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2、イフリートの野望

契約*

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 その世界はかつて、人と魔が交じり合って暮らしていた。
 男も女も、善も悪も交じり合い、混沌として未分化で、自然のままにそこにあった。
 人は無垢で無欲、腹鼓はらつづみを打ち、地面を踏み鳴らし、ただ生きることに喜びを見出す。
 あるがままを受け入れ、不足を恨まず、余分を貪らず、争いもなかった。

 ある時、異界の真人カミが世界に降り立ち、光が生まれた。光によって闇が生じ、昼と夜、陰と陽とが分かたれた。形がはっきりとし、影ができる。男女は区別され、人と魔は隔てられる。
 人は自然を失い、知恵を得て欲望が世に溢れる。他者から奪って我が不足を満たし、互いに争いが絶えなくなる。
 異界の真人が世を領有しろしめし、人はふるき神々を棄て、陰陽の奴婢へと成り下がった――。





 物心ついた時には、彼女にはもう、名前も過去も家族も、何もなかった。

 遥かに遠い心の片隅に、名前らしきものを呼ばれていた記憶の残滓がへばりついているが、あまりに微かでそれをつかみ取ることもできない。人類である以上親もいたはずだが、名前らしきものの残滓と同様、ほのかに遠いぬくもり以上の記憶はない。以下、彼女が自身の生い立ちは、記憶ではなく、カシラから聞かされた、知識だ。

 頭によれば、年齢は二十歳になるはずだ。売られた時に三歳だと言っていて、それから十七年の月日が経つのだから。彼女を売り飛ばしたのが親なのか、あるいは人攫いかは知らないという。頭が言うには、健康で敏捷そうに見えたから、買った。ただ、それだけ。

 それ以来、彼女は〈乙の一二八七〉と呼ばれてきた。甲が男で、乙が女。女の、千二百八十七番目。

 日々課せられるのは厳しい訓練。身体を鍛え、走り、戦いの技を磨く。人体の構造を理解し、人を殺す方法を学ぶ。ありとあらゆる毒薬の知識を仕込まれ、他人を誑かす術を会得する。人ではなく、ただの道具として。組織のために命を投げ出す、心のない生きた武器となるために。
 
 暗部として一人前になるまで生き残るのは、集められた子供たちの半分以下。多くは過酷な訓練や環境に命を落とす。虐めや死刑リンチの標的になって、襤褸裂ぼろきれのように死ぬ。仲間への愛も、命への思い入れも何もないから、ただ面白半分に甚振いたぶられ、ちょっとの加減の間違いで死ぬ。〈乙の一二八七〉も、十三の歳に少し年上の少年たちの気晴らしのために輪姦された。一緒に輪姦された〈乙の一二七五〉は、妊娠に気づかぬまま流産して、血塗れで死んだ。子供たちには命の価値など存在しないのだ。

 〈黒影〉となる儀式を受けることができるのは、ごく一部だけ。そのほかは、ただの武器として使い捨てにされる。回収されることのない、毒の塗られたやじりに同じ。〈黒影〉になれば、それよりは少しだけ、長く生きられる。

 十八の歳、彼女は晴れて〈黒影〉になる〈儀式〉を受けることになった。〈儀式〉を受け、無事に契約を済ませば、本格的に仕事に就く。黒い巻き付け式の長衣を着せられ、連れていかれたのは、神殿の最深部。
 すでに、黒い服を着た男たちが数十人、彼女を待ち受けていた。その中央に、立派な貴族の装束に身を固めた赤い髪をした男が立っていて、傲慢そうな紫紺の瞳で、彼女を値踏みするように見た。

 部屋には篝火が焚かれ、祭壇に置かれた大理石の神像に焔の影が揺らめく。祭壇の前の床に、赤い魔法陣が描かれていた。錫のゴブレットに満ちる紅い液体を渡され、飲み干すように命じられた。
 
 異様な雰囲気に気圧され、震える両手でゴブレットを口元に運ぶ。ドロッとして飲み難いそれを必死に飲み干せば、瞬時に視界が反転した。

 気づけば、魔法陣の上でその貴族の男に犯されていた。信じられない程の快楽が肉体を蝕み、衆人環視の中で聞くに堪えないような、淫らな声をあげて何度も絶頂する。男の紫紺の瞳が蔑むように自分を見下ろしている。冷めきった冷たい目――。
 
 男が、自分の中に放ったのを感じる。全身を焼き尽くされるような熱と痛みに悲鳴を上げる。心臓に杭を打たれ、縛り上げられるような苦痛。あの時の痛みを思えば、どんな拷問にも耐えられる。それほどの痛みだった。

『我に誓え、絶対の忠誠と、秘密の保持を――』
『ち、誓います……』
『契約は為された。汝は永遠に我が下僕しもべなり――』

 左の乳房の下のあたり、ちょうど心臓の位置に、炎に包まれる赤い蜥蜴とかげ刺青いれずみが浮かびあがる――これが、契約の証。

 しかし、儀式はそれでは終わらなかった。

 その後、その場にいた男たちに、夜通し犯され続けた。主の精を分かつのだと言って――。




 イフリートの〈黒影〉は、イフリート家に忠誠を誓い、泉神殿に仕える者。
 泉神は神世より続く、この世界のふるき神。地の底から湧き出で、地上にあまねく恩沢をもたらす。地に満ち溢れ、野を潤し、森をはぐくむ。みなもとを発して小川となり、大河へと姿を変え、やがては大いなる海へと注ぐ。陰と陽のはざまに生きる、水の恵み。人も、魔も、すべての命を癒し、飲み込んでいく神。

 いつの日か、人は陰陽の頸木くびきを逃れ、ふるき神々の名の下に世界を取り戻す。
 その時、人と魔の交わる〈混沌〉の平和が世に現れる――。




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