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13、月蝕
満月
涙で歪んだ視界に男の顔がぶつかってくる。先ほどよりも性急で熱烈な口づけに煽られながら、アデライードは男が口走った名に目を見開く。
〈メルーシナ〉。――その名は、アデライードの幼名だ。
女王の持つ強い魔力のために、女王は子を孕みにくく、孕んでも男児は胎児のうちか生後間もなく死ぬ。女児もまた、幼い身体が自身の強い魔力に耐えられず、夭折することが多い。故に、女王家では七歳の誕生日までは、子は天からの授かりものと考え、かつてディアーヌとともに天界より下った眷属の名を仮の名として呼ぶ。アデライードは人魚の精〈メルーシナ〉にちなんだ幼名を持っていたのだ。
通常、幼名は家族以外には知られることはない。七歳の誕生日に改めて正式な名をつけられ、初めて王家の者と認められる。だからアデライードの幼名を知るのは、死んだ両親と、あとはユリウスや故郷の兄姉たちと、そしてあと一人だけだ。
(シウリン……?)
あの聖地の森で、七歳の誕生日を迎えて間もなかったアデライードは、ついついシウリンに幼名を名乗ってしまったのだ。
(シウリンから、聞いていたの……?)
角度を変え、より一層深く口づけられ、舌を絡めとられる。アデライードは無意識に男の首筋に腕を回し、強く縋りつく。涙がとめどなく溢れ、頬を伝っていく。
恭親王が右手で目尻の涙を拭い、頬を撫でる。
「……アデライード……愛している……私の……愛しい花嫁……」
男は低く掠れた甘い声で熱っぽく囁くと、再び唇を貪る。舌でアデライードの口腔内を余すところなく嬲り、深く吸う。逞しい身体でアデライードの華奢な身体を壁に押し付け、下肢でアデライードの脚をがっちりと固定し、柱との間でアデライードを挟んで潰すかのように密着して自由を奪う。激しい情熱をまともに向けられ、頭の芯がぼうっとなったアデライードは立っていることもできないほどで、必死に男の首に縋りつく。
(シウリン……ではないと……シウリンは、こんなことは、しない……でも……)
唇から流れ込む恭親王の〈王気〉が体中を蹂躙するように駆け抜け、アデライードの脳が焼き切れる。
(怖い……でも……逃げられ、ない……)
どれくらいの時がたったか。
近づいてくる足音を耳にして、恭親王は名残惜し気に体を離した。月はもう、完全に光を取り戻している。
痺れたようになって茫然と恭親王を見上げるアデライードの耳元で、恭親王が囁く。
「周りを見ない方がいい」
いくつか死体が転がっているのだ。
最後のおまけ、というようにアデライードの唇に軽く口づけてから、恭親王は軽く身を起こし、アデライードを庇うように立つと、侍従文官のトルフィンが声をかけた。
「殿下! 賊は全て捕えるか、斬りました。……ここは……こりゃ手加減なしですか」
「女連れのところに踏み込まれては容赦しないさ」
恭親王は嘯くと、左手の剣を一振りして血糊を落とし、鞘にしまう。
アデライードは柱から離れようとして、大きくふらつき、そのまま恭親王に抱きかかえられる。今更ながら、自分の腰が抜けそうになっていることに気づき、困惑していると、彼の低い声がまた耳元で響き、
「あちこち死体と血だまりがある。お姫様が歩くには不適切だ」
と言って、そのまま膝の裏に腕をいれてふわりと抱きあげられた。アデライードが慌てて恭親王の首に抱き着く。
さきほどの祭壇前の観覧席に戻ってくると、篝火が焚かれて明るさを取り戻し、賓客たちが僧兵とユリウスらに守られ、ひと塊になって怯えていた。近づくと、ユリウスの左腕に血がにじんでいるのがわかり、恭親王は眉を顰める。
「怪我をしたのか」
抱きあげていたアデライードを下ろして聞くと、ユリウスは露骨にほっとした顔でアデライードと恭親王を眺め、言う。
「かすり傷だよ……。君たちが無事でよかった。回廊の方に走って行ったときはどうする気かと思ったが、賊を連れ出してくれたおかげで、こちらはなんとかなった。……しかし、君もすごい返り血だね」
「たいしたことはないさ。……私たちは柱の陰に身を潜めて、いいことしていただけだから」
そう言って恭親王がまだ腰に腕を回したまま、アデライードに向けて片目を瞑ると、アデライードは真っ赤になって俯いてしまう。事情を悟ったユリウスが恭親王に詰めよる。
「……このエロ皇子、非常時に人の異母妹になんてことしてるんだ!」
「おぬしの許可が出ていること以上はしていないよ」
(まあ、舌は入れたし胸も揉んだけどな)
恭親王はユリウスに対し、心の中で舌を出したが、ユリウスは恭親王の腕の中から奪うようにアデライードを自分の側に引き寄せ、腕の痛みに顔を顰めながら恭親王を睨みつける。恭親王は軽く肩を竦めると、周囲を見回し、ゾラとトルフィンから報告を聞いて状況を確認する。幸い、恭親王の配下にはけが人は出なかった。
「それにしても……月神殿で月蝕祭の最中に襲撃を仕掛けるとは、本気で〈禁苑〉に喧嘩を売ったね。……これ、賊から首謀者がイフリート公だって言質が取れたら、破門どころじゃすまないよ」
ユリウスの言葉に、恭親王も同意する。
「それもそうだが、帝国が軍隊を出す名目もできてしまったぞ。……私はまだ、皇位の継承権を放棄していないからな。毒物混入ならいざ知らす、月蝕祭中の月神殿を襲撃されては、もはや出兵しないと帝国のメンツが保てない……イフリート公爵家っていうのは、親子そろって馬鹿なのか?」
「うーん。……息子はともかく、父親の方は堅実な実務家っていう印象だが。ただ、アデライードに対しては、異常なほど始末したがっているけれど……」
恭親王が理解できないのは、この襲撃が成功してアデライードを亡き者にできたとして、どうするつもりだったのか、だ。
月神殿を襲った段階でアルベラとイフリート家は破門だ。証拠がないとか、いろいろ言い抜けるだろうが、イフリート公爵以外にアデライードを襲撃する理由を持つ者がいないし、ここは月神殿の威信にかけても推定有罪で破門だろう。だからアデライードが死んでもアルベラに女王位は行かないのだ。
カイトの報告では、イフリート公爵はアデライードだけでなく、恭親王の命も狙っているという。
〈聖婚〉の皇子王女を殺す。東西の龍種を亡き者にする。
陰陽の交合を妨げ、その調和を乱す。
イフリート公爵は、アルベラの女王位のためにアデライードを殺そうとしているのではない。
今日のことではっきりとわかった。彼は、陰の龍種の血脈を、絶とうとしているのだ。
明確に感じたその意図に、恭親王は思わず身震いする。
およそこの世界において、東西の皇王家の者、金銀の龍種はいわば現人神である。
その存在自体が崇拝の的であり、殺すことは禁じられている。――少なくとも〈禁苑〉の教義としては。
つまり、イフリート公爵の狙いは、アルベラの女王位ではない。
イフリート公爵は、〈禁苑〉と決別するつもりだ。聖なる山、プルミンテルンを頂点とする陰陽の調和された世界を、破壊しようとしているのだ。
その、破壊の先に、何を創造するつもりなのか?
いったい、何を望んでいるのか?
恭親王は月神殿の上に輝く満月を見ながら、しばし考えに耽っていた。
〈メルーシナ〉。――その名は、アデライードの幼名だ。
女王の持つ強い魔力のために、女王は子を孕みにくく、孕んでも男児は胎児のうちか生後間もなく死ぬ。女児もまた、幼い身体が自身の強い魔力に耐えられず、夭折することが多い。故に、女王家では七歳の誕生日までは、子は天からの授かりものと考え、かつてディアーヌとともに天界より下った眷属の名を仮の名として呼ぶ。アデライードは人魚の精〈メルーシナ〉にちなんだ幼名を持っていたのだ。
通常、幼名は家族以外には知られることはない。七歳の誕生日に改めて正式な名をつけられ、初めて王家の者と認められる。だからアデライードの幼名を知るのは、死んだ両親と、あとはユリウスや故郷の兄姉たちと、そしてあと一人だけだ。
(シウリン……?)
あの聖地の森で、七歳の誕生日を迎えて間もなかったアデライードは、ついついシウリンに幼名を名乗ってしまったのだ。
(シウリンから、聞いていたの……?)
角度を変え、より一層深く口づけられ、舌を絡めとられる。アデライードは無意識に男の首筋に腕を回し、強く縋りつく。涙がとめどなく溢れ、頬を伝っていく。
恭親王が右手で目尻の涙を拭い、頬を撫でる。
「……アデライード……愛している……私の……愛しい花嫁……」
男は低く掠れた甘い声で熱っぽく囁くと、再び唇を貪る。舌でアデライードの口腔内を余すところなく嬲り、深く吸う。逞しい身体でアデライードの華奢な身体を壁に押し付け、下肢でアデライードの脚をがっちりと固定し、柱との間でアデライードを挟んで潰すかのように密着して自由を奪う。激しい情熱をまともに向けられ、頭の芯がぼうっとなったアデライードは立っていることもできないほどで、必死に男の首に縋りつく。
(シウリン……ではないと……シウリンは、こんなことは、しない……でも……)
唇から流れ込む恭親王の〈王気〉が体中を蹂躙するように駆け抜け、アデライードの脳が焼き切れる。
(怖い……でも……逃げられ、ない……)
どれくらいの時がたったか。
近づいてくる足音を耳にして、恭親王は名残惜し気に体を離した。月はもう、完全に光を取り戻している。
痺れたようになって茫然と恭親王を見上げるアデライードの耳元で、恭親王が囁く。
「周りを見ない方がいい」
いくつか死体が転がっているのだ。
最後のおまけ、というようにアデライードの唇に軽く口づけてから、恭親王は軽く身を起こし、アデライードを庇うように立つと、侍従文官のトルフィンが声をかけた。
「殿下! 賊は全て捕えるか、斬りました。……ここは……こりゃ手加減なしですか」
「女連れのところに踏み込まれては容赦しないさ」
恭親王は嘯くと、左手の剣を一振りして血糊を落とし、鞘にしまう。
アデライードは柱から離れようとして、大きくふらつき、そのまま恭親王に抱きかかえられる。今更ながら、自分の腰が抜けそうになっていることに気づき、困惑していると、彼の低い声がまた耳元で響き、
「あちこち死体と血だまりがある。お姫様が歩くには不適切だ」
と言って、そのまま膝の裏に腕をいれてふわりと抱きあげられた。アデライードが慌てて恭親王の首に抱き着く。
さきほどの祭壇前の観覧席に戻ってくると、篝火が焚かれて明るさを取り戻し、賓客たちが僧兵とユリウスらに守られ、ひと塊になって怯えていた。近づくと、ユリウスの左腕に血がにじんでいるのがわかり、恭親王は眉を顰める。
「怪我をしたのか」
抱きあげていたアデライードを下ろして聞くと、ユリウスは露骨にほっとした顔でアデライードと恭親王を眺め、言う。
「かすり傷だよ……。君たちが無事でよかった。回廊の方に走って行ったときはどうする気かと思ったが、賊を連れ出してくれたおかげで、こちらはなんとかなった。……しかし、君もすごい返り血だね」
「たいしたことはないさ。……私たちは柱の陰に身を潜めて、いいことしていただけだから」
そう言って恭親王がまだ腰に腕を回したまま、アデライードに向けて片目を瞑ると、アデライードは真っ赤になって俯いてしまう。事情を悟ったユリウスが恭親王に詰めよる。
「……このエロ皇子、非常時に人の異母妹になんてことしてるんだ!」
「おぬしの許可が出ていること以上はしていないよ」
(まあ、舌は入れたし胸も揉んだけどな)
恭親王はユリウスに対し、心の中で舌を出したが、ユリウスは恭親王の腕の中から奪うようにアデライードを自分の側に引き寄せ、腕の痛みに顔を顰めながら恭親王を睨みつける。恭親王は軽く肩を竦めると、周囲を見回し、ゾラとトルフィンから報告を聞いて状況を確認する。幸い、恭親王の配下にはけが人は出なかった。
「それにしても……月神殿で月蝕祭の最中に襲撃を仕掛けるとは、本気で〈禁苑〉に喧嘩を売ったね。……これ、賊から首謀者がイフリート公だって言質が取れたら、破門どころじゃすまないよ」
ユリウスの言葉に、恭親王も同意する。
「それもそうだが、帝国が軍隊を出す名目もできてしまったぞ。……私はまだ、皇位の継承権を放棄していないからな。毒物混入ならいざ知らす、月蝕祭中の月神殿を襲撃されては、もはや出兵しないと帝国のメンツが保てない……イフリート公爵家っていうのは、親子そろって馬鹿なのか?」
「うーん。……息子はともかく、父親の方は堅実な実務家っていう印象だが。ただ、アデライードに対しては、異常なほど始末したがっているけれど……」
恭親王が理解できないのは、この襲撃が成功してアデライードを亡き者にできたとして、どうするつもりだったのか、だ。
月神殿を襲った段階でアルベラとイフリート家は破門だ。証拠がないとか、いろいろ言い抜けるだろうが、イフリート公爵以外にアデライードを襲撃する理由を持つ者がいないし、ここは月神殿の威信にかけても推定有罪で破門だろう。だからアデライードが死んでもアルベラに女王位は行かないのだ。
カイトの報告では、イフリート公爵はアデライードだけでなく、恭親王の命も狙っているという。
〈聖婚〉の皇子王女を殺す。東西の龍種を亡き者にする。
陰陽の交合を妨げ、その調和を乱す。
イフリート公爵は、アルベラの女王位のためにアデライードを殺そうとしているのではない。
今日のことではっきりとわかった。彼は、陰の龍種の血脈を、絶とうとしているのだ。
明確に感じたその意図に、恭親王は思わず身震いする。
およそこの世界において、東西の皇王家の者、金銀の龍種はいわば現人神である。
その存在自体が崇拝の的であり、殺すことは禁じられている。――少なくとも〈禁苑〉の教義としては。
つまり、イフリート公爵の狙いは、アルベラの女王位ではない。
イフリート公爵は、〈禁苑〉と決別するつもりだ。聖なる山、プルミンテルンを頂点とする陰陽の調和された世界を、破壊しようとしているのだ。
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