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一竅
10、破不坐高大牀戒
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シウリンがいる場所は皇后の居室である鴛鴦宮の一角にある。皇子、皇女は結婚するまで、母の宮殿の一室を与えられて住まう決まりだ。
部屋は二間あり、回廊に面した表側が書斎兼居間、奥が寝室と浴室になっている。居間の大きな寝椅子の下は煖坑になっていて、それが寝室と浴室に繋がって部屋を暖める仕組みとなっている。さらに寝室の煖坑の反対側の一角は明りとりの坪庭になっており、その分、寝室はかなり狭い。だがそれでも、かつてシウリンが十人で寝ていた部屋よりはうんと広いのである。
賢親王との対面が済むと、シウリンはメイローズに手伝われて入浴した。居間の煖坑の裏側が竈になっていて、お湯を沸かすことができる。磚敷きの浴室には木製の大きな湯船も備えられており、沸かしたお湯を桶に入れて湯に浸かることができるようになっている。だがそれは要は多くの側仕えを働かせての人海戦術になるわけで、昏睡から目覚めたばかりで側仕えがメイローズ一人きり、という設定の今、大ぴらに入浴するのは不自然である。
と言う訳で、沸かしたお湯で身体を拭う程度で簡単に済ませることにした。メイローズは恐縮そうに言い訳していたが、普段、川か井戸端の水浴びで済ませるだけのシウリンは、お湯を沸かしてもらえるだけでお大尽な気分になった。
メイローズに手伝われ、夜着に着替える。光沢のある絹でできた打ち合わせ式の単衣で、貫頭衣しか着たことのないシウリンは、メイローズに帯を結んでもらう。気慣れないので、すぐに着崩れて脚が肌蹴てしまう。
「下帯はないの?」
というシウリンの質問に、メイローズは可笑しそうに言った。
「殿下のようなご身分の方は、下帯などされませんよ。あれは裸に近い姿で過ごす、下賤の者が着けるものですから」
なるほど、自分は今まで下賤の者であったわけか、とシウリンは一人ごちた。
寝室に帰り、メイローズがお茶を淹れようとしたのを留め、白湯をもらう。さっき出された緑茶は、白湯か薬草茶しか飲んだことのないシウリンには刺激が強すぎた。
椅子に座って白湯を啜っていると、メイローズがテキパキと寝台の準備を整えていく。
この精緻な透かし彫りを満載にした豪華な家具が、寝台だと聞かされてシウリンは茫然としていた。
どうやら先ほど自分は、不坐高大牀戒――大きくて豪華な寝台に寝てはならない――を破っていたらしい。
僧院でのシウリンの寝台は、ちょうど一人分で寝返りも満足に打てない代物だった。寝台とはそういうものだと、彼は考えていた。大きくて豪華な寝台、というのが彼には全くイメージできていなかった。そんなものが、本当にこの世にあったのだ、という気分である。
今朝がたは、知らぬまに運び込まれた上に、それが寝台だと気づかなかったのだから、しょうがないが、これが寝台だと知った以上、もうだめだ。これに寝るわけにはいかない。
「準備が済みましたよ、お休みなさいませ」
メイローズがにこやかに微笑んでシウリンを促す。シウリンは、メイローズが丁寧に整えた羽毛の上掛けを寝台から引き剥がすと、それを身体に巻き付けて寝台の上ではなく、その横の床の上に丸くなった。床とはいえ、毛足の長い絨毯が敷いてあるから、全く痛くもなんともない。一昨日までは板の上に寝ていたのだから。そしてシウリンの特技は目を閉じて三秒で眠ることだ。周囲が騒さかろうが、寒かろうが、意に介することはない。何せ孤児院の十人部屋だ。魔力よりも何よりも、この寝つきの良さこそ、シウリンが天と陰陽に感謝しているものなのだ。
しかし、シウリンが肌掛けにくるまって目を閉じて、一、二、と数えたところで、メイローズの動揺した声に揺り起こされた。メイローズは、主の突然の奇行に驚いて、止めることもできずに茫然と立っていたのだ。
「な、何をなさっているのですか!」
「何って……寝るんだけど……」
「何故、床で!」
「だって、戒律に反するじゃない。こんな大きな寝台」
メイローズが絶句する。
「殿下をこのようなところに寝かせたら、私の首が飛びますよ! お願いですから、寝台で寝てください!」
「ええー」
あからさまに不満そうな顔をすると、メイローズが困ったように、言った。
「殿下はもう、僧侶ではないのですよ。殿下があくまで現状をお拒みになれば、それによって処罰される者も出てまいりましょう」
「処罰するなら、僕を処罰すればいいじゃないの」
「そうは参りません。大抵は、部下や周囲のものが処罰を受けるのです。ですから、お願いですから、寝台でお休みください」
シウリンは眉尻を下げて、困惑した顔でメイローズを見つめる。はあっと大きなため息をつき、言った。
「じゃあ、一つだけ。その殿下っての、やめてくれないかな? デンカさんって人の名前みたいで、落ち着かないよ。それを聞いてくれるなら、寝台で寝るよ」
メイローズはほっとした顔で微笑んだ。
「承知いたしました」
メイローズに助けられて、柔らかな寝台に横たわる。頭上には、豪華な螺鈿の天文図。あのキラキラ光るものが貝であることなど、もちろんシウリンは知らない。
メイローズが肌掛けをかけ、寝具を整え、紗幕を下ろす。そして、言った。
「では、お休みなさいませ、わが主」
「えっ?」
何それ、殿下よりひどいじゃないの!
ぎょっとして固まるシウリンを残し、メイローズは魔力灯の灯りを調節すると、部屋を出ていった。
もう、こうなってしまうと、三秒で眠れるはずのシウリンの能力も発揮できなかった。夕方までずっと眠っていたのだから、眠くないのも無理はないのだが、戒律破りをしていると思うと、全く落ち着いて眠る気にならなかった。
シウリンは一人になり、紗幕に閉ざされた寝台の中で、じっと上を見上げている。薄い紗幕を通して、枕元に置かれた魔力灯が天井の螺鈿の天文図を浮かび上がらせ、虹色の貝が光を反射してキラキラと光る。
(本当の星空みたい……でも、本物じゃない……)
シウリンは聖地の僧院で見上げた満点の星空を思い出す。
これから、どうなるのか。
まるで壊れた道具を取り換えるかのように、シウリンは聖地を連れだされ、これから先ユエリンとして生きるように強要されたのだ。
皇子。皇帝。皇后。親王。宦官。皇宮――。
すべてが今までのシウリンの暮らしとはかけ離れ、いったい何が起こるのか、想像もつかない。
ジュルチ僧都やマニ僧都はどうしているだろうか。院長や僧都が身勝手な迎えの使者に反論してくれた理由も、今ならわかる。
一度捨てた子供を、もう一人が死んだからって取り戻すなんて、勝手極まりない話しだ。
一度も出会うことなく、死んでしまったという双子の兄弟だって、どんな人物だったのかさっぱりわからない。顔は似ているらしいけれど、そんな知らない人物の振りをして生きるなんて、無茶だ。
自分はこの螺鈿の贋物の星空のように、偽りのユエリンとして生きなければならないのだ。
シウリンは暗澹たる気持ちで目を閉じた。懐に隠した、指輪を入れた巾着を握りしめる。
(どうしよう――メルーシナ……僕は、どうなってしまうのだろう?)
さまざまなことがあってシウリンは疲れていたのだろう。結局、そのまますぐに眠りの中に堕ちていった。
部屋は二間あり、回廊に面した表側が書斎兼居間、奥が寝室と浴室になっている。居間の大きな寝椅子の下は煖坑になっていて、それが寝室と浴室に繋がって部屋を暖める仕組みとなっている。さらに寝室の煖坑の反対側の一角は明りとりの坪庭になっており、その分、寝室はかなり狭い。だがそれでも、かつてシウリンが十人で寝ていた部屋よりはうんと広いのである。
賢親王との対面が済むと、シウリンはメイローズに手伝われて入浴した。居間の煖坑の裏側が竈になっていて、お湯を沸かすことができる。磚敷きの浴室には木製の大きな湯船も備えられており、沸かしたお湯を桶に入れて湯に浸かることができるようになっている。だがそれは要は多くの側仕えを働かせての人海戦術になるわけで、昏睡から目覚めたばかりで側仕えがメイローズ一人きり、という設定の今、大ぴらに入浴するのは不自然である。
と言う訳で、沸かしたお湯で身体を拭う程度で簡単に済ませることにした。メイローズは恐縮そうに言い訳していたが、普段、川か井戸端の水浴びで済ませるだけのシウリンは、お湯を沸かしてもらえるだけでお大尽な気分になった。
メイローズに手伝われ、夜着に着替える。光沢のある絹でできた打ち合わせ式の単衣で、貫頭衣しか着たことのないシウリンは、メイローズに帯を結んでもらう。気慣れないので、すぐに着崩れて脚が肌蹴てしまう。
「下帯はないの?」
というシウリンの質問に、メイローズは可笑しそうに言った。
「殿下のようなご身分の方は、下帯などされませんよ。あれは裸に近い姿で過ごす、下賤の者が着けるものですから」
なるほど、自分は今まで下賤の者であったわけか、とシウリンは一人ごちた。
寝室に帰り、メイローズがお茶を淹れようとしたのを留め、白湯をもらう。さっき出された緑茶は、白湯か薬草茶しか飲んだことのないシウリンには刺激が強すぎた。
椅子に座って白湯を啜っていると、メイローズがテキパキと寝台の準備を整えていく。
この精緻な透かし彫りを満載にした豪華な家具が、寝台だと聞かされてシウリンは茫然としていた。
どうやら先ほど自分は、不坐高大牀戒――大きくて豪華な寝台に寝てはならない――を破っていたらしい。
僧院でのシウリンの寝台は、ちょうど一人分で寝返りも満足に打てない代物だった。寝台とはそういうものだと、彼は考えていた。大きくて豪華な寝台、というのが彼には全くイメージできていなかった。そんなものが、本当にこの世にあったのだ、という気分である。
今朝がたは、知らぬまに運び込まれた上に、それが寝台だと気づかなかったのだから、しょうがないが、これが寝台だと知った以上、もうだめだ。これに寝るわけにはいかない。
「準備が済みましたよ、お休みなさいませ」
メイローズがにこやかに微笑んでシウリンを促す。シウリンは、メイローズが丁寧に整えた羽毛の上掛けを寝台から引き剥がすと、それを身体に巻き付けて寝台の上ではなく、その横の床の上に丸くなった。床とはいえ、毛足の長い絨毯が敷いてあるから、全く痛くもなんともない。一昨日までは板の上に寝ていたのだから。そしてシウリンの特技は目を閉じて三秒で眠ることだ。周囲が騒さかろうが、寒かろうが、意に介することはない。何せ孤児院の十人部屋だ。魔力よりも何よりも、この寝つきの良さこそ、シウリンが天と陰陽に感謝しているものなのだ。
しかし、シウリンが肌掛けにくるまって目を閉じて、一、二、と数えたところで、メイローズの動揺した声に揺り起こされた。メイローズは、主の突然の奇行に驚いて、止めることもできずに茫然と立っていたのだ。
「な、何をなさっているのですか!」
「何って……寝るんだけど……」
「何故、床で!」
「だって、戒律に反するじゃない。こんな大きな寝台」
メイローズが絶句する。
「殿下をこのようなところに寝かせたら、私の首が飛びますよ! お願いですから、寝台で寝てください!」
「ええー」
あからさまに不満そうな顔をすると、メイローズが困ったように、言った。
「殿下はもう、僧侶ではないのですよ。殿下があくまで現状をお拒みになれば、それによって処罰される者も出てまいりましょう」
「処罰するなら、僕を処罰すればいいじゃないの」
「そうは参りません。大抵は、部下や周囲のものが処罰を受けるのです。ですから、お願いですから、寝台でお休みください」
シウリンは眉尻を下げて、困惑した顔でメイローズを見つめる。はあっと大きなため息をつき、言った。
「じゃあ、一つだけ。その殿下っての、やめてくれないかな? デンカさんって人の名前みたいで、落ち着かないよ。それを聞いてくれるなら、寝台で寝るよ」
メイローズはほっとした顔で微笑んだ。
「承知いたしました」
メイローズに助けられて、柔らかな寝台に横たわる。頭上には、豪華な螺鈿の天文図。あのキラキラ光るものが貝であることなど、もちろんシウリンは知らない。
メイローズが肌掛けをかけ、寝具を整え、紗幕を下ろす。そして、言った。
「では、お休みなさいませ、わが主」
「えっ?」
何それ、殿下よりひどいじゃないの!
ぎょっとして固まるシウリンを残し、メイローズは魔力灯の灯りを調節すると、部屋を出ていった。
もう、こうなってしまうと、三秒で眠れるはずのシウリンの能力も発揮できなかった。夕方までずっと眠っていたのだから、眠くないのも無理はないのだが、戒律破りをしていると思うと、全く落ち着いて眠る気にならなかった。
シウリンは一人になり、紗幕に閉ざされた寝台の中で、じっと上を見上げている。薄い紗幕を通して、枕元に置かれた魔力灯が天井の螺鈿の天文図を浮かび上がらせ、虹色の貝が光を反射してキラキラと光る。
(本当の星空みたい……でも、本物じゃない……)
シウリンは聖地の僧院で見上げた満点の星空を思い出す。
これから、どうなるのか。
まるで壊れた道具を取り換えるかのように、シウリンは聖地を連れだされ、これから先ユエリンとして生きるように強要されたのだ。
皇子。皇帝。皇后。親王。宦官。皇宮――。
すべてが今までのシウリンの暮らしとはかけ離れ、いったい何が起こるのか、想像もつかない。
ジュルチ僧都やマニ僧都はどうしているだろうか。院長や僧都が身勝手な迎えの使者に反論してくれた理由も、今ならわかる。
一度捨てた子供を、もう一人が死んだからって取り戻すなんて、勝手極まりない話しだ。
一度も出会うことなく、死んでしまったという双子の兄弟だって、どんな人物だったのかさっぱりわからない。顔は似ているらしいけれど、そんな知らない人物の振りをして生きるなんて、無茶だ。
自分はこの螺鈿の贋物の星空のように、偽りのユエリンとして生きなければならないのだ。
シウリンは暗澹たる気持ちで目を閉じた。懐に隠した、指輪を入れた巾着を握りしめる。
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