64 / 255
三竅
12、不遇な皇子
しおりを挟む
その秋、皇子たちが巡検に出かけてガランとした後宮内で、シウリンは新たな鍛錬仲間である成郡王を加え、いっそう剣術に馬術に精進を重ねた。
稽古が終わると練武場の脇の湯殿で汗を流し、それぞれ小宦官を一人伴って後宮に帰る。成郡王は相変わらず宮に居場所がないと言って、鴛鴦宮に入り浸る日々が続く。
「母上はさ……皇帝陛下の寝所に侍ったのは一回だけなんだよね」
「そうなの?」
秋の深まる四阿で、〈陰陽〉の盤を囲みながら、成郡王が言う。
「そう……母上がご寵愛を被った直後に、皇后陛下が後宮にお入りになって……陛下は夢中になってしまわれたそうだよ。それまでご愛寵を受けていた妃嬪たちの宮も、忽ち閑古鳥が鳴いたってさ」
パチン、と成郡王が黒い石を盤上に置く。
「それなのに、僕を身籠って……陛下にお話した時に、陛下は烈火の如くお怒りになられたそうだよ」
「なんで?」
子を沢山生すために、後宮なんてものまで営んでいるのである。子ができたからといって、怒る理由がわからない。
「一度しか抱いてないのに、あり得ないってさ」
皇帝と伯爵家出身の宮女では、魔力が違い過ぎて子ができにくい、というのはセオリーではあった。皇帝は宝林の不貞を疑ったのである。
だが、本当の怒りの理由はおそらく違う。皇帝は初めて愛した女を手に入れた直後に、その女以外の腹から己の子が生まれることを疎んだのだ。
宝林の不貞の疑いはすぐに晴れた。宝林は入宮して二年以上、後宮外に出たこともなく、また彼女のいた宮は多くの宮女がひしめいており、外部から男が侵入することもあり得ない。妊娠月を計算すればそれは皇子たちが巡検に出ている期間であり、後宮内に男がほとんどいない時期に当たっていた。皇帝が気まぐれに召した夜以外には考えられなかった。
だが、それから皇子は不遇であり続けた。ほぼ一年の後に、寵愛を独占する皇后が玉のような皇子を生み、皇帝の関心はそちらに集中して、宝林の生んだ皇子など、見向きもされない。
「ずっと名前すら付けてもらえなくてね、十四って呼ばれてたらしいよ」
自嘲気味に笑うと、成郡王は卓に置かれた菊花茶の茶碗を取り上げて、一口飲んだ。
「僕ね、君を恨んだこともあるんだよ。君が生まれて来なければ、せめて、君の生まれるのがもう少し遅かったら、僕と母上はもう少し、後宮の中でまともに扱ってもらえたかもしれないのにって」
しかも皇后所生の皇子は見かけだけは素晴らしく美しかったが、中身は傲慢で、冷酷だった。
「小侯院でもずっと苛められてさ。君が落馬して死にそうだって聞いたときは、部屋の扉を全部締め切って、部屋の中で万歳三唱したよ……こんな僕、ひどいと思うかい?」
シウリンは無言で首を振る。ユエリンが大概嫌なヤツだったことは、いろいろと聞き及ぶだけでわかる。実際にはもっとひどかっただろう。
「それよりも、何も憶えていない僕の方が、ひどいと思うんじゃないの?」
成郡王はあはは、と口を開けて笑った。
「あの時は吃驚したよ。本当に憶えていないんだねぇ。まるで別人みたいに親切になっちゃって」
「別人だよ」
シウリンがパチン、と白い石を盤上に置いて。
「人間の心って何でできてると思う? 記憶だよ。いろんな体験をして、それを記憶して、知識も性格も変わっていく。記憶が全部なくなったら、全然別の人だと思わない?」
実際には、シウリンは全てを憶えている。十二歳まで育った、聖地の僧院の暮らしを。自分は、ユエリンではない、という記憶を。
「……ねえ、新しい秀女はどうなの?」
シウリンは話を変えた。
「うーん。可もなく、不可もなく、かな。歳は二つ上かな。悪くないよ。僕の側室にはなるつもりがないみたいだけど」
くすくす、と成郡王が微笑む。
「でも、もういいよ。しばらく側室はおくつもりもないし」
「……まだ、石竹が好きなの?」
「ううん。違う。でも、今のは特に好きじゃない。好きじゃなくてもできるんだなって、思うだけ……ユエリンは、好きなのはいないの?」
「いないなあ」
パチリ、パチリ、と石が置かれていく。
「好きな子としたいって思わないの?」
正面から真っ直ぐに見つめられて、シウリンはちょっと怯んだ。それから、少し考える。
好きな子――。
すぐに、思いつくのは、彼女だ。
森の中の、あの子。白金色の髪に、翡翠色の瞳の、〈メルーシナ〉。
妖精のように綺麗な、もう、二度と会えない子。
「……好きな子とあんな醜い行為はできないな」
シウリンが眉間に皺を刻んで言うと、成郡王は目を見開いた。
「そうなの……?」
「だってそうだろう。あんな、いかがわしくて汚らわしい行為を、本当に好きな子になんて……」
シウリンは美しい顔に嫌悪感をありありと浮かべて言った。
彼女は、神聖だ。今やここまで汚れた自分が、手も触れることすら恐ろしい。何より彼女はとても幼い。あんな汚らわしい行為を強いれば、彼女を容易に壊してしまうに違いない。
「じゃあ、一生、好きな子とはしないつもりなの?」
シウリンは眉を顰める。彼女を寝台に引きずり込むことを想像するだけで、とんでもない冒瀆のように思われる。彼女と、あんな行為は必要ない。触れるだけで、心が蕩けるほど、甘かった。あの思い出だけで、十分――。
「質問を変えるよ、ユエリン。……ずっと、好きでもない女とだけ、するつもりなの?」
今度は、シウリンが目を見開いた。
「本当は……誰ともしたくない」
「それは、無理だよ。皇后陛下はもう、君の花嫁の選定に入っているという、噂だよ?」
「花嫁? 僕の?……僕が、結婚?」
「そうだよ、皇后陛下はもちろん、皇帝陛下だって、君を次の皇帝にしたいと考えておられる」
全身の血が、頭から引いていくように思われた。
結婚――? 僕が?ユエリンとして――?
『あなた以外とは、結婚しません』
自分の為した誓いが蘇える。遥か遠い、聖地の、冬枯れの森の中。
ふいに、みぞおちに焼け付くような痛みが走り、シウリンは碁石を落として四阿の床に倒れ込んだ。
「ユエリン、ユエリン! どうしたの?! 誰か、ユエリンがっ!」
成郡王が慌てて人を呼ぶ声が、やけに遠くに聞こえた。
稽古が終わると練武場の脇の湯殿で汗を流し、それぞれ小宦官を一人伴って後宮に帰る。成郡王は相変わらず宮に居場所がないと言って、鴛鴦宮に入り浸る日々が続く。
「母上はさ……皇帝陛下の寝所に侍ったのは一回だけなんだよね」
「そうなの?」
秋の深まる四阿で、〈陰陽〉の盤を囲みながら、成郡王が言う。
「そう……母上がご寵愛を被った直後に、皇后陛下が後宮にお入りになって……陛下は夢中になってしまわれたそうだよ。それまでご愛寵を受けていた妃嬪たちの宮も、忽ち閑古鳥が鳴いたってさ」
パチン、と成郡王が黒い石を盤上に置く。
「それなのに、僕を身籠って……陛下にお話した時に、陛下は烈火の如くお怒りになられたそうだよ」
「なんで?」
子を沢山生すために、後宮なんてものまで営んでいるのである。子ができたからといって、怒る理由がわからない。
「一度しか抱いてないのに、あり得ないってさ」
皇帝と伯爵家出身の宮女では、魔力が違い過ぎて子ができにくい、というのはセオリーではあった。皇帝は宝林の不貞を疑ったのである。
だが、本当の怒りの理由はおそらく違う。皇帝は初めて愛した女を手に入れた直後に、その女以外の腹から己の子が生まれることを疎んだのだ。
宝林の不貞の疑いはすぐに晴れた。宝林は入宮して二年以上、後宮外に出たこともなく、また彼女のいた宮は多くの宮女がひしめいており、外部から男が侵入することもあり得ない。妊娠月を計算すればそれは皇子たちが巡検に出ている期間であり、後宮内に男がほとんどいない時期に当たっていた。皇帝が気まぐれに召した夜以外には考えられなかった。
だが、それから皇子は不遇であり続けた。ほぼ一年の後に、寵愛を独占する皇后が玉のような皇子を生み、皇帝の関心はそちらに集中して、宝林の生んだ皇子など、見向きもされない。
「ずっと名前すら付けてもらえなくてね、十四って呼ばれてたらしいよ」
自嘲気味に笑うと、成郡王は卓に置かれた菊花茶の茶碗を取り上げて、一口飲んだ。
「僕ね、君を恨んだこともあるんだよ。君が生まれて来なければ、せめて、君の生まれるのがもう少し遅かったら、僕と母上はもう少し、後宮の中でまともに扱ってもらえたかもしれないのにって」
しかも皇后所生の皇子は見かけだけは素晴らしく美しかったが、中身は傲慢で、冷酷だった。
「小侯院でもずっと苛められてさ。君が落馬して死にそうだって聞いたときは、部屋の扉を全部締め切って、部屋の中で万歳三唱したよ……こんな僕、ひどいと思うかい?」
シウリンは無言で首を振る。ユエリンが大概嫌なヤツだったことは、いろいろと聞き及ぶだけでわかる。実際にはもっとひどかっただろう。
「それよりも、何も憶えていない僕の方が、ひどいと思うんじゃないの?」
成郡王はあはは、と口を開けて笑った。
「あの時は吃驚したよ。本当に憶えていないんだねぇ。まるで別人みたいに親切になっちゃって」
「別人だよ」
シウリンがパチン、と白い石を盤上に置いて。
「人間の心って何でできてると思う? 記憶だよ。いろんな体験をして、それを記憶して、知識も性格も変わっていく。記憶が全部なくなったら、全然別の人だと思わない?」
実際には、シウリンは全てを憶えている。十二歳まで育った、聖地の僧院の暮らしを。自分は、ユエリンではない、という記憶を。
「……ねえ、新しい秀女はどうなの?」
シウリンは話を変えた。
「うーん。可もなく、不可もなく、かな。歳は二つ上かな。悪くないよ。僕の側室にはなるつもりがないみたいだけど」
くすくす、と成郡王が微笑む。
「でも、もういいよ。しばらく側室はおくつもりもないし」
「……まだ、石竹が好きなの?」
「ううん。違う。でも、今のは特に好きじゃない。好きじゃなくてもできるんだなって、思うだけ……ユエリンは、好きなのはいないの?」
「いないなあ」
パチリ、パチリ、と石が置かれていく。
「好きな子としたいって思わないの?」
正面から真っ直ぐに見つめられて、シウリンはちょっと怯んだ。それから、少し考える。
好きな子――。
すぐに、思いつくのは、彼女だ。
森の中の、あの子。白金色の髪に、翡翠色の瞳の、〈メルーシナ〉。
妖精のように綺麗な、もう、二度と会えない子。
「……好きな子とあんな醜い行為はできないな」
シウリンが眉間に皺を刻んで言うと、成郡王は目を見開いた。
「そうなの……?」
「だってそうだろう。あんな、いかがわしくて汚らわしい行為を、本当に好きな子になんて……」
シウリンは美しい顔に嫌悪感をありありと浮かべて言った。
彼女は、神聖だ。今やここまで汚れた自分が、手も触れることすら恐ろしい。何より彼女はとても幼い。あんな汚らわしい行為を強いれば、彼女を容易に壊してしまうに違いない。
「じゃあ、一生、好きな子とはしないつもりなの?」
シウリンは眉を顰める。彼女を寝台に引きずり込むことを想像するだけで、とんでもない冒瀆のように思われる。彼女と、あんな行為は必要ない。触れるだけで、心が蕩けるほど、甘かった。あの思い出だけで、十分――。
「質問を変えるよ、ユエリン。……ずっと、好きでもない女とだけ、するつもりなの?」
今度は、シウリンが目を見開いた。
「本当は……誰ともしたくない」
「それは、無理だよ。皇后陛下はもう、君の花嫁の選定に入っているという、噂だよ?」
「花嫁? 僕の?……僕が、結婚?」
「そうだよ、皇后陛下はもちろん、皇帝陛下だって、君を次の皇帝にしたいと考えておられる」
全身の血が、頭から引いていくように思われた。
結婚――? 僕が?ユエリンとして――?
『あなた以外とは、結婚しません』
自分の為した誓いが蘇える。遥か遠い、聖地の、冬枯れの森の中。
ふいに、みぞおちに焼け付くような痛みが走り、シウリンは碁石を落として四阿の床に倒れ込んだ。
「ユエリン、ユエリン! どうしたの?! 誰か、ユエリンがっ!」
成郡王が慌てて人を呼ぶ声が、やけに遠くに聞こえた。
21
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる