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6,夏至

皇后シルフィエラ

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 鴛鴦宮の自室に監禁されて、皇后は放心したように長椅子に座り込んでいた。
 皇帝が三月の末ごろから体調を崩していたが、それが五月に入って一気に悪化した。年齢も年齢であるから、彼女も覚悟はしていた。だが、毎朝の恒例になった乾坤宮への見舞いの折に、皇帝からはある決意を知らされた。

 ――皇太子を廃嫡し、ユエリンに帝位を譲る。ロウリンはイフリート家のものと繋がっている。至尊の位を譲ることはできぬ。

 先日、息子が瀕死の重傷を負ったのはイフリート家の刺客に襲われたせいだと言うが、西の女王国の一公爵家が帝国に楯突く意味が理解できなかった。ただ曖昧に微笑みながら、彼女は言った。

 ――陛下の、お心のままに。

 皇太子側を警戒させぬよう、重病ということにして息子ユエリンと皇太子の息子に帰還命令を出した。ユエリンが帝都に到着するタイミングで皇太子を廃嫡にし、ユエリンを皇太子に冊立する。

 三公九卿を招集して、皇太子廃嫡の詔を発する。その儀式の最中に、皇宮を警備する皇宮近衛の一軍が乱入し、司徒以下の高官たちを殺戮した。軍機大臣として、皇帝の名代として太極殿にいた賢親王は皇太子の謀叛だと推測し、即刻乾坤宮に走り、武官家の当主たちもそれに続いたという。だが乾坤宮にはすでに別の一軍が乱入しており、親衛隊の奮戦も虚しく、皇帝は凶刃に倒れた。

 皇帝弑殺――。

 五十年以上に渉る、未曾有の繁栄を帝国にもたらした偉大なる皇帝の、あまりにあっけない最期。
 逃げ延びてきた宦官の報せを鴛鴦宮で聞き、ただ為すすべもなく震えていた皇后は、突如現れた見知らぬ黒衣の男によって囚われ、乾坤宮に連れていかれた。

 そこで目にしたのは、寝台に血塗れで息絶えている夫と、身代わりの贋物だと弾劾される息子。だが息子は表情一つ変えることなく、陰陽から与えられた不思議な〈聖剣〉こそ、自分が皇子である証だと言い放った。

 息子の左の掌から、忽然と現れた、〈聖剣〉。
 彼が〈聖婚〉の皇子として、天と陰陽より授けられた神秘の剣。人の手の作り得ぬもの。
 身代わりの皇子に過ぎなかった彼は、母たる彼女の庇護の腕をすり抜け、天と陰陽の加護を手にしていた。その時に、皇后は気づいた。

 ――すべてが、天と陰陽の大いなる意図によって、初めから決められていたのだ。

 彼女の子が、双子であったことも。生きていたのに、一人は死産だと告げられて聖地に棄てられたことも。死んだ子の分までと、持ちうる愛情の全てを注いだユエリンが短い一生を終えたことも。そして、死んだはずのシウリンを、身代わりの皇子として迎え入れたことも。

 ――思えば、自身の運命もまた、自己の意志とは関係のなく定められたものだ。

 皇后は長椅子の肘掛に肘をつき、左手の薬指に嵌めた、黄金に紅玉ルビーを散りばめた指甲套付け爪を撫でる。雪のように白い肌は齢四十の歳を迎えてもなお滑らかで、切れ長の目の長い睫毛をもの憂げに伏せた様子は、少女のように清新なままであった。

 十六で皇后として後宮に入り、二十四年。ブライエ家の娘として、後宮暮らしは覚悟の上ではあった。だが、三十以上も歳の離れた今上帝に仕える身になると聞かされた時は、シルフィエラと呼ばれた頃の、うら若き皇后は内心、落胆しないではなかった。

 ――エリン兄様が皇帝になって、その後宮に入れるならどれほどよかったか。

 十歳年上の従兄、第三皇子のエリンを、幼いシルフィエラは実の兄のように慕っていた。それはいつしか淡い恋に変わる。しかし、エリンの妻になるにはシルフィエラは歳が離れ過ぎ、かつ血が濃過ぎた。皇太子位争いに敗れた一親王である彼が、ブライエ家の娘を娶るのは余計な憶測を生む。――初めから、絶対に実ることのない恋と、諦める以外になかった。

 それなのに――。

 まさかエリンの父親に嫁ぐことになろうとは。自身の運命の皮肉に、乾いた笑いすら出た。
 皇后としての栄華と引き換えに、失った恋。初恋の相手に義母としてかしずかれる虚しさを、だが、彼女はけして表に出すことはしなかった。

 今上帝はエリンによく似ていた。いや、エリンが父親似だと言うべきなのだが、そのおかげで自身の父親よりも年上の男に抱かれる嫌悪感は予想よりもなくて、溺愛される皇后の像を彼女はうまくこなしてきたはずだと、自分でも思う。信じられないほどあっさりと懐妊し、双子の男児を生んだ。一人は死産ではあったがそのことは公には秘され、健康な男児生誕とのみ、発表された。初恋の従兄によく似た、その異母弟となる息子を腕に抱き、自分はこういう運命さだめであったのだと、妙な諦観に見舞われていた。
 自分はブライエ家出身の皇后という記号にすぎない。恋も感情も、すべて仮面の内側に封じ込め、深宮の奥に生きていくしかないのだと――。

 皇帝のお召で乾坤宮に伺候し、常のように宦官の先導で皇帝の寝所へと入り、夫の訪れを待つ。薄い扉一枚隔てた向こうは書斎で、皇帝はまだ正殿での執務をこなしているようであった。
 やがて、執務を終えた皇帝は、賢親王エリンを伴って戻ってきた。皇后は、二人の話を聞くともなく聞いていた。

『ユエリンは、そなたによう、似ておる。そなたが生まれた時のことを思い出し、感慨もひとしおじゃ。皇后は、故皇貴妃、そなたの母によう似ていると評判であったから、あれが産んだ男児であれば、そなたにも似ていようと思っていたが、予想どおりであった』
『――私の、母に似ているから、後宮にお入れになったのですか? その、恐れながら、そこまで母をご寵愛であったと言う話はとくに――』

 躊躇いがちに皇帝に尋ねる従兄の声が微かに震えていることに、皇后は思わず両手で胸を押さえる。

『いや――正直に申せば、そなたの母に格別の思い入れはない。朕は、そなたによく似た子をもう一人得たいと思ったのだ。――さまざまな要因で、そなたを皇太子に立てることができなかった。それを今でも悔いておる。ロウリンに皇帝の器がないことは、もはや疑いを容れぬ。だが、今さら太子を廃し、そなたを立てれば、群臣は割れよう。故に、新たにブライエ家より皇后を立てた。思ったとおり、皇后の産んだユエリンは、そなたの幼い頃に生き写しだ。いずれはユエリンに位を伝えたい。そなたが補佐についてくれれば、朕も後顧の憂いなく、プルミンテルンの峰に旅立てよう』

 後頭部を鈍器で殴られたような衝撃に、皇后は必死に堪えた。
 彼女が密かに恋した従兄によく似た息子を生むために、彼女は皇后に据えられた。立太子できなかった従兄の代わりに、至尊の位を伝えるために。

 女である皇后は、第二皇子と第三皇子のどちらを立太子するかで、朝廷が二つに割れかけた事実を知らない。有能さより安定が選ばれ、結局は皇后所生の兄が太子に立った。その選択を皇帝がどれほど悔いたところで、今更太子を換えれば更なる混乱が起こる。だから――。

 後継者問題は、帝王の最大にして最後の悩み。絶対者であればあるほど、その選択は思うに任せぬものとなる。

 その苦悩を薄々感じながらも、しかし皇后はどこかで恨まずにいられなかった。
 皇帝が、皇太子にエリンを選んでいれば――。自分は、違う人生を生きたであろうに。

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