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二竅
17、側近たちの不安
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「何か殿下の様子に変わったことはないか、ゾーイ」
シウリンの変化は、すぐに現れた。あの日、一日だけ稽古を休んだシウリンは、翌日には普通に稽古に出てきた。そして、あれほど頑なに拒んできた剣を手に取ったのだ。
無言で、練習用の刃を潰した剣を手にしたシウリンは、これから死地に赴く戦士のような悲愴な美しさを漂わせ、ゾーイをどきりとさせた。彼が何か大切なものを永久に手放したのだと、ゾーイは知る。
まるで、自らを鞭打つ苦行に走る聖者のように、シウリンは稽古を求めた。剣の前に己を曝し、古い己を叩き壊し、新たな自分を鍛え上げるかのように、シウリンは稽古にのめり込む。まるで斃れることを望むかのような激しさに、メイガンもゾラも、そしてトルフィンも、幾度も幾度も止めようとする。当然だ。まるで、死に向かうもののように稽古を求めているのだから。
だが、ゾーイはそれに応えた。彼が、何を求めているか、気づいたからだ。
皇子は今、泥濘の中にいる。
自ら望んだことではなく、引きずり込まれた底なし沼に足を取られ、むしろ沈んでいこうという己と戦っているのだ。肉体の苦痛が彼の罪の意識を少しでも和らげるのであれば、剣への精進が彼の折れそうな心を少しでも支えるのであれば、ゾーイは師としてそれに応えねばならない。毎日、ボロボロになるまで剣を合わせ、膝をついて頽れるまで稽古は続く。憑かれたように、狂ったように。
数か月で、シウリンは見違えるほど上達した。どこか優し気で、揺れる木漏れ日のように穏やかだった彼の気は、真冬の凍えた月のように研ぎ澄まされていく。
そして、感情を表に出さなくなった。
時に無防備で愛らしい少女のようだった表情はなりをひそめ、無駄を削ぎ落とした冷たさと、痛々しいほどの自己抑制を身に着けていた。もし、デュクトやゲルフィンの言う通りであれば、この少年の身の内は、今や盛りのついた犬のように荒れ狂っているはずなのに、それを微塵も感じさせなかった。剣を合わせているふとした瞬間、シウリンの黒い瞳に情念の滾りのようなものが垣間見えることもあるが、それもほんの一瞬だ。
稽古が終わり、いつものように風呂に入る。
だが、今までのように無防備に肌に触れさせることはなくなった。
打ち身を確認するゾーイの手を、息を詰めたように見つめているシウリンの目は、まるで真実を暴かれるのを恐れる罪人のように怯える。まるで、己の罪を認めて頭を垂れる死刑囚のように、ゾーイの前にその肌を晒す。嫋やかな乙女のようだったその肢体は、激しい鍛錬に鍛えられ、無駄を削ぎ落して磨かれていく。
デュクトは、無茶な稽古にのめり込む主を苦い顔で見守りながら、時には自らも鍛錬に参加して、シウリンらと剣を交えた。
剛毅で、どこか鷹揚なゾーイの剣と異なり、どこまでも厳格で高雅なデュクトの剣。風のように自由で、飄々としたゾラの剣。
いずれ劣らぬ高手に鍛えられて、シウリンもまた、次第に自らのスタイルを確立しつつあった。
シウリンは閨房教育中の皇子とは思えないほど、己を律していた。
デュクトは、あまりに抑制しすぎて却って危ないと感じていた。だからゾーイにはしつこいほどに、シウリンの様子に変わりがないか確かめる。
「特には、ない。……ただ……これはいつものことなのだが……心ここにあらず、というか、何か、大事なものを投げ捨ててしまったような……何かその……投げやりのような気がするのだが」
ゾーイの言葉に、デュクトは唇を引き結んで一人黙々と剣筋を確かめているシウリンを見て、言った。
「仕方がない。我々は、殿下に、大切なものを捨てるように強要したのだから。……あそこまで自分を律するとは、正直思わなかった。……俺は……もう少し暴れてくれるかと思ったのだがな。このまま……いつか、ぽっきり折れてしまうのではないかと、……正直心配なのだ」
笑顔をほとんど見せなくなったシウリンをゾーイもゾラも心配するが、デュクトは、
「今は仕方がない」
と首を振るばかりだ。そして、絶対に女を近づけないことを何度も念押しして帰っていく。
「女近づけると、どうなるんスかね?」
ゾラがゾーイに尋ねるのに、ゾーイが言った。
「聞いた話だが、皇族の精は龍種の精故に、人の身体には毒なのだ。男はまあ、それほどの問題はないが、女の中でも精気が弱い者には致命的な毒になるらしく、下手をすると死に至る場合があるとか。万一、殿下が精気の弱い女と情を通じ、行為に及んだりすると、女の運が悪いと命に関わることになるらしい」
「あの殿下に限ってそんなことあります?」
横で聞いていたトルフィンが首を傾げる。
「万一、だ」
黙って話を聞いていたゾラが眉根を思いっきり寄せて言った。
「……そのこと、殿下知ってるんすか?」
「そら、知っているんじゃないか?」
ゾーイが答えると、ゾラは訝し気に顔を振った。
「あの殿下のことっすよ、それを知ってるんだったら、万が一にもそんなことにはならねぇと思うけど、あのデュクトって人さ、教えてねぇんじゃね?」
「まさか……」
そうは言いながら、なんとなくありそうなことだと思う。
「俺が思うにさ、殿下、侍女の中に誰か好きな人がいるんじぇねぇ?……で、今は事情も説明されねぇで引き離されてんじゃね? ねえ、俺、その状態が一番ヤバイと思うんすよ」
ゾーイはゾラの言葉に沈黙する。
「皇族の精が毒だっての、割と秘密のお話しじゃね? 俺だって今初めて聞いたっすよ。あのデュクトって人さ、変なこだわりがあるから、そういう話を殿下にはきちんと説明してねぇと思う」
「皇族が龍種だっていうのは、別に秘密じゃなかろう」
ゾーイが窘めると、トルフィンが言った。
「いえ、龍種の精が毒だっていうのは、秘密でしょう。だから後宮の妃嬪は、龍種の血も引く僕ら十二貴嬪家で独占しているわけですけど。大っぴらにはされていない話ですよね。殿下も聞いたことはあるかもしれませんが、意味が理解できているかどうかは、微妙じゃありませんか?」
確かにそうかもしれん、とゾーイは腕を組んで唇を引き結んだ。
ゾーイもまた、何とも言えない違和感をデュクトに覚えていた。一言理由を説明さえすれば、あの皇子のことだ、侍女に対して執着していたとしても、納得してそれを捨てるに違いない。
敢えて、必要な情報を与えずに、徒に苦しめているような、そんな気がしてならなかった。
(あの、正傅の考えていることが、俺にはよくわからない……)
ゾーイとゾラ、そしてトルフィンはこの時、デュクトを問い詰めなかったことを、深く悔いることになる。
シウリンの変化は、すぐに現れた。あの日、一日だけ稽古を休んだシウリンは、翌日には普通に稽古に出てきた。そして、あれほど頑なに拒んできた剣を手に取ったのだ。
無言で、練習用の刃を潰した剣を手にしたシウリンは、これから死地に赴く戦士のような悲愴な美しさを漂わせ、ゾーイをどきりとさせた。彼が何か大切なものを永久に手放したのだと、ゾーイは知る。
まるで、自らを鞭打つ苦行に走る聖者のように、シウリンは稽古を求めた。剣の前に己を曝し、古い己を叩き壊し、新たな自分を鍛え上げるかのように、シウリンは稽古にのめり込む。まるで斃れることを望むかのような激しさに、メイガンもゾラも、そしてトルフィンも、幾度も幾度も止めようとする。当然だ。まるで、死に向かうもののように稽古を求めているのだから。
だが、ゾーイはそれに応えた。彼が、何を求めているか、気づいたからだ。
皇子は今、泥濘の中にいる。
自ら望んだことではなく、引きずり込まれた底なし沼に足を取られ、むしろ沈んでいこうという己と戦っているのだ。肉体の苦痛が彼の罪の意識を少しでも和らげるのであれば、剣への精進が彼の折れそうな心を少しでも支えるのであれば、ゾーイは師としてそれに応えねばならない。毎日、ボロボロになるまで剣を合わせ、膝をついて頽れるまで稽古は続く。憑かれたように、狂ったように。
数か月で、シウリンは見違えるほど上達した。どこか優し気で、揺れる木漏れ日のように穏やかだった彼の気は、真冬の凍えた月のように研ぎ澄まされていく。
そして、感情を表に出さなくなった。
時に無防備で愛らしい少女のようだった表情はなりをひそめ、無駄を削ぎ落とした冷たさと、痛々しいほどの自己抑制を身に着けていた。もし、デュクトやゲルフィンの言う通りであれば、この少年の身の内は、今や盛りのついた犬のように荒れ狂っているはずなのに、それを微塵も感じさせなかった。剣を合わせているふとした瞬間、シウリンの黒い瞳に情念の滾りのようなものが垣間見えることもあるが、それもほんの一瞬だ。
稽古が終わり、いつものように風呂に入る。
だが、今までのように無防備に肌に触れさせることはなくなった。
打ち身を確認するゾーイの手を、息を詰めたように見つめているシウリンの目は、まるで真実を暴かれるのを恐れる罪人のように怯える。まるで、己の罪を認めて頭を垂れる死刑囚のように、ゾーイの前にその肌を晒す。嫋やかな乙女のようだったその肢体は、激しい鍛錬に鍛えられ、無駄を削ぎ落して磨かれていく。
デュクトは、無茶な稽古にのめり込む主を苦い顔で見守りながら、時には自らも鍛錬に参加して、シウリンらと剣を交えた。
剛毅で、どこか鷹揚なゾーイの剣と異なり、どこまでも厳格で高雅なデュクトの剣。風のように自由で、飄々としたゾラの剣。
いずれ劣らぬ高手に鍛えられて、シウリンもまた、次第に自らのスタイルを確立しつつあった。
シウリンは閨房教育中の皇子とは思えないほど、己を律していた。
デュクトは、あまりに抑制しすぎて却って危ないと感じていた。だからゾーイにはしつこいほどに、シウリンの様子に変わりがないか確かめる。
「特には、ない。……ただ……これはいつものことなのだが……心ここにあらず、というか、何か、大事なものを投げ捨ててしまったような……何かその……投げやりのような気がするのだが」
ゾーイの言葉に、デュクトは唇を引き結んで一人黙々と剣筋を確かめているシウリンを見て、言った。
「仕方がない。我々は、殿下に、大切なものを捨てるように強要したのだから。……あそこまで自分を律するとは、正直思わなかった。……俺は……もう少し暴れてくれるかと思ったのだがな。このまま……いつか、ぽっきり折れてしまうのではないかと、……正直心配なのだ」
笑顔をほとんど見せなくなったシウリンをゾーイもゾラも心配するが、デュクトは、
「今は仕方がない」
と首を振るばかりだ。そして、絶対に女を近づけないことを何度も念押しして帰っていく。
「女近づけると、どうなるんスかね?」
ゾラがゾーイに尋ねるのに、ゾーイが言った。
「聞いた話だが、皇族の精は龍種の精故に、人の身体には毒なのだ。男はまあ、それほどの問題はないが、女の中でも精気が弱い者には致命的な毒になるらしく、下手をすると死に至る場合があるとか。万一、殿下が精気の弱い女と情を通じ、行為に及んだりすると、女の運が悪いと命に関わることになるらしい」
「あの殿下に限ってそんなことあります?」
横で聞いていたトルフィンが首を傾げる。
「万一、だ」
黙って話を聞いていたゾラが眉根を思いっきり寄せて言った。
「……そのこと、殿下知ってるんすか?」
「そら、知っているんじゃないか?」
ゾーイが答えると、ゾラは訝し気に顔を振った。
「あの殿下のことっすよ、それを知ってるんだったら、万が一にもそんなことにはならねぇと思うけど、あのデュクトって人さ、教えてねぇんじゃね?」
「まさか……」
そうは言いながら、なんとなくありそうなことだと思う。
「俺が思うにさ、殿下、侍女の中に誰か好きな人がいるんじぇねぇ?……で、今は事情も説明されねぇで引き離されてんじゃね? ねえ、俺、その状態が一番ヤバイと思うんすよ」
ゾーイはゾラの言葉に沈黙する。
「皇族の精が毒だっての、割と秘密のお話しじゃね? 俺だって今初めて聞いたっすよ。あのデュクトって人さ、変なこだわりがあるから、そういう話を殿下にはきちんと説明してねぇと思う」
「皇族が龍種だっていうのは、別に秘密じゃなかろう」
ゾーイが窘めると、トルフィンが言った。
「いえ、龍種の精が毒だっていうのは、秘密でしょう。だから後宮の妃嬪は、龍種の血も引く僕ら十二貴嬪家で独占しているわけですけど。大っぴらにはされていない話ですよね。殿下も聞いたことはあるかもしれませんが、意味が理解できているかどうかは、微妙じゃありませんか?」
確かにそうかもしれん、とゾーイは腕を組んで唇を引き結んだ。
ゾーイもまた、何とも言えない違和感をデュクトに覚えていた。一言理由を説明さえすれば、あの皇子のことだ、侍女に対して執着していたとしても、納得してそれを捨てるに違いない。
敢えて、必要な情報を与えずに、徒に苦しめているような、そんな気がしてならなかった。
(あの、正傅の考えていることが、俺にはよくわからない……)
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