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4、カンダハルの海戦
混ぜるな危険
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翌日。
総督府を発つ恭親王を、アデライードは総督府の玄関まで見送りに出た。港まで、と言うのを彼が留めたのだ。
「あなたの姿を目にすると、出陣する気がなくなってしまいそうだから――」
そう微笑んで、アデライードの唇に軽く触れるだけのキスをする恭親王を、やはり見送りに出たエンロンら文官はあーあ、という顔で肩を竦める。ゲルフィンに至っては眉間に皺をよせ、こめかみに青筋が浮いていた。
忍耐力のないゲルフィンがわざとらしい咳払いをするまで、二人の抱擁は続いた。
総督と主だった騎士たちが港へと去った後、どこかガランとした総督府の玄関で、アデライードは夫を見送った姿勢のまま、茫然と立ち尽くしていた。
「――姫様、お部屋に帰りましょう」
背後にいたアリナに声をかけられ、アデライードははっとして振り返る。見れば、副総督のエンロンや兵站担当のゲルフィンは、アデライードが奥に入らないために下がることもできないのだ。
「……あ、す、すみません……」
少し俯いて、それでもその場を動くことができずにいた。
とうとう、戦争になる。
聖地の修道院で育ったアデライードにとって、戦争は遠い物語の中の話。だが今、金属鎧に身を固めた恭親王や騎士たちを目にして、初めて現実だと理解できた。
自分を、女王位につけるために、夫は船に乗って戦争に出かける。
自分の夫だけではない。アリナの夫も。正傅のゲルも。男たちは家族を残して戦いに行く。全て、自分を女王にするために。
――そんなこと、望んでいないのに。戦争してまで、女王になりたくないのに。
アデライードは自分の身体を見下ろして、その身に纏う銀色の〈王気〉を視る。
望んで、王家の血を引いて生まれたわけではないのに。どうして、こんな身の上に生まれてしまったのか。せめて自ら剣を帯びて戦えるような人間だったら。人を死地に送り込み、自分は安全な場所で守られ続けるだけなんて、本当に無力で情けない――。
儚い溜息をついたアデライードを、アリナが気遣うように背中に手をあてて撫でてくれた。
「心配はいりません。殿下はお強いですし、ゾーイもついておりますから」
優しく微笑んだアリナの黒い瞳を見て、アデライードはアリナの母が恭親王の異母姉なのだと思い出す。
――せめて、周囲に迷惑をかけないようにしなければ。
こくんと頷いて、アデライードは踵を返す。背後にいたエンロンに微笑みかけ、ふと隣の片眼鏡をかけた男の顔を見る。アデライードは片眼鏡が珍しいと思って、無意識に見つめてしまう。
「……何か、私の顔についていますか?」
ゲルフィンはソリスティアに入ってから、アデライードとはほとんど接点を持たなかった。出陣前に衆人環視のもとでいちゃつくなんて見苦しいと、ついつい口調には毒が含まれる。普段ならすかさずトルフィンがフォローを入れるのだが、彼は兵站の都合でシルルッサまで同行して、不在であった。その場にいたエンロンもアリナも、仮にも親王妃にまで嫌味を吹っかけるゲルフィンに驚いて、咄嗟に言葉が出てこない。しかし、当のアデライードは翡翠色の瞳でじっとゲルフィンを見つめ、小首を傾げてにっこりと笑った。
「ええ。ついてますよ?……変わった眼鏡が」
アデライードは純粋に好奇心だけで口にしているのだが、周囲はピキンと音がつくほど凍りつく。
(警戒警報! 混ぜるな危険!!)
エンロンの中で、危険を告げるサイレンが鳴り響く。この二人は触れるだけで大爆発を起こす、反物質レベルの相性の悪さだ。アデライードは嫌味耐性が高いというより、要は嫌味に対して鈍感すぎるのだ。そしてゲルフィンの方は、予想外の反撃を喰らって「ほう」と口の中だけで呟き、底意地の悪そうな笑みを浮かべる。
(いや、違う、姫君にはそんなつもりはない!別に反撃したわけじゃない!)
エンロンが背中に冷や汗をかいている一方で、アデライードは小動物のようにこてんと首を傾げるだけだ。その仕草は、女に対して偏見しかないゲルフィンにとっては、白痴美系のあざとい女にしか見えない。
見かけは美しいが脳みそは空っぽ、男は全て自分を崇めたてると信じているに違いない。こんなバカ女の外見に騙されて、恭親王まですっかり骨抜きとは、みっともない――。
他の誰でもなくゲルフィンが、アデライードの外見に騙されて、彼女の頭が弱いと決めつけていた。
ゲルフィンは神経質そうな眉をそびやかし、冷ややかに言う。
「……そんなに珍しいですかね?」
若い女なら誰しも、びくりと背筋を伸ばすような、氷のような冷たい声だったが、しかし、アデライードは全く動じなかった。
「ええ、とっても。だって初めて見たわ。アンジェリカの言ってた、〈変わった眼鏡をかけてる人〉ってあなたのことね? どんな眼鏡なのかしら、ってずっと気になってたの!」
アデライードは興味津々といった表情で、まじまじとゲルフィンの片眼鏡を見つめる。翡翠色の瞳が好奇心でキラキラして、ゲルフィンの思惑など、全く気にしていないようだ。
「……それは……私が珍しいという意味で?」
「ええっ? 珍しくないの? もしかして、東の帝都ではその変な眼鏡が流行っているの?」
アデライードは振り返って、アリナやエンロンに尋ねる。
「いえ、まさか……」
「やっぱり! じゃあ、あなただけの特殊な眼鏡なのね。すごいわ、自分で設計なさったの? どうして片目だけにしていらっしゃるの? もしかして片目だけが悪いのかしら? それ、落っことさないでずっとつけていて、顔の片側だけ引き攣ったりしないのかしら」
普段の無口が嘘のように、矢次早に質問するアデライードに、アリナもエンロンも圧倒されて言葉もない。そうだ、この姫君は変なところで好奇心が強いのだと、エンロンはようやく思い出す。
「あのアンジェリカが〈変な眼鏡〉って言ってただけはあるわ。ねえ、アリナさん」
ニコニコと話しかけられて、アリナも蒼白になる。ゲルフィンのこめかみにはっきりと青筋が浮いていたからだ。
もともと、ゲルフィンは女が苦手である。彼は妻をこよなく愛しているが、対処が下手すぎてすっかり拗れてしまった。それ以来、女と名のつくものがさらに苦手になった。
やかましいし、愚かしいし、鬱陶しい。
無学な女など、相手にするだけ時間の無駄だし、さりとて女のくせに学問などしても、小賢しいだけだ。
女は部屋に籠って刺繍でもしていろ。
そういうゲルフィンにとって、ソリスティアの総督府は我慢ならない場所であった。
まず、ちらりと見かけたアデライード姫は、見かけだけは輝くような、いわゆる白痴美だった。これが女王などと、世も末だ。親友のゾーイがようやく結婚した相手は、なんと男装の女騎士で、あまりの非常識にゲルフィンは絶句した。従弟のトルフィンの妻ミハルは、生意気にも書庫の本を借り出すために、恭親王の書斎にまで出入りしている。極めつけは騎士や商人の娘上がりの平民の侍女たち。廊下をわがもの顔でペチャクチャ喋りながら歩いていて、喧しいといったらない。さすがに怒鳴りつけずにはいられなかった。
こんなに風紀が乱れているのも、恭親王が姫君に骨抜きにされて、女たちを付けあがらせているせいだ。しかも、どうやら姫君の部屋では、ゲルフィンのことを「変な眼鏡の男」として、話のネタにしてこき下ろしているらしい。
馬鹿にしていた女たちに、実は馬鹿にされていたと知り、プライドの高いゲルフィンは硬直する。
だがアデライードはそんなゲルフィンの内面には全く頓着せず、本当に見かけだけは美しい――これだけはゲルフィンと言えども認めざるを得なかった――輝くような笑顔で、嫣然と言い放った。
「わたし、人の顔を憶えるのが苦手だけど、その変な眼鏡のおかげで、あなたのことは一目で憶えたわ。その眼鏡はずっとしておいてね?」
アデライードは、立ち尽くすエンロンにも美麗な笑顔を振りまいて、何事もなかったように奥へと入っていく。
その後ろ姿を見送って、エンロンは密かに頷いた。
(――げに恐ろしきは鋼鉄の鈍感力。無心にして、かつ無神経――姫君の圧勝だ)
蒼白な表情でプルプル震えているゲルフィンを横目に見ながら、エンロンは腹の底から沸き上がる笑いの発作を、懸命に堪えるのであった。
総督府を発つ恭親王を、アデライードは総督府の玄関まで見送りに出た。港まで、と言うのを彼が留めたのだ。
「あなたの姿を目にすると、出陣する気がなくなってしまいそうだから――」
そう微笑んで、アデライードの唇に軽く触れるだけのキスをする恭親王を、やはり見送りに出たエンロンら文官はあーあ、という顔で肩を竦める。ゲルフィンに至っては眉間に皺をよせ、こめかみに青筋が浮いていた。
忍耐力のないゲルフィンがわざとらしい咳払いをするまで、二人の抱擁は続いた。
総督と主だった騎士たちが港へと去った後、どこかガランとした総督府の玄関で、アデライードは夫を見送った姿勢のまま、茫然と立ち尽くしていた。
「――姫様、お部屋に帰りましょう」
背後にいたアリナに声をかけられ、アデライードははっとして振り返る。見れば、副総督のエンロンや兵站担当のゲルフィンは、アデライードが奥に入らないために下がることもできないのだ。
「……あ、す、すみません……」
少し俯いて、それでもその場を動くことができずにいた。
とうとう、戦争になる。
聖地の修道院で育ったアデライードにとって、戦争は遠い物語の中の話。だが今、金属鎧に身を固めた恭親王や騎士たちを目にして、初めて現実だと理解できた。
自分を、女王位につけるために、夫は船に乗って戦争に出かける。
自分の夫だけではない。アリナの夫も。正傅のゲルも。男たちは家族を残して戦いに行く。全て、自分を女王にするために。
――そんなこと、望んでいないのに。戦争してまで、女王になりたくないのに。
アデライードは自分の身体を見下ろして、その身に纏う銀色の〈王気〉を視る。
望んで、王家の血を引いて生まれたわけではないのに。どうして、こんな身の上に生まれてしまったのか。せめて自ら剣を帯びて戦えるような人間だったら。人を死地に送り込み、自分は安全な場所で守られ続けるだけなんて、本当に無力で情けない――。
儚い溜息をついたアデライードを、アリナが気遣うように背中に手をあてて撫でてくれた。
「心配はいりません。殿下はお強いですし、ゾーイもついておりますから」
優しく微笑んだアリナの黒い瞳を見て、アデライードはアリナの母が恭親王の異母姉なのだと思い出す。
――せめて、周囲に迷惑をかけないようにしなければ。
こくんと頷いて、アデライードは踵を返す。背後にいたエンロンに微笑みかけ、ふと隣の片眼鏡をかけた男の顔を見る。アデライードは片眼鏡が珍しいと思って、無意識に見つめてしまう。
「……何か、私の顔についていますか?」
ゲルフィンはソリスティアに入ってから、アデライードとはほとんど接点を持たなかった。出陣前に衆人環視のもとでいちゃつくなんて見苦しいと、ついつい口調には毒が含まれる。普段ならすかさずトルフィンがフォローを入れるのだが、彼は兵站の都合でシルルッサまで同行して、不在であった。その場にいたエンロンもアリナも、仮にも親王妃にまで嫌味を吹っかけるゲルフィンに驚いて、咄嗟に言葉が出てこない。しかし、当のアデライードは翡翠色の瞳でじっとゲルフィンを見つめ、小首を傾げてにっこりと笑った。
「ええ。ついてますよ?……変わった眼鏡が」
アデライードは純粋に好奇心だけで口にしているのだが、周囲はピキンと音がつくほど凍りつく。
(警戒警報! 混ぜるな危険!!)
エンロンの中で、危険を告げるサイレンが鳴り響く。この二人は触れるだけで大爆発を起こす、反物質レベルの相性の悪さだ。アデライードは嫌味耐性が高いというより、要は嫌味に対して鈍感すぎるのだ。そしてゲルフィンの方は、予想外の反撃を喰らって「ほう」と口の中だけで呟き、底意地の悪そうな笑みを浮かべる。
(いや、違う、姫君にはそんなつもりはない!別に反撃したわけじゃない!)
エンロンが背中に冷や汗をかいている一方で、アデライードは小動物のようにこてんと首を傾げるだけだ。その仕草は、女に対して偏見しかないゲルフィンにとっては、白痴美系のあざとい女にしか見えない。
見かけは美しいが脳みそは空っぽ、男は全て自分を崇めたてると信じているに違いない。こんなバカ女の外見に騙されて、恭親王まですっかり骨抜きとは、みっともない――。
他の誰でもなくゲルフィンが、アデライードの外見に騙されて、彼女の頭が弱いと決めつけていた。
ゲルフィンは神経質そうな眉をそびやかし、冷ややかに言う。
「……そんなに珍しいですかね?」
若い女なら誰しも、びくりと背筋を伸ばすような、氷のような冷たい声だったが、しかし、アデライードは全く動じなかった。
「ええ、とっても。だって初めて見たわ。アンジェリカの言ってた、〈変わった眼鏡をかけてる人〉ってあなたのことね? どんな眼鏡なのかしら、ってずっと気になってたの!」
アデライードは興味津々といった表情で、まじまじとゲルフィンの片眼鏡を見つめる。翡翠色の瞳が好奇心でキラキラして、ゲルフィンの思惑など、全く気にしていないようだ。
「……それは……私が珍しいという意味で?」
「ええっ? 珍しくないの? もしかして、東の帝都ではその変な眼鏡が流行っているの?」
アデライードは振り返って、アリナやエンロンに尋ねる。
「いえ、まさか……」
「やっぱり! じゃあ、あなただけの特殊な眼鏡なのね。すごいわ、自分で設計なさったの? どうして片目だけにしていらっしゃるの? もしかして片目だけが悪いのかしら? それ、落っことさないでずっとつけていて、顔の片側だけ引き攣ったりしないのかしら」
普段の無口が嘘のように、矢次早に質問するアデライードに、アリナもエンロンも圧倒されて言葉もない。そうだ、この姫君は変なところで好奇心が強いのだと、エンロンはようやく思い出す。
「あのアンジェリカが〈変な眼鏡〉って言ってただけはあるわ。ねえ、アリナさん」
ニコニコと話しかけられて、アリナも蒼白になる。ゲルフィンのこめかみにはっきりと青筋が浮いていたからだ。
もともと、ゲルフィンは女が苦手である。彼は妻をこよなく愛しているが、対処が下手すぎてすっかり拗れてしまった。それ以来、女と名のつくものがさらに苦手になった。
やかましいし、愚かしいし、鬱陶しい。
無学な女など、相手にするだけ時間の無駄だし、さりとて女のくせに学問などしても、小賢しいだけだ。
女は部屋に籠って刺繍でもしていろ。
そういうゲルフィンにとって、ソリスティアの総督府は我慢ならない場所であった。
まず、ちらりと見かけたアデライード姫は、見かけだけは輝くような、いわゆる白痴美だった。これが女王などと、世も末だ。親友のゾーイがようやく結婚した相手は、なんと男装の女騎士で、あまりの非常識にゲルフィンは絶句した。従弟のトルフィンの妻ミハルは、生意気にも書庫の本を借り出すために、恭親王の書斎にまで出入りしている。極めつけは騎士や商人の娘上がりの平民の侍女たち。廊下をわがもの顔でペチャクチャ喋りながら歩いていて、喧しいといったらない。さすがに怒鳴りつけずにはいられなかった。
こんなに風紀が乱れているのも、恭親王が姫君に骨抜きにされて、女たちを付けあがらせているせいだ。しかも、どうやら姫君の部屋では、ゲルフィンのことを「変な眼鏡の男」として、話のネタにしてこき下ろしているらしい。
馬鹿にしていた女たちに、実は馬鹿にされていたと知り、プライドの高いゲルフィンは硬直する。
だがアデライードはそんなゲルフィンの内面には全く頓着せず、本当に見かけだけは美しい――これだけはゲルフィンと言えども認めざるを得なかった――輝くような笑顔で、嫣然と言い放った。
「わたし、人の顔を憶えるのが苦手だけど、その変な眼鏡のおかげで、あなたのことは一目で憶えたわ。その眼鏡はずっとしておいてね?」
アデライードは、立ち尽くすエンロンにも美麗な笑顔を振りまいて、何事もなかったように奥へと入っていく。
その後ろ姿を見送って、エンロンは密かに頷いた。
(――げに恐ろしきは鋼鉄の鈍感力。無心にして、かつ無神経――姫君の圧勝だ)
蒼白な表情でプルプル震えているゲルフィンを横目に見ながら、エンロンは腹の底から沸き上がる笑いの発作を、懸命に堪えるのであった。
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