なので、わたしは人気のない回廊の隅の方に行って、ハートネル中尉を振り返った。
「お話って?」
「……おばあ様が、入院したそうだね」
「ええ……誰から?」
「マリアン・ブレイズ嬢が喋りまくっているよ」
わたしは溜息をついた。
「そうですか……」
「それと、君と、殿下のことが噂になっている」
「それも、マリアンが?」
ハートネル中尉は赤い髪をかき上げながら首を振る。
「いや、その噂は出所ははっきりしない」
「……噂は、仕方がないけど、本当ではないわ」
「おばあ様の入院費用を殿下に肩代わりしてもらって、代わりに身体を差し出したのか?」
ハートネル中尉の榛色の瞳が、わたしを見下ろしてギラギラ光っている。その通りだが、認めるわけにはいかない。
「……一部、立て替えていただきましたが、そんなことは――」
突如、ハートネル中尉の腕がわたしの襟元に伸び、わたしのタイを締めたシャツの襟を緩める。
「! 何を……!」
わたしが飛び退ろうとするよりも早く、ハートネル中尉はわたしの鎖骨のところに指で触れて、悪鬼のように表情を歪めた。
「……これ……殿下が付けた験、だね?」
「やめて、離してください!」
「君は、殿下に自分を売り渡した!……金か?」
「違います!……離して、人を呼びますよ!」
わたしは慌てて中尉の手を振り払い、襟首を隠すように両手で覆う。回廊の柱の影に隠れるようにしたわたしの、顔のすぐ横にハートネル中尉の大きな手が乱暴に突かれて、彼が大きな体を折り曲げるように覆いかぶさってきた。思わず、恐怖で目をつぶり、身を縮めて小さな悲鳴を上げる。
「いや……やめて……」
「エルスペス嬢……殿下は君のことをエルシーって呼んでる。君たちは特別な仲なんだ」
「……やめて……」
「俺は本気だった。本気で君に恋をして、結婚したいと思っていた。なのに……君は、殿下に弄ばれて捨てられる道を選んだ」
頭上から降りてくる声が恐ろしくて、わたしはガタガタ震えるしかない。
「殿下にとって、君は遊びだ。本気じゃない。この関係が明らかになって、社会的に潰されるのは君の方で、殿下には傷一つつかないだろう。それがわかっているのに、殿下は遊びの相手に君を選んだ。君が父親の死によって爵位を失い、病弱な祖母を抱えて経済的に困窮しているのに付け込んで!……殿下はレコンフィールド公爵令嬢との婚約が秒読みで、その婚約は殿下では断れない。レコンフィールド公爵は国王側近の有力者だからね。俺は、君を守ろうとしたが、間に合わなかったのか――」
ハートネル中尉の手がわたしの顎を掴み、無理矢理に顔を上向けさせたので、わたしは柱に背中を押し付けられるような状態で、仕方なくハートネル中尉を見上げる。中尉の顔は陰になってよくは見えなかったが、声の様子からも彼が激怒しているのがわかって、わたしは恐怖で竦んでしまう。
「やめ……離して……」
「……君は、殿下に怯えてた。もし、力づくなら――」
「そこで何をしている?」
不意に、誰かの声が飛んで、ハートネル中尉の手が離れる。わたしはその隙に中尉を突き飛ばして、後ろも見ずにその場から走り去った。
中尉に絡まれた恐怖が抜けない状態で、殿下の執務室に帰りつく。
まだ心臓がどきどきして収まらないので、給湯室に逃げ込んで水を飲んでいると、珍しくクルツ主任が給湯室までやってきた。
「ミス・アシュバートン、ここにいたか!」
「……すみません、すぐに戻ります」
本部にお使いに出たまま、ずいぶん帰らなかったから、仕事が溜まっているのかもしれない。
「そうじゃなくてだな、ちょっと厄介な客が来ている」
「厄介な客?」
クルツ主任が白髪の混じった眉を顰め、露骨に迷惑そうな顔をした。
「本日、殿下は陸軍の兵学校の行事にご出席で、司令部にはいつ戻られるかわからない。そう言っているのに、ここで殿下を待つと言い張っていてね」
「追い返せない身分の方なのですか?」
クルツ主任が、声を潜めた。
「……レコンフィールド公爵令嬢だ」
「……は?」
どうやら、わたしが本部に出かけるのと入れ替わりで、レコンフィールド公爵令嬢がやってきて、殿下に面会を求めたのだそうだ。
「……本日、客人の予定はなかったはずです」
「事前の約束はないそうだ」
クルツ主任の眉も迷惑げに歪められているが、わたしの眉も同じような形になっているだろう。約束もなく、王子殿下の職場に突撃するなんて、不躾けにもほどがある。
「だいたい、何をしにいらっしゃたのです?」
「何度電話をかけても繋がらないから、どうしてもお会いする用事があると、その一点張りで」
わたしはふと、昨日、殿下のオーランド邸の執事のヴァルターさんが言っていた、電話の件を思い出す。
「実は、司令部にも何度も電話をかけてきているのだが、殿下が繋ぐ必要はないと仰っていて、取り次いでいないのだ。それで、業を煮やして直接押しかけてきたようだ」
「はあ……」
応接室に居座られているのだが、殿下の帰還がいつになるかわからないし、クルツ主任では身分に腰が引けてしまい、追い出すこともできない。
「……それで、せめてお茶くらいは出さないとまずかろうとなったが、君が見つからなくて」
「……お茶をお出しすればよろしいのですか?」
「頼む」
わたしは即座にやかんでお湯を沸かし始め、手早くお茶の仕度を整え始める。銀色の盆を取り出して白い布巾で綺麗に拭き、その上にティーポットを出し、一番いい茶葉の缶を手に取る。付き添いの方を含めた人数分の茶葉をポットに入れ、お湯が沸くまでの間にカップとソーサーを準備する。砂糖壺とクリーム、それからお茶請けのビスケットを缶から取り出し、菓子器に並べ、沸いたお湯をポットに注ぎ入れ、蓋をしてティーコゼーを被せ、砂時計をひっくり返す。
「入りましたよ、砂時計が落ちれば、淹れ時です」
クルツ主任に言うが、主任は情けなさそうな顔で首を振る。
「頼むよ、エルスペス嬢。わしじゃあ、あんなご令嬢にお茶を淹れるなんて、無理だ……」
わたしは諦めて溜息をつくと、銀の盆を両手で捧げ、応接室に向かった。
レコンフィールド公爵令嬢はウェーブのかかった金髪を後頭部で綺麗にまとめ、レースの襟やフリルも豪華な白い絹のブラウスに、白いスカートを穿き、白い上着を着てソファに端然と腰を下ろしていた。背筋をピンと伸ばし、少し斜めに流した脚といい、一分の隙もない態度で、わたしの方をちらりと見たが、何も言わなかった。隣には、付き添いらしい中年の婦人が、襟の詰まったドレスを着て座っている。
わたしも無言で、テーブルに茶器を並べ、砂時計が完全に落ちているのを確認して、ティーコゼーを外し、カップに紅茶を注ぎ分ける。なるべく高い位置から、香を立てるように注いで、ソーサーに銀のスプーンを置き、令嬢と付き添いの婦人の前にカップを差し出す。わたしの手つきを食い入るように見ていた令嬢が、鈴を鳴らすような声で尋ねた。
「あなたはこちらの事務官ですの?」
「……はい。書類の処理を担当しております」
ご令嬢は紅茶の皿を受け取り、砂糖を入れて優雅に混ぜながら、言った。
「……最近ね、アルバート殿下に恋人ができたらしいの。あなた、噂を聞いたことはなくって?」
「殿下の恋人、ですか?」
わたしはドキリとしたけれど、何事もないように言った。
「殿下の私生活については何も存知上げません」
「あなた以外に、身近にお仕えする女性はいらっしゃらないの?」
「司令部にも女性事務職はたくさんおりますけれど……」
司令部内でも、殿下とわたしが妙に親密だという噂はある。引継ぎの間だけの雇用だったはずが、いつの間にか直属の秘書官になっているし、勤務形態も不規則になり、時々、殿下の馬車に同乗して出かけていく。怪しまれて当然だし、実際、抜き差しならない関係に陥ってしまった。でもそれを暴露するわけにはいかない。
「……殿下は、戦争前から好きだった方と結婚したいと言い出されたの。あなたが一番身近にいるみたいだけど」
ご令嬢はカップとソーサーを持ったまま、わたしに向かい、妖艶に首を傾げてみせた。青い瞳が探るようにわたしを見て、口紅を塗った唇が色っぽい。
「わたしは戦争の前は田舎におりましたし、王都に出てきたのも数年前の……戦争中のことです。戦争前に殿下とお逢いしたことはありませんので、戦争前から好きな方というのが、わたしでないことは確かです。そもそも、わたしはただの事務官ですし。殿下の私生活については何も存じませんし、たとえ知っていても、人に漏らすことはできないのですけどね。守秘義務がありますので」
わたしがクルツ主任を振り向き、無言で同意を求めれば、クルツ主任が慌てて姿勢を正し、言った。
「ええ、殿下の普段の生活に関して、守秘義務もございますし、なにより、この司令部でのご公務の間だけのことですので、我々事務官は何も存じ上げませんし、申し上げることもございません」
公爵令嬢は一瞬、眉を顰め、紅茶を口に含んだ。それからソーサーの上ににカップを戻し、言った。
「殿下に関しては守秘義務がある。……でも、あなたに関しては? わたくしはあなたのことが知りたいわ」
「わたしの?……知ったところで何も面白いことはありませんよ?」
「いいえ、とても知りたい。……まずはお名前からお願い」
「……エルスペス・アシュバートンと申します」
「お歳は? 女性に年齢を聞くのは失礼と言うけれど、女同士なら構わないわよね? ちなみにわたくしは二十一よ」
「……十九歳です」
「王都に出てきたのは最近とおっしゃったけれど、お故郷はどちら?」
「……ストラスシャーです」
「行ったことはないわ。遠いの?」
「鉄道で一日ってところでしょうか。王都を夜行で出れば、翌日の昼過ぎに着きます」
ご令嬢はわたしの顔をじっと見つめ、尋ねる。
「本当に、戦争前に殿下とお逢いしたことはないの? 神様にかけて誓える?」
「ええ、もちろん」
わたしもご令嬢の目をまっすぐに見て、大きく頷いた。
「田舎育ちですもの。王子様となんて、縁もゆかりもありません。二か月前に殿下が司令に就任なさって、初めてお会いしました。いくらでも誓いますよ?」
殿下が元気に出勤していかれるのを、ベッドの上で見送り、ようやく昼近くになって起きることができた。ノーラの用意したブランチをベッドの上でいただき、何とか昼過ぎに司令部に出勤した。――二日連続でおやすみするのはわたしのプライドが許さなかった。わたしはあくまで、殿下の秘書官であって、秘書官に偽装した愛人ではないのだから。
殿下のサイン済みの書類をいくつかまとめて、本部の事務室に持っていく。そちらの事務官に渡して事務室を出たところで、背後から呼び止められた。
「……ハートネル中尉……」
「話が、あるんだ」
「今は職務中で――」
「長くはならない」
何となく逆らえない雰囲気を感じて、わたしは本部の建物の中庭に出た。四角い中庭の周囲はテラス状の回廊が囲んでいて、中央に四角い池があり、ベンチもある。ただ日差しの強い時間帯なので、わたしは人気のない回廊の隅の方に行って、ハートネル中尉を振り返った。
「お話って?」
「……おばあ様が、入院したそうだね」
「ええ……誰から?」
「マリアン・ブレイズ嬢が喋りまくっているよ」
わたしは溜息をついた。
「そうですか……」
「それと、君と、殿下のことが噂になっている」
「それも、マリアンが?」
ハートネル中尉は赤い髪をかき上げながら首を振る。
「いや、その噂は出所ははっきりしない」
「……噂は、仕方がないけど、本当ではないわ」
「おばあ様の入院費用を殿下に肩代わりしてもらって、代わりに身体を差し出したのか?」
ハートネル中尉の榛色の瞳が、わたしを見下ろしてギラギラ光っている。その通りだが、認めるわけにはいかない。
「……一部、立て替えていただきましたが、そんなことは――」
突如、ハートネル中尉の腕がわたしの襟元に伸び、わたしのタイを締めたシャツの襟を緩める。
「! 何を……!」
わたしが飛び退ろうとするよりも早く、ハートネル中尉はわたしの鎖骨のところに指で触れて、悪鬼のように表情を歪めた。
「……これ……殿下が付けた験、だね?」
「やめて、離してください!」
「君は、殿下に自分を売り渡した!……金か?」
「違います!……離して、人を呼びますよ!」
わたしは慌てて中尉の手を振り払い、襟首を隠すように両手で覆う。回廊の柱の影に隠れるようにしたわたしの、顔のすぐ横にハートネル中尉の大きな手が乱暴に突かれて、彼が大きな体を折り曲げるように覆いかぶさってきた。思わず、恐怖で目をつぶり、身を縮めて小さな悲鳴を上げる。
「いや……やめて……」
「エルスペス嬢……殿下は君のことをエルシーって呼んでる。君たちは特別な仲なんだ」
「……やめて……」
「俺は本気だった。本気で君に恋をして、結婚したいと思っていた。なのに……君は、殿下に弄ばれて捨てられる道を選んだ」
頭上から降りてくる声が恐ろしくて、わたしはガタガタ震えるしかない。
「殿下にとって、君は遊びだ。本気じゃない。この関係が明らかになって、社会的に潰されるのは君の方で、殿下には傷一つつかないだろう。それがわかっているのに、殿下は遊びの相手に君を選んだ。君が父親の死によって爵位を失い、病弱な祖母を抱えて経済的に困窮しているのに付け込んで!……殿下はレコンフィールド公爵令嬢との婚約が秒読みで、その婚約は殿下では断れない。レコンフィールド公爵は国王側近の有力者だからね。俺は、君を守ろうとしたが、間に合わなかったのか――」
ハートネル中尉の手がわたしの顎を掴み、無理矢理に顔を上向けさせたので、わたしは柱に背中を押し付けられるような状態で、仕方なくハートネル中尉を見上げる。中尉の顔は陰になってよくは見えなかったが、声の様子からも彼が激怒しているのがわかって、わたしは恐怖で竦んでしまう。
「やめ……離して……」
「……君は、殿下に怯えてた。もし、力づくなら――」
「そこで何をしている?」
不意に、誰かの声が飛んで、ハートネル中尉の手が離れる。わたしはその隙に中尉を突き飛ばして、後ろも見ずにその場から走り去った。
中尉に絡まれた恐怖が抜けない状態で、殿下の執務室に帰りつく。
まだ心臓がどきどきして収まらないので、給湯室に逃げ込んで水を飲んでいると、珍しくクルツ主任が給湯室までやってきた。
「ミス・アシュバートン、ここにいたか!」
「……すみません、すぐに戻ります」
本部にお使いに出たまま、ずいぶん帰らなかったから、仕事が溜まっているのかもしれない。
「そうじゃなくてだな、ちょっと厄介な客が来ている」
「厄介な客?」
クルツ主任が白髪の混じった眉を顰め、露骨に迷惑そうな顔をした。
「本日、殿下は陸軍の兵学校の行事にご出席で、司令部にはいつ戻られるかわからない。そう言っているのに、ここで殿下を待つと言い張っていてね」
「追い返せない身分の方なのですか?」
クルツ主任が、声を潜めた。
「……レコンフィールド公爵令嬢だ」
「……は?」
どうやら、わたしが本部に出かけるのと入れ替わりで、レコンフィールド公爵令嬢がやってきて、殿下に面会を求めたのだそうだ。
「……本日、客人の予定はなかったはずです」
「事前の約束はないそうだ」
クルツ主任の眉も迷惑げに歪められているが、わたしの眉も同じような形になっているだろう。約束もなく、王子殿下の職場に突撃するなんて、不躾けにもほどがある。
「だいたい、何をしにいらっしゃたのです?」
「何度電話をかけても繋がらないから、どうしてもお会いする用事があると、その一点張りで」
わたしはふと、昨日、殿下のオーランド邸の執事のヴァルターさんが言っていた、電話の件を思い出す。
「実は、司令部にも何度も電話をかけてきているのだが、殿下が繋ぐ必要はないと仰っていて、取り次いでいないのだ。それで、業を煮やして直接押しかけてきたようだ」
「はあ……」
応接室に居座られているのだが、殿下の帰還がいつになるかわからないし、クルツ主任では身分に腰が引けてしまい、追い出すこともできない。
「……それで、せめてお茶くらいは出さないとまずかろうとなったが、君が見つからなくて」
「……お茶をお出しすればよろしいのですか?」
「頼む」
わたしは即座にやかんでお湯を沸かし始め、手早くお茶の仕度を整え始める。銀色の盆を取り出して白い布巾で綺麗に拭き、その上にティーポットを出し、一番いい茶葉の缶を手に取る。付き添いの方を含めた人数分の茶葉をポットに入れ、お湯が沸くまでの間にカップとソーサーを準備する。砂糖壺とクリーム、それからお茶請けのビスケットを缶から取り出し、菓子器に並べ、沸いたお湯をポットに注ぎ入れ、蓋をしてティーコゼーを被せ、砂時計をひっくり返す。
「入りましたよ、砂時計が落ちれば、淹れ時です」
クルツ主任に言うが、主任は情けなさそうな顔で首を振る。
「頼むよ、エルスペス嬢。わしじゃあ、あんなご令嬢にお茶を淹れるなんて、無理だ……」
わたしは諦めて溜息をつくと、銀の盆を両手で捧げ、応接室に向かった。
レコンフィールド公爵令嬢はウェーブのかかった金髪を後頭部で綺麗にまとめ、レースの襟やフリルも豪華な白い絹のブラウスに、白いスカートを穿き、白い上着を着てソファに端然と腰を下ろしていた。背筋をピンと伸ばし、少し斜めに流した脚といい、一分の隙もない態度で、わたしの方をちらりと見たが、何も言わなかった。隣には、付き添いらしい中年の婦人が、襟の詰まったドレスを着て座っている。
わたしも無言で、テーブルに茶器を並べ、砂時計が完全に落ちているのを確認して、ティーコゼーを外し、カップに紅茶を注ぎ分ける。なるべく高い位置から、香を立てるように注いで、ソーサーに銀のスプーンを置き、令嬢と付き添いの婦人の前にカップを差し出す。わたしの手つきを食い入るように見ていた令嬢が、鈴を鳴らすような声で尋ねた。
「あなたはこちらの事務官ですの?」
「……はい。書類の処理を担当しております」
ご令嬢は紅茶の皿を受け取り、砂糖を入れて優雅に混ぜながら、言った。
「……最近ね、アルバート殿下に恋人ができたらしいの。あなた、噂を聞いたことはなくって?」
「殿下の恋人、ですか?」
わたしはドキリとしたけれど、何事もないように言った。
「殿下の私生活については何も存知上げません」
「あなた以外に、身近にお仕えする女性はいらっしゃらないの?」
「司令部にも女性事務職はたくさんおりますけれど……」
司令部内でも、殿下とわたしが妙に親密だという噂はある。引継ぎの間だけの雇用だったはずが、いつの間にか直属の秘書官になっているし、勤務形態も不規則になり、時々、殿下の馬車に同乗して出かけていく。怪しまれて当然だし、実際、抜き差しならない関係に陥ってしまった。でもそれを暴露するわけにはいかない。
「……殿下は、戦争前から好きだった方と結婚したいと言い出されたの。あなたが一番身近にいるみたいだけど」
ご令嬢はカップとソーサーを持ったまま、わたしに向かい、妖艶に首を傾げてみせた。青い瞳が探るようにわたしを見て、口紅を塗った唇が色っぽい。
「わたしは戦争の前は田舎におりましたし、王都に出てきたのも数年前の……戦争中のことです。戦争前に殿下とお逢いしたことはありませんので、戦争前から好きな方というのが、わたしでないことは確かです。そもそも、わたしはただの事務官ですし。殿下の私生活については何も存じませんし、たとえ知っていても、人に漏らすことはできないのですけどね。守秘義務がありますので」
わたしがクルツ主任を振り向き、無言で同意を求めれば、クルツ主任が慌てて姿勢を正し、言った。
「ええ、殿下の普段の生活に関して、守秘義務もございますし、なにより、この司令部でのご公務の間だけのことですので、我々事務官は何も存じ上げませんし、申し上げることもございません」
公爵令嬢は一瞬、眉を顰め、紅茶を口に含んだ。それからソーサーの上ににカップを戻し、言った。
「殿下に関しては守秘義務がある。……でも、あなたに関しては? わたくしはあなたのことが知りたいわ」
「わたしの?……知ったところで何も面白いことはありませんよ?」
「いいえ、とても知りたい。……まずはお名前からお願い」
「……エルスペス・アシュバートンと申します」
「お歳は? 女性に年齢を聞くのは失礼と言うけれど、女同士なら構わないわよね? ちなみにわたくしは二十一よ」
「……十九歳です」
「王都に出てきたのは最近とおっしゃったけれど、お故郷はどちら?」
「……ストラスシャーです」
「行ったことはないわ。遠いの?」
「鉄道で一日ってところでしょうか。王都を夜行で出れば、翌日の昼過ぎに着きます」
ご令嬢はわたしの顔をじっと見つめ、尋ねる。
「本当に、戦争前に殿下とお逢いしたことはないの? 神様にかけて誓える?」
「ええ、もちろん」
わたしもご令嬢の目をまっすぐに見て、大きく頷いた。
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