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十九、貫魚之序
翌朝、夜明けとともに朝政の始まる陛下に合わせ、わたしもまだ暗いうちに目を覚ます。
陛下はまだ寝ていてもよいと仰るけれど、自分の宮でもないのに皇后が一人で朝寝坊なんてしたら、それこそ非難囂囂湧き起こるのは当然、予測がつく。だからなんとなくまだ怠いけれど、わたしは半ば気力で起き上がった。
驚いたことに、すでにわたしの宮から馬婆と侍女、そして宦官が着替え一式を持って待機していた。
斉胸襦裙(スカートを胸の上まで上げて着るタイプの襦裙)を着て髪を結い、金釵を差し、朝餐を陛下といただく。――甘露殿で食事を賜るのも十分な恩典であるらしい。
「朝はまだ冷える。これを着ていきなさい」
陛下は襟ぐりに毛皮のついた分厚い被襖(コート)をわたしの肩に着せかけ、わたしは迎えに来た腰輿に乗る。夜明け前の冷たい空気の中、たしかに陛下の着せてくれた被襖がなければ寒くて凍えてしまったかもしれない。途中、内朝から来る壮年の男性数人と行き会った。
こういう時、こちらが皇后であることを告げて、道を譲ってもらわねばならない。広いからってそのまま知らんぷりですれ違うわけにもいかないのだ。駆けていった宦官が戻ってきた言った。
「同中書門下平章事の劉侍郎様でございます。娘娘に是非、ご挨拶申し上げたいと」
同中書門下平章事――この、妙に長い名前の官職は、要するに実質的な宰相を意味する。
もともとは、皇帝の詔勅を起草する中書省の長官である中書令と、下された詔勅を覆奏(調べて上奏)する門下省の長官である侍中が宰相の職を担ってきた。ところが、この国の伝統として、一番偉い役職は名誉職と化してしまう。で、それぞれの次官である中書侍郎と黄門侍郎が「同中書門下平章事」という長い肩書を加えられて、実質的な宰相職を行うのだ。
その宰相殿がいったい――
輿が近づくと、壮年の劉侍郎が片膝をつこうとするので、わたしが手で制した。
「それには及ばないと、娘娘のご意向でございます」
宦官が言葉にして伝え、劉侍郎がうやうやしく頭を下げた。
「こ厚情感謝いたします。中宮様におかれましては、新年よりのご寵愛の深きこと、まことにお喜び申し上げます」
そんなことを祝われても返答のしようがなくて困っていると、さらに続ける。
「昨夜は望日でございました故、中宮様が御寝に侍御するのはまことに経典にも適ってございますな」
「はあ……」
わたしは記憶をたどり、『詩経』の注釈にそんなのがあったのを思い出す。満月の夜に正妻が閨に侍り、満月に至るまでは身分の卑しい妾たちから交代で寝所に御し、満月を過ぎたら、今度は高貴な妾たちが閨に侍る……とか。
たしか、昔の偉い儒者の説だけど、そんなバカバカしいことまで考えるなんて、滑稽だ。
だが何か言わないわけにもいかない。
「小星の詩の注釈ですね」
慧たる彼の小星
三五として 東に在り
肅肅として宵に征き
夙夜として公に在り
寔れ命の同じからず
大昔の身分卑しい妾が、数ならぬ身で君主の閨に侍る身と、正妻との運命の違いを歌ったもの。
劉侍郎は、わたしが詩を知っていたのに少しばかり驚いたらしい。
「ああ、中宮様は章国子のご息女であられた。ならば、話は早い。こちらは諸侯の夫人が嫉妬せず、身分卑しき妾にも御寝に侍るのを許す、高貴な女性の徳を歌ったものでございます」
この時点で何を言いたいのか、だんだんわかってきて、わたしは眉を顰めた。――この人はわたしが陛下の閨を独り占めにしていることを非難したいのだ。
「貫魚の序と申して、繋がった魚のように順繰りに女性たちが寵愛を受けること、これが皇后の徳の最たるものでございます。どうか、陛下の恩沢を広く施されますよう……」
「貫魚」というのは、『易』に出てくる言葉で、皇后は繋がった魚のように後宮の女たちを率い、天子の閨順繰りに侍る。そうすれば国は安泰だとする。やはりこれも嫉妬しない皇后が、身分卑しい妾を夫に進めることをもてはやすもの。
――閨を独占せず、身を引いて他の妃嬪にも機会を与えろと言いたいのだろうけど、わたしが陛下に、他の人のところにも行けってお薦めしなきゃいけないの?
わたしは首を傾げた。
「わたくしから、陛下の御寝について口を挟むのは僭上の極みと申すもの。ですが、国の枢要に関わる方のお言葉であれば、陛下も聞く耳をお持ちになるでしょう。どうか、それは直接陛下の方に申し上げてくださいませ」
反論されると思っていなかったのか、劉侍郎が眉を上げた。
「わたくしから陛下のご来儀を願い出られるならば、昨年のうちに叶っておりましたでしょう。わたくしにはなんの権限もございませんの。すべては陛下の思し召しのままでございます」
「では昨夜のことも?」
「もちろんでございます。陛下御自身や、帳の外に控える内侍にご確認いただいても」
劉侍郎はしばらく沈黙すると、念を押すように小声で言った。
「では、陛下御自ら、三度続けて中宮様をお召になった?」
「わたくしからは一度も、お便りなども差し上げておりません」
劉侍郎は考え込むように顎髭を撫でる。
「……陛下が、内廷に妃嬪をお召出しになられたのは、初めてのことでございます」
「そう、仰っていました」
「……わかり申した。なお、内廷でのできごとについては他言はなりません。漏泄禁中語と申す刑罰に触れてしまいます」
「わかりました」
わたしが頷けば、劉侍郎は東の空が明るくなったのを見て、慌てて言った。
「もう、行かねばなりません。遅刻してしまいます。……それでは中宮様、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
宦官が合図をして、輿が再び動き始めた。
劉侍郎に呼び止められたおかげで、通明門をくぐった時にはすっかり夜が明けていた。
明るくなった中を皇后が輿に乗って移動すれば、絶対に人目についてしまう。
その日の午前中には、わたしが陛下の内廷に召されたことが後宮中に知れ渡ってしまった。それに、元宵の灯篭見物に出かけたことも、どこかから漏れていた。――二人で手を繋いで横街を歩いていたんだから、すれ違った官人たちも陛下だと気づくだろう。
「聞きましてよ! 中宮さま! 灯篭見物の上に、内廷までお召出しになられるなんて! もうすっかり陛下は中宮さまに夢中ですわね!」
当たり前のように駆けこんできた薛美人に言われて、わたしは困惑する。
そりゃ、好きなのはわたしだけ、と言ってくださったけれど、それをここで薛美人に語ってもなんだし、それに「漏泄禁中語」に抵触する。
「さあ……お心に留めていただいてはいるみたいね。ご親切な方だわ」
「ただの親切で、わざわざ灯篭見物に連れ出したりなさいませんよ!」
力説する薛美人に対し、わたしもそれはそう思う。――わたしの家族に対して、恩と負い目をお持ちだから――
「まあ、そうね」
「中宮様ったら冷静なんですから! 陛下の特別な寵愛を受けたら、あたしなんて有頂天になってしまいますよ!」
「ええっと……そういう風に舞い上がっていはいけないと、釘を刺されているし……」
「趙淑妃なんて、話を聞いて寝込んでしまあわれたとか!」
わたしは眉を顰めた。
「大げさじゃないのかしら……」
「以前からの伝手を頼って、高官にも相談のお手紙を出したとか出さないとか」
声を潜める薛美人の話に、わたしは「あっ」と思う。
――そうか、今朝の劉侍郎のお説教――
どういう伝手かは知らないけど、趙淑妃は劉侍郎に泣きついた。劉侍郎は、趙淑妃の言うとおり、わたしが裏で手を回して、陛下の寵愛を独占していると思っていたのかしら。そうだとしたら迷惑極まりない――
「そうそう、趙淑妃だけじゃなくて、高昭容も大変だったそうですわ」
薛美人が言い、わたしが首を傾げる。
「高昭容?」
「ホラ、あの人は器量自慢じゃないですか? 一番のご寵姫は自分だってずっと威張っていらした。そこへ中宮様がいらっしゃって、表向きは余裕ありげに構えていらっしゃったけど。ここしばらくお渡りもなくて、すごくイライラしていらっしゃったのが! 立て続けに中宮様がご寵愛に与って、もう嫉妬で怒り狂っていらっしゃるとか!」
その話を聞いて、わたしは内心、ため息をつきたくなる。
――別に寵愛を独占するつもりはないんですけど――
◆◆◆◆◆
小星:『詩経』国風・召南。
貫魚:『周易』剥卦「六五、貫魚、以宮人寵、無不利」
陛下はまだ寝ていてもよいと仰るけれど、自分の宮でもないのに皇后が一人で朝寝坊なんてしたら、それこそ非難囂囂湧き起こるのは当然、予測がつく。だからなんとなくまだ怠いけれど、わたしは半ば気力で起き上がった。
驚いたことに、すでにわたしの宮から馬婆と侍女、そして宦官が着替え一式を持って待機していた。
斉胸襦裙(スカートを胸の上まで上げて着るタイプの襦裙)を着て髪を結い、金釵を差し、朝餐を陛下といただく。――甘露殿で食事を賜るのも十分な恩典であるらしい。
「朝はまだ冷える。これを着ていきなさい」
陛下は襟ぐりに毛皮のついた分厚い被襖(コート)をわたしの肩に着せかけ、わたしは迎えに来た腰輿に乗る。夜明け前の冷たい空気の中、たしかに陛下の着せてくれた被襖がなければ寒くて凍えてしまったかもしれない。途中、内朝から来る壮年の男性数人と行き会った。
こういう時、こちらが皇后であることを告げて、道を譲ってもらわねばならない。広いからってそのまま知らんぷりですれ違うわけにもいかないのだ。駆けていった宦官が戻ってきた言った。
「同中書門下平章事の劉侍郎様でございます。娘娘に是非、ご挨拶申し上げたいと」
同中書門下平章事――この、妙に長い名前の官職は、要するに実質的な宰相を意味する。
もともとは、皇帝の詔勅を起草する中書省の長官である中書令と、下された詔勅を覆奏(調べて上奏)する門下省の長官である侍中が宰相の職を担ってきた。ところが、この国の伝統として、一番偉い役職は名誉職と化してしまう。で、それぞれの次官である中書侍郎と黄門侍郎が「同中書門下平章事」という長い肩書を加えられて、実質的な宰相職を行うのだ。
その宰相殿がいったい――
輿が近づくと、壮年の劉侍郎が片膝をつこうとするので、わたしが手で制した。
「それには及ばないと、娘娘のご意向でございます」
宦官が言葉にして伝え、劉侍郎がうやうやしく頭を下げた。
「こ厚情感謝いたします。中宮様におかれましては、新年よりのご寵愛の深きこと、まことにお喜び申し上げます」
そんなことを祝われても返答のしようがなくて困っていると、さらに続ける。
「昨夜は望日でございました故、中宮様が御寝に侍御するのはまことに経典にも適ってございますな」
「はあ……」
わたしは記憶をたどり、『詩経』の注釈にそんなのがあったのを思い出す。満月の夜に正妻が閨に侍り、満月に至るまでは身分の卑しい妾たちから交代で寝所に御し、満月を過ぎたら、今度は高貴な妾たちが閨に侍る……とか。
たしか、昔の偉い儒者の説だけど、そんなバカバカしいことまで考えるなんて、滑稽だ。
だが何か言わないわけにもいかない。
「小星の詩の注釈ですね」
慧たる彼の小星
三五として 東に在り
肅肅として宵に征き
夙夜として公に在り
寔れ命の同じからず
大昔の身分卑しい妾が、数ならぬ身で君主の閨に侍る身と、正妻との運命の違いを歌ったもの。
劉侍郎は、わたしが詩を知っていたのに少しばかり驚いたらしい。
「ああ、中宮様は章国子のご息女であられた。ならば、話は早い。こちらは諸侯の夫人が嫉妬せず、身分卑しき妾にも御寝に侍るのを許す、高貴な女性の徳を歌ったものでございます」
この時点で何を言いたいのか、だんだんわかってきて、わたしは眉を顰めた。――この人はわたしが陛下の閨を独り占めにしていることを非難したいのだ。
「貫魚の序と申して、繋がった魚のように順繰りに女性たちが寵愛を受けること、これが皇后の徳の最たるものでございます。どうか、陛下の恩沢を広く施されますよう……」
「貫魚」というのは、『易』に出てくる言葉で、皇后は繋がった魚のように後宮の女たちを率い、天子の閨順繰りに侍る。そうすれば国は安泰だとする。やはりこれも嫉妬しない皇后が、身分卑しい妾を夫に進めることをもてはやすもの。
――閨を独占せず、身を引いて他の妃嬪にも機会を与えろと言いたいのだろうけど、わたしが陛下に、他の人のところにも行けってお薦めしなきゃいけないの?
わたしは首を傾げた。
「わたくしから、陛下の御寝について口を挟むのは僭上の極みと申すもの。ですが、国の枢要に関わる方のお言葉であれば、陛下も聞く耳をお持ちになるでしょう。どうか、それは直接陛下の方に申し上げてくださいませ」
反論されると思っていなかったのか、劉侍郎が眉を上げた。
「わたくしから陛下のご来儀を願い出られるならば、昨年のうちに叶っておりましたでしょう。わたくしにはなんの権限もございませんの。すべては陛下の思し召しのままでございます」
「では昨夜のことも?」
「もちろんでございます。陛下御自身や、帳の外に控える内侍にご確認いただいても」
劉侍郎はしばらく沈黙すると、念を押すように小声で言った。
「では、陛下御自ら、三度続けて中宮様をお召になった?」
「わたくしからは一度も、お便りなども差し上げておりません」
劉侍郎は考え込むように顎髭を撫でる。
「……陛下が、内廷に妃嬪をお召出しになられたのは、初めてのことでございます」
「そう、仰っていました」
「……わかり申した。なお、内廷でのできごとについては他言はなりません。漏泄禁中語と申す刑罰に触れてしまいます」
「わかりました」
わたしが頷けば、劉侍郎は東の空が明るくなったのを見て、慌てて言った。
「もう、行かねばなりません。遅刻してしまいます。……それでは中宮様、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
宦官が合図をして、輿が再び動き始めた。
劉侍郎に呼び止められたおかげで、通明門をくぐった時にはすっかり夜が明けていた。
明るくなった中を皇后が輿に乗って移動すれば、絶対に人目についてしまう。
その日の午前中には、わたしが陛下の内廷に召されたことが後宮中に知れ渡ってしまった。それに、元宵の灯篭見物に出かけたことも、どこかから漏れていた。――二人で手を繋いで横街を歩いていたんだから、すれ違った官人たちも陛下だと気づくだろう。
「聞きましてよ! 中宮さま! 灯篭見物の上に、内廷までお召出しになられるなんて! もうすっかり陛下は中宮さまに夢中ですわね!」
当たり前のように駆けこんできた薛美人に言われて、わたしは困惑する。
そりゃ、好きなのはわたしだけ、と言ってくださったけれど、それをここで薛美人に語ってもなんだし、それに「漏泄禁中語」に抵触する。
「さあ……お心に留めていただいてはいるみたいね。ご親切な方だわ」
「ただの親切で、わざわざ灯篭見物に連れ出したりなさいませんよ!」
力説する薛美人に対し、わたしもそれはそう思う。――わたしの家族に対して、恩と負い目をお持ちだから――
「まあ、そうね」
「中宮様ったら冷静なんですから! 陛下の特別な寵愛を受けたら、あたしなんて有頂天になってしまいますよ!」
「ええっと……そういう風に舞い上がっていはいけないと、釘を刺されているし……」
「趙淑妃なんて、話を聞いて寝込んでしまあわれたとか!」
わたしは眉を顰めた。
「大げさじゃないのかしら……」
「以前からの伝手を頼って、高官にも相談のお手紙を出したとか出さないとか」
声を潜める薛美人の話に、わたしは「あっ」と思う。
――そうか、今朝の劉侍郎のお説教――
どういう伝手かは知らないけど、趙淑妃は劉侍郎に泣きついた。劉侍郎は、趙淑妃の言うとおり、わたしが裏で手を回して、陛下の寵愛を独占していると思っていたのかしら。そうだとしたら迷惑極まりない――
「そうそう、趙淑妃だけじゃなくて、高昭容も大変だったそうですわ」
薛美人が言い、わたしが首を傾げる。
「高昭容?」
「ホラ、あの人は器量自慢じゃないですか? 一番のご寵姫は自分だってずっと威張っていらした。そこへ中宮様がいらっしゃって、表向きは余裕ありげに構えていらっしゃったけど。ここしばらくお渡りもなくて、すごくイライラしていらっしゃったのが! 立て続けに中宮様がご寵愛に与って、もう嫉妬で怒り狂っていらっしゃるとか!」
その話を聞いて、わたしは内心、ため息をつきたくなる。
――別に寵愛を独占するつもりはないんですけど――
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小星:『詩経』国風・召南。
貫魚:『周易』剥卦「六五、貫魚、以宮人寵、無不利」
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